ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

日本とトルコの違い

2008-06-30 05:08:30 | Public
1923年の建国以来、「政教分離」を原理原則、変更不可能な条文として
憲法に盛り込んで、西洋化、民主主義徹底を図り、
経済発展が順調なトルコ。
最近の経済成長率は7%とか。

そんなトルコで最近、イスラム教政党が支持を集め、
政権をとるという事態になっている。
2007年の総選挙で、イスラム系政党・公正発展党(AKP)の圧勝。
これは、よく言われる「ナショナリズム」みたいなものなのか?

―――NHKスペシャル「沸騰都市・イスタンブール」を見て思った。
これはもしかして、日本で起こっていることと元は同じではないかと。

経済成長重視で、底辺層の庶民、貧民に施策―――社会保障政策―――の行き渡らない
国に対する反発、というものだ。
宗教への支持は、彼らの「施し」に需要があるということ。
「施し」への需要があるというのは、経済格差があり、それを国がカバーしていないということ。

同様の宗教需要が紹介された記事が、今朝の中日にもあった。
「いったい政府が何をしてくれた?
 ムスリム同胞団が助けてくれるなら、
 オレはいつでも支持する」
カイロでは、食料価格高騰もあって政府による「補助金パン」が不足。
原理主義団体による食料提供活動が活発になっている、という記事だ。
食料危機で得をするのはヒスボラ。
貧者救済の資金を、イランから好きなだけ集められる、とも。

イスラム教の、ヒスボラの援助がもらえない日本はどうすればよいのか?
それなら一層、政府を利用しなければならなくなる。
政策・制度を利用した「共助」、すなわち社会保障政策で
金持ちから援助してもらうのだ。

それを、日本では誰も訴えない。
民主党も、共産党も。

この間、社内の67歳のおじ(い)さんと政治の話を振られて、
「今選挙があったら、あなたはどこに投票する?」と聞かれた。
「うーん、民主党といいたいけれど、民主党はイマイチなことしか言ってないし。
 選挙区次第ですかねぇ、自民党なのかなぁ」
と答えた。
「○○さんはどうしますか?」

「わたしは絶対民主党だね。政権交代しなくちゃだめだ。
 小泉政権で日本はおかしくなってしまった。」

この言葉を聞いて、考えてみた。シンプルに。

小泉政権がおかしかった、それが貧困者を作った、という認識がある。
で、小泉政権が何をしたかといえば「小さな政府作り」だった。

それに異を唱えて、民主党に投票しようという。
でも、彼らが唱えているのは、「もっと小さな政府」。
子供のいる家庭への補助金や年金制度の充実など、
「生活が第一」と言っているけど、彼らはそれにかかる財源を
「行政の無駄を省く」ということだけでやると言っているのだから。

おかしいでしょう。

もっと小さな政府にすることで、大きな政府を作る?

おかしいこと言ってるぞ、とせめて新聞社くらいには言ってほしい気がする。
この中日春秋は、うんうん、と思ったけど
http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2008062802000086.html
その日の社説は、「無駄は必ず潜んでいる」とか言って
ただの単純な政府批判だ。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2008062802000088.html


先生のうけうりばかり並んだ気もするけど、
でも、そういうことなんだと思う。


「仕事をすると、視野がすごく広がるよ」
と先輩が言う。
さあどう変わるだろうか。
「やっぱり年金からの保険料天引きはおかしい」と
思うのだろうか?(そんなのやだなぁ)


・・・
追伸

日が昇った。
4時半、久しぶりに見る日の出。
東に面した、アパート2階のベランダからは
ばっちり正面にそれを見られる。
昨夜どっさり雨が降ったから、きれいな空気の中から出てきた。
やっぱり、3連休は千葉に帰ろうかな。
それで、また麻生さんと、九十九里浜に朝日を見に行こう。

・・・昼間に寝すぎて、「つい」徹夜してしまったけど
今日は2時出勤だから大丈夫でしょう。

この人―――(同期入社の)Y.Yさん

2008-06-28 11:50:32 | Public
新聞記者でなければ、医療関係の仕事をしようと思っていた。
「人の命、人生に関わるという点では一緒。人間というものが好きなんだと思う」。
この春新聞社に入社。
現在名古屋で記者研修中である。

短めのボブカットに、相手を真っすぐにとらえる目。
活発な人という印象だが、高校まで他人と交わるのが苦手だったと言う。
それが浪人時代に変わった。

いろいろなことが重なった。
祖母の死去、失恋、知人の引きこもり―― 一人で考える時間もたくさんあった。
「人間には思いがけないことが起こるものだ」と知ったとき、人間への興味が深まった。
「受験勉強そっちのけで一人哲学してましたね」と笑う。

もうひとつの転機は大学時代、オーストラリアへ半年間留学していたときだ。
成人式を迎える日本人留学生に、こっそり彼らの両親から手紙を取り寄せ、渡すというイベントを企画した。
読み上げるたびに再現される、それぞれの思い出の場所、時間。
いつしか会場全員が思いを共有し、涙していた。
「言葉ってすごい」。ビジュアルでなく、言葉にしか伝えられないものの重み。
自然と記者の仕事にたどり着いた。

「事件の被害者などの、埋もれがちな事実や思いを書きたい。
 読者が行動を変えるきっかけとなれば」と事件記者を目指している。
埼玉県出身、二十三歳。


・・・
研修中の課題で、新人同士が取材しあい、『この人』コラムを書いた。
よく新聞で見る、ある人を取り上げてのどかに描く囲み記事である。

取材については、普段はまじめに、遠慮せずに根掘り葉掘り聞けないことを聞けて、
ワクワクする瞬間がいくつもあった。
書いてみての反省は、「ストーリー性」、論理性みたいなものに
いつのまにかこだわりすぎていたような気がする。
50行で、その人そのまま描くのは難しい。ある面、個別のストーリーに固執するのは
仕方ない、とも思う。

取材されてみての感想。ナイーブなこと、本質的なこと(どういう人間か、
どうして新聞社か、といったこと)を聞かれると、
本能的に(?)理解してもらいたい、と思ってしまった。
普通の会話では「まあ、わかってもらえなくても別にいいけど」と思う部分って多い。
その部分を「こういう体験もあって、このときこう考えたことが、こう影響して
こういう判断をしたんだと思う」といったようなこと、全部言ってしまう・・・質問されなくても。
一方で、なるべく質問されてないことは答えないようにもしていたけど(なんとなく)。
だから、私のことを取材して書いた彼女は、けっこう混乱というか、変な、つじつまの
合わない人のように私のことを思ったかもしれない。

彼女が書いた原稿を読んだら、まずすごく文章が上手で、読ませる文章だった。
感服、というか・・・。
内容について取材された側としては、「まるで私、超インテリみたい」と感じた。
彼女は彼女で、私の一部分を切り取ったんだろう。

人間、一面だけを知っても、面白くないものだ。
複数面あって、その組み合わせの意外性と言うか、「そうきたか」というところが
面白いのだと思う。
細身で静かな声で話す、家ではヒーリング音楽聴くような彼が、
上級テニスプレーヤーだったり、
常に歩くのが早くて、早口でばしばし取材している先輩が、
登山好きだったり。

と考えると、「この人」という毎日新聞で載る欄で
「犬と散歩が至福のとき」とか、趣味や家族のことによく触れているのは
納得できる。
私はどうすれば、取材相手の彼女の「違う側面」を書けたかなぁ。

以上、研修報告でした。

日本の原発導入の舞台裏

2008-06-28 09:58:57 | Book

日本は、世界で唯一の被爆国となった。
加えて、1954年には「第5福竜丸」という漁船がビキニ環礁で
アメリカ水爆実験の「死の灰」をかぶり、被爆。
やがて日本全国に反米、反原子力の運動が広がり、
署名は3000万人に上ったほどの規模になった。

その6年後の1960年、日本は原子力の平和利用といって
東海村に発電所の建設に着手

―――あの反米感情はどこへ行ったのか?なぜ原子力利用が実現したのか?
(この工事への着手は、イギリスよりちょっと遅く、フランスやカナダなど
 他の戦勝国とほぼ同じくらいの早さだった。)

答えは、
 ・アメリカの原子力政策が、戦後「原子力知識、技術の国外流出厳禁」というものから
  「Atoms for Peace」、すなわち「平和利用のためなら、知識も技術も、
  ときにはお金もお貸ししますよ、平和利用万歳」というものへ変わったから
  名づけて原子力のマーシャルプラン。
  その裏には、ジェネラル・ダイナミクス社といった原子力大手の企業がかかわっていた。
  1954年にはIAEA設立

 ・それはソ連が、1949年、1953年とそれぞれ原爆、水爆の開発に成功したと
  公表したことが直接的原因。ソ連の先を走り続けるより、知識・技術を開放して、
  その教授先の国の研究をコントロールする方が得策と考えたから。  

 ・日本(とドイツ)には本気で技術供与をするつもりはなかった
  (戦前の技術力からして、アメリカを超える可能性も大きかったから)

 ・が、第5福竜丸事件など、大反米、反原子力の風潮は困る。
  原子力メーカーにとっては日本は大きなマーケット。

という背景の中で、日本の中の反原子力潮流を変え、原子力発電の導入に動き、
実現させた人物―――が、正力松太郎。警視庁警務部長、読売新聞の経営者、
日本テレビ設立、衆議院議員、初代科学技術庁長官の、正力である。
アメリカ側のお膳立てが、CIAだった。

その方法は、お察しのとおり、というところか。
「ついに太陽をとらえた」とする原子力平和利用の是を説いた連載をしたり、
ディズニーが『わが友 原子力』という映画を作ったり、それを正月に放映したり。

それにしても、正力松太郎しかり、務台光男しかり、渡辺恒雄しかり。
こういう人間でないとトップになれないということか。

なんだか、単純明快に利己的人間過ぎて、面白みのない読み物ではあった。
ひとつの常識なんだろう、覚えていて損はないかも。

――――『原発・正力・CIA――機密文書で読む昭和裏面史』/有馬哲夫
  

雨の松本・諏訪散策

2008-06-27 11:44:57 | Private・雑感
諏訪湖には、諏訪大社という古い神社があります。
正確には、下諏訪に「諏訪大社下社」の、春宮、秋宮があり、
上諏訪に「諏訪大社上社」の、本宮、前宮という4つの神社があります。

その昔の昔、
出雲大社にいた大国主という神が、そこを出て行けと
タケミカヅチノミコトという神に言われたのだという。
もちろん大国主は怒る。
その息子、建御名方命(たけみなかたのみこと)と
そのタケミカヅチノミコトを相撲で決着させようということになり、
残念ながら息子は負けてしまった。

負けてしまった建御名方命がやってきたのが諏訪だったのだそうな。

・・・という古事記にある記述は、
「天皇(出雲の国)をトップとした律令国家」づくりのために
作り出されたらしく、本当は土着の神だった、というのが定説らしい。

相撲で決着、というところがいいね。
で負けた神にもかかわらず、武神として崇められ、武田信玄も
深く信仰していたというのは不思議。
いろんなストーリーの読み方があるのかしら。


で面白いと思ったのがその後。

高嶋城という、諏訪湖の元湖畔にある、埋め立てられる前は「浮城」と呼ばれていた
小さな城に行って知ったこと。

諏訪大社は、下社、上社それぞれで、世話役(?)の神宮一族が
力を持ち、武士化していったというのだ。
上社一族、下社一族で争いもあったが、どこかで折り合いがついて
諏訪氏と名乗るようになる。
そこで有力武士となった諏訪氏は、諏訪頼重のころ、最盛期をむかえ、
頼重の妹は和睦の印として武田信玄へと嫁いでいる。

そんな努力もむなしく、信玄はその諏訪に奇襲をかける・・・。


この頼重にいたるまでがなかなか面白くて、
(上社、下社を放火したりとか)
高嶋城でみんな読み入ってしまった。

それにしても「神主が武士化」なんて、
よくあることだったのだろうか?面白いと思ったのだけど。
日本の神々が「土着の神」っていうところがポイントなのかな。
ギリシャ神話に出てくる神、ゼウスがどこかの有力貴族に
力をさずけた、みたいなことは聞いたことがない。(あるのかも)
もしや日本人の土地神話、土地信仰はこんなところにも端を発していたりして。


この1年、かなり城を見ている気がする。

昨夏、姫路城、高知城、松山城。
3月に岐阜城、4月に名古屋城、先月、彦根城、先週、松本城、高嶋城。
計8つ!

彦根城は、内堀もほぼ完全に残っているし、
こじんまりと緑に囲まれていてよかったな。
迫力では姫路城、
開放度では高知城。

追記になるが、ふらっと行った、松本にある旧制松本高校の跡地、
にある旧制高校博物館も面白かった。誰もいなかったけど。

今週は夜勤ウィークで、午後4時出社、午前3時あがり、とかなので
何が困るって、帰りに買い物もいけないので
家に食べ物がない。
でも買い物に出かける気にもならない。

昨日は、もちろん翌朝26日付の新聞を作っていたのだが、
26日って、もう6月が終わるってことに気づいて、非常にびっくりしてしまった。

どうりで髪が伸びるわけだ。

今月も阪神が好調でありますように。

東南アジアについてのメモ

2008-06-25 11:47:25 | Public
あまりにも日本の中部圏限定で知識が増えていくことに
抵抗して、東南アジアの歴史、という本を読んだ。
ぼんやりと頭にあった疑問は2つ。

①なぜ、アンコールなど16世紀くらいまでは比較的栄えていたように見える
 東南アジア地域は、経済的に衰退したのか。

②なぜ、軍事政権というものが生まれるのか。

理解していないところも多いが、メモ書き程度に本のまとめ。

・・・



 東南アジアが元来栄えた土地だったのは、インドと中国という大国の
間に位置していたからだ。ヒト、モノ、文化が往来していたことで、
自然と交易によって栄えていった。

 このような状況の大転換となったのが、大航海時代だ。

 それまで、コメに加えて胡椒の産出も大きかった地方では、高級品として
胡椒がやりとりされていた。大航海時代になっても、最初のうちは
(16世紀はじめから17世紀末頃)胡椒の商品価値はそれなりに高かった。

 しかし大航海時代は、スペイン、ポルトガルによる南米開発を伴い、
それによって大量の銀がヨーロッパに流入。通貨として用いられていた胡椒は、
自然と重宝されなくなった。一般消費財として安く、ヨーロッパに輸出される
ものとなった。

 ・・・
 その後に輸出品としてメインとなっていったのが、コメ、コーヒー、砂糖、タバコなど。
ヨーロッパにおける嗜好品を作るようになる。インドネシアにオランダが東インド会社を
設立したのが1602年。彼らの指導があってのことだろう。
これらの作物は、強力な土地支配を伴うものだった。



 第二次世界大戦後に東南アジア諸国で起こったものは、西欧的なものへの反発、
「伝統への回帰」であった。ここには共産主義の影響もあったのかもしれない。
伝統への回帰を求めるということは、多様性ではなく、ひとつの方向を目指すことである。
カリスマ性を持つ政治家、中央集権化によって強権政治体制が出来、
経済開発の名の下に「開発独裁」が許容されるようになった。

 この風潮と時を同じくして現れたのが、ベトナム戦争、「ベトナム特需」である。
(風潮のもとには西欧への反発があったのに、)親米政権=特需の恩恵、というわけで
親米派、≒軍事派閥が力を持つようになった。

・・・

やはり歴史の本は苦手だ。
これもあれも、という要因が書いてあって、頭の中を整理しにくい。
上に書いたものも、はずれではないのだろうけどイマイチわかりやすい文章でもないなぁ。

まあ、とりあえず。

裁判員制度(1)

2008-06-19 11:54:30 | Public
2009年から裁判員制度が始まる。
これに関する(私の)疑問は大まかに、

・なぜ導入されるのか
 ・目的は何か
 ・目的に対して、裁判員制度という方法以外に何があったのか
  (そしてなぜ裁判員制度という方法が取られたのか)
・日本の裁判員制度の特徴は何か

など。
裁判員制度に関して名古屋地裁の裁判官の人の講演を聞く機会があり、
最高裁判所が作ったパンフレットをもらったのをきっかけに、
考えてみようと思う。

まずは、最高裁のパンフレット「裁判員制度―ナビゲーション」から
気になった点、覚えておきたい点を書きとめてみる。

●目的(意義、と書いてある)

1)刑事裁判意対する国民の信頼を確保し、その基盤を強固にするため

:刑事裁判への信頼は今まで、「裁判官、検察官、弁護人の専門性への
 信頼」であって、裁判自体の内容を吟味した上での信頼ではなかった。
 医療の世界でも、専門家である医者がインフォームド・コンセントとして
 医療行為の説明をするのが「潮流となる時代」である。・・・

2)裁判の内容を、より多角的で深みのあるものにする

←深み、って何でしょう

●対象

「刑事事件」のうち「重大な犯罪」の、「第一審」。
この裁判のうち「事実認定」(被告人が有罪か無罪かを決めること)と、
「量刑」(どのような刑にするか)を判定する。

:重大な犯罪とは、殺人、強盗致死傷、放火、身代金目的誘拐、危険運転致死罪 など

←第二審の高裁では裁判員制度は導入されない。
 第一審への不信から、第一審の形骸化(一審は予行演習、二審が本番、というようなこと)
 になりはしないか?

●評決方法

裁判員6人、裁判官3人による多数決で、事実認定、量刑を行う。
(アメリカの場合は全員一致が必要)

でも、裁判員のみが有罪を支持、裁判官が全員無罪を支持の場合は
多数決で有罪が勝っていても、無罪判決

量刑は、どの意見も過半数に満たないとき、一番重い量刑の支持者数と
次に重い量刑の支持者数を足して、過半数を満たせば
「次に重い量刑」が判決となる。

●裁判員の選任
毎年12月に、翌一年間に選任される可能性のある人のリストを発表、通知。
辞退理由がある人などは記入して返送。

事件があり、起訴されてから、1事件に対しそのリストから50~100人に
「質問表」を郵送。遅くとも裁判の6週間前。
裁判の日程を見て、「無理」と言う人はその理由などを書いて返送。
無理じゃない人、無理とは認められなかった人は、裁判の日の午前中、「選任手続き」のために
裁判所に出向き、人によっては「どうして無理なのか」を
裁判官に申し出る。ここには「検察官及び弁護士も同席し、理由を示さないで、4人まで
不選決定を請求できる」。

←最後の部分は、なぜ設けられたのだろう。


陪審員制度=評決には裁判官は参加しない、全員一致が原則、量刑は決めない
参審員制度=裁判官も参加、罪責と量刑の両方を決定

・・・
これらの基礎知識を元に、もう少し調べてみます。

ちなみに、他国の状況は
陪審:アメリカ(植民地時代から)、イギリス(13世紀から)
参審:フランス(フランス革命後から)、ドイツ(1840年代から、最初は陪審)、イタリア(1948年から)

参考)
最高裁判所『裁判員制度』
http://www.saibanin.courts.go.jp/news/navigation.html
日弁連(世界各国の市民参加制度)
http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/column1.html

まだ見てないけど
司法制度改革審議会
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report/ikensyo/index.html
平野龍一『刑事法研究 最終巻』
http://www.amazon.co.jp/%E5%88%91%E4%BA%8B%E6%B3%95%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%88%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%B7%BB%E3%80%89-%E5%B9%B3%E9%87%8E-%E9%BE%8D%E4%B8%80/dp/4641042306



45対2

2008-06-01 23:22:37 | Private・雑感
足の甲 誰も知らない 日焼け跡


販売店実習を38日間、屋久島への旅5日間、帰ってきて社会人もどきを2日、休日を2日。
すなわち、ユニクロ38+5+2=45、スーツ2。
まだ、だらだらそわそわした気持ちです。
身体も、だらだらそわそわしていて困ります。

焦らせる存在がないと気持ちが持続しない私に、
「もしかして、今、県立図書館にいる?」
という友人のメールは効きました。
はい、私は映画館にいました。
私も、勉強しますね。

というわけで、ネットが開通しました。
まだ暮らしにくい名古屋(と大いに住みにくい部屋)が
少しは暮らしやすくなるといいのだけど。

ハンティング・パーティ

2008-06-01 23:21:02 | Movie
リチャード・ギアの顔がなんとなく好きなのは、
あの東洋的な細めの目のせいかもしれない。
そんなことを考えながら、映画館を出て、高架をくぐった。

そんな余韻しか残らなかったのは、ちょっと残念な気もする。

何はともあれ、いつか必ずボスニアには行ってみたいと思う。
ボスニア紛争であった出来事を、一冊二冊本を読んだところでいまいち
うまく記憶も整理も出来ないのは、
日本とボスニアの地理的な距離に加えて、「民族」ってものが
よくわかってないからじゃないかと思うのだ。

ヨーロッパにいるとき、行っておけばよかったなぁ。

カポーティ

2008-06-01 23:19:42 | Movie

カポーティは、孤立者の、孤独の恐ろしさを知っている人だったのだろう。
だからこそ、それを利用できた。
利用できたから、孤独者に近づけた。
孤独者―――孤独な環境で育ち、一家四人を銃殺し、死刑囚となった者に。
境遇に「共感」することを通り越して「利用」する。
利用してノンフィクションを書き、名声を得る。

そうして、自らを孤独から遠ざける。

それくらいの意図がなければ、死刑囚にあれだけ接近し、
話し、信用を得て死刑を見届けようとすることなど出来ない。

一家四人殺害事件を題材にノンフィクション・ノベル『冷血』を書いた人。
私は映画の中の、映画監督が描こうとしたカポーティしか知らないが、
彼についてそんなことを考えた。