ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

barber

2007-09-30 00:29:05 | Private・雑感


今日、鏡に映った自分は、昨日よりずいぶん髪が
ぼさぼさだった。のびきっている。

なぜか?
ひとつは、美容院が嫌いだから。
歯医者は匂いは嫌いじゃないが(好きでもないが)、
美容院の匂いは嫌いである。
されるがままに鏡の前に座っているのも。

そしてもうひとつは、高いからだ。
嫌いな時間に、3千円も出せない、かといって
2千円で済まそうとすると、かなり満足度が下がる。

その結果がさえない髪型だ。

経済が発展して人件費が高くなる。
すると、barber(床屋)をはじめ、今まで安く供給されてたサービスが
高くなる。
すると、それをなるべく消費しないようにする。
結果、髪はボサボサ。

思い出したのは、カンボジアである。
あそこではどの車も、どのバイクもピカピカである。
(ボロボロの車もピカピカなものが多い。)
あそこは、洗車が非常に安いのだそうだ。
きっと髪もピカピカだ。

経済成長すればするほど、私の髪はボサボサのまま
ほおって置かれるんだろうか?
なんだか随分、貧しい感じ。

・・・そんな気にするんだったら髪切れよ!って話ですね、
はい行って来ます。

世界史の中のアルメニア人虐殺―――『アララトの聖母』

2007-09-28 23:50:35 | Movie
「ナチスの将校が他の将校に、アウシュビッツの事をなんと言ったか。

 誰もアルメニア人虐殺を覚えてなんかいない―――そう言ったんだ。」

人は、覚えることと忘れること、どちらの方が多いのだろうか。忘れるために生きているのか?知らなくてはいけないこと、覚えていなくてはいけないものは何なのだろう、自分で選択しながら覚えたり、勉強しなくてはいけないのだろう。

 1915年の、トルコ人によるアルメニア人強制移送、虐殺の事実を、それを描こうとする映画の作成を通して、人々の記憶に焼き付ける。こういう映画を見ると、かなわないな、と思う。歴史的事実を、要因と結果を結びつける仮説とともに、映画にしたり、小説にしたりすることに成功する人は、本当に価値のある仕事をしていると私に思わせる。私には、ムーアの映画よりも衝撃的だった。

 知らなくてはいけないこと、忘れてはいけないこと・・・それを測るのは難しい。

 いっそ、ひとつの指標として、戦争や紛争、虐殺、自然災害などの推定被害者数をグラフにしてもらいたいものだと思ったりする。50万人とか、100万人とか、イメージしにくいものは、理解しにくい。でも、そういうものの方が理解しなくちゃいけないものだったりする。物事を、何を横に置いて判断するのか。

 価値判断って、難しいし、自分がどの程度の人間かを露出するという意味で、怖い。

地元の夏休み

2007-09-25 23:20:51 | Private・雑感
明日から学校が始まる、らしい。

今年の夏休みは何も無かった。
賢くなった気もしない。
今はただ、節約して早く旅に出たい気分・・・夏休みの終わりの日に変な話だ。

今年の夏休みは何も無かったが、
にわかに地元っ子になった。

高校時代の友人と2年ぶりに会ったり、
熊本から帰ってきた仲良しの彼女とも2回会った。
最近余り無かったが、「3人で」会うっていうのは楽でいいもんだ。
あの子たちとはだらだらずっと話してられる。
恋愛の話なんて、最近彼女たちとしか(2ヶ月にいっぺんくらい?)しかしない。。

そして!
大変化は地元も地元、検見川浜の子と2度も会った。
1週間以内に彼ら彼女らとふらっと会うなんて、私には快挙だ。

そして気づいたことは、
小・中学校で一緒だったあの子達と、2年ぶりとか5年ぶりとか、7年ぶり!とか
だったとしても、
そして
当時あんまり好きじゃなかったあの子とも、
ほっとんど口をきいた覚えのない彼とも、
リラックスして話してられるということ。

これはすごい発見だった。

面白い話をするわけじゃない。
最後は、当時の昔話で終わる。

このリラックス感は、地理的に「地元である」というところから
来ているのかもしれない?・・・彼女たちからではなく。
どっちでもいいことである。
小学校4年間、中学校3年間、計7年間も彼らと小さな学校で過ごしたのか・・・
すごいな。

そんなこんなで中秋の名月。
暑くてnothingな夏も終わる。
きっと、苦しく活動的な秋が始まる。

『アフガニスタンの診療所から』/中村哲

2007-09-22 22:17:36 | Book
アフガニスタンで診療活動を展開している中村哲氏の、活動・現況報告。
今何が起こっていて、何が必要だと判断し、どのように動いているか。3,4時間で読める本だったが、30時間は考えさせられるような本である。
現に私も、読んでからずっと、考えさせられている。

ひとつは、幸せとは何か、ということである。

幸せには、絶対的幸せと相対的幸せがあるのではないだろうかということを考えた。
絶対的貧困と相対的貧困があるように。
絶対的幸せとは、人間の本能に対する満足度、とでも言えるだろうか。
私が挙げる要素は三つ、「ご飯、健康、いい天気」である。
もちろんみっつは相互に関連している。アフガニスタンにあるような農耕生活ならなおさらである。

相対的幸せとは、世間のスタンダードを満たす、越える、という比較から満足度の高まりうるもの。
ガルブレイスの言う依存効果にもつながる。
否定的に考えるのではなく、私たちの生活の中にこの類の幸せは多いと思う。
知的好奇心を満たす、ということでさえ相対的幸せの面がある。


私が考えた絶対的幸せのこの3要素「ご飯、健康、いい天気」。
何を隠そう、私は中学生のときに気づいていた。
中学校の教室で、昼休みに高低側に出来る日向に立って、「お天気で、おいしいものがあって、健康だったら私という人間は幸せなんだぁ」と思っていた。大谷さんによくそう漏らしていた記憶がある。


今になって、この絶対的幸せの要素を生み出したり、支えたりすることに非常に価値を感じ始めている(本の影響を受けやすい体質)。
中学校の頃からこの要素に気づいていて、なぜ医者にならなかったのだろう?農業とか、何か科学系の学科に進まなかったのだろう?

ランニングしながら出てきた答えは、「幸せだったから」だ。
健康だったし、うちのご飯は最高だったし。
・・・とにかく、医者って、医者になろうって高校時代に思った人ってすごいのかもしれないと最近思う。彼らは高校生までに何を思い、医者を志すのだろう。
やっぱり、国境を越えて誰もがうなずきうる「ニーズ」に気づいていたとしたら、すごい。


もうひとつ考えたことは、
「事の軽重は一様ではない」ということ。

福沢諭吉も書いていたように思うが、これは、ほんとうにそうなのだ。
そして、気をつけていないとどうしても物事を同列で考えてしまう。

どう考えても、人が餓死しようとしている地域のリポートや救助活動と、福田さんと麻生さんの総裁選の話は軽重が違う。

私の視力が落ちた話と、人の生死の話は違う。

生きるため、そして「考える」ためにも、トピックの取捨選択やウェイト付けは必要だし、否定するものではない。ただ、違うのだし、そのことを忘れがちだということだ。

そんなことを考えていたら、頭が混乱に陥った。
時代やコミュニティーや情報に「相対的幸せ」を浮遊させながら人間は生きるのか、
それが真実のようにも見えてくる。

その中で経済学とは何か?
報道の役割とは何か?

ちっぽけに見えてしまって寂しい気持ちもする。

とにかく、引きずり続けている本です。


新聞経営の特殊性―――週刊ダイヤモンド『新聞没落』

2007-09-19 00:08:36 | Book

新聞という産業への違和感をずばり説明してくれている言葉があった。

http://crimsonblue.blog80.fc2.com/blog-entry-274.html

経営者側は
「視聴者が知りたいニュースを」
現場側は
「視聴者が知るべきニュースを」

志向している―――「これだ!」と思った。読売新聞社の取締役の話をちらっと聞いたときに「大衆が何を考えているかを常に把握するのが新聞の使命」と聞いて強く感じた違和感を、この言葉が解消してくれた。つまり、彼は経営者として言っていたのだ。そして私は、現場側の気分で聞いていたのだ。

これを応用して考えてみると、広義のメディア産業も二つの分けられるかもしれない。

「視聴者が知りたいニュースを」 伝える、狭義のメディア産業(テレビやラジオなど)、インターネット : 価格弾力性が大きい

「視聴者が知るべきニュースを」伝えたい、出版産業、映画産業など : 価格弾力性小さい

そして、『Web進化論』で強調されていた「チープ革命」(インターネットがもたらす情報コストの価格破壊)でまず先に、インターネットと競合せねばならないのが前者になるだろう。インターネットによる、実質情報コストゼロ、という点でレースが展開される。対して後者は、「お金を払ってでも」という意思ありきで成り立っている産業であり、まだ、直接的競合相手とはならない。

新聞は、消費者からすれば、前者に入ると思う。だから私は、新聞も内容を後者にシフトしていくべきだと思っていた。「事実」は通信社からのニュースでもいいが、その解釈や予測、採るべき選択肢についてなどの「意見」により力を入れていく。これは、「視聴者が知るべきニュースを」伝えることでもあると言えるだろう。

しかし・・・それも甘いようだ。今日発売の週刊ダイヤモンド『新聞没落』にあったインタビュー記事(これはこの特集の一番最後のページだっただけに、少し気が滅入った)

「・・・一般ニュース同様、オピニオン(論説)にも読者はカネを払わなくなるだろう。ブログでただで読めるものになっている。ニュースでは儲からないから、オピニオンで食べていこうという発想は禁物だ。」(エリ・ノーム:コロンビア大ビジネススクール教授)

―――確かに。現に私の指導教授も、(教授にとっても読者にとっても)経済的かつ効果的に、ブログのようなものでオピニオンを発している。確かに、総表現社会の中で誰もがオピニオンを発し、それは副業とか、生活のある一部となっている人が大勢居る。

さて、経営基盤を支えうる、つまり読者がある程度のお金を払うほどのオリジナリティはどこから抽出するべきか。まだ、全国紙ではなく経営の手堅いブロック紙の記者になるのでよかった、と思いながらも、「ただの表現者なんて吐いて捨てるほど居る」ということ、「言語表現の価値にお金を払わない時代である」ということ、肝に銘じながら働かなくてはと切に思った。

わかってはいたが、斜陽産業の新聞産業。非常にブレイクスルーの起きなさそうな業界が、どんなブレイクスルーを見つけるだろう。アメリカでも四苦八苦のこの難問に、解答の方向だけでも早急に見つけなくてはいけないようである。ほんとに。

・・・

てか長いね。そして読みにくい。ブログはもっと読みやすく書かなくてはだめですね、反省。


『Web進化論―――本当の大変化はこれから始まる』梅田望夫(2006)

2007-09-17 21:16:51 | Book

「なぜ人はこんなにもブログを書くのか?」

と、mixiが広まって、周りにもmixi人口が急速に増えたときに切実に思った。いかにも自己表現が好きそうな人たちが書いているわけではない。誰も彼もが書いているのである。

もしかしたら、これは何か大きな変化の始まりなのかも・・・?とぼんやりと思いながらここまで来た。本書が教えてくれるところでは、「Webの進化による表現や開発参入のコストが下がれば、人間の行動は想像以上に大きく変わる」ということである。みんなが表現好きになったわけではない、他人における本来の表現願望は、私の想像以上だったということである。

本書の柱は3つである。

1つは、Webの世界の創造性における新しさ―――知的財産権なんてどこ吹く風、開発した技術をオープンにし、Web世界全体が急速に発展する仕組み

2つめは、グーグルの成功の意味―――「こっち側」と「あっち側」(PC上の機能開発とWeb上の機能開発)の分類において、誰よりも早く「あっち側」に視点を移したこと、実際に全ての機能の「あっち側」への移行、超エリートで知的好奇心の塊のみを採用する経営の方法など

3つめは、Web進化がもたらす民主主義形態の変化―――表現コストの低減、権威に頼らずとも発言できる社会(情報の淘汰機能も発達してきた)

である。ちなみにこれは私のなかの「3つの」柱であって、実際はもっと多くの柱があったと思う。

そして本書を貫く姿勢は、「このインターネット社会の善の部分をもっと直視して評価しよう、肯定的に、楽観的に、この変化に対応して楽しもう」というものだ。どうやら「悪」にばかり目が行くのが日本的な姿勢であるらしく、本書の姿勢がシリコンバレーの空気らしい(著者はシリコンバレーで仕事をしている)。開いて数ページのところに書かれていたこの姿勢が、私にこの本を読ませたと言っていい。もしかしたら、日本の既存メディア(新聞やテレビなど)があまりにも権威的であるために、「悪」の空気を充満させているのかもしれない。いずれにしろ、少なくとも私は本書でインターネットやその未来について考え方が変わった。積極的な関わりにより肯定的なイメージを持ったし、「最低限、自分がやりたいことについて使いこなせればいいや」という姿勢から、「何がインターネットで実現できるのか、それは何を意味しているのか」ということに敏感になった方が、面白そうだと思えるようになった。

私の感想では、パソコンやインターネットに強い、詳しい人は男の子に多い。「よくわからないけど面白そう」と飛び込んでしまう勢いは、どうやら男の子に先天的なものなのかなと思う(他の話題でも然り)。私も、楽天性では他人に負けないつもりだったけど・・・実際ITには保守的だったようだ。

ただ、このWeb進化において懸念すべきは、さまざまな場所で聞かれる「完全競争市場達成の、負の部分」である。インターネットの悪の部分として言及されるのは、対人コミュニケーション能力の低下だとか、オタク化だとか、匿名社会だとか、そういうところだが、それは本書の指摘するような楽観論をとるにしても、「完全競争市場」、「完全な完全競争市場の達成」は念頭に置いておかなくてはならないと思う。

これは、前に読んだ『市場を創る』によっても触れられていたし、特に『勝者の代償』で鋭く指摘されていた。すなわち、製品やサービス、情報の情報コストゼロ、参入コスト低下、多数の消費者、供給者、という完全競争市場の仮定(通常は理論上の非現実的な仮定)を満たすということが何を意味するかということだ。『勝者の代償』では、情報コストの低下→消費者の価格比較能力上昇、オークションメカニズムの適応、価格低下、生産者圧迫→「労働者は消費者としては潤うが、生産者として不幸になる」といったシナリオを描いていた。多くの指摘が当たっていて、それはつまり、Web進化の世界で忘れてはならない側面を提供していた。

とにかく、面白い新書だった。著者の頭のよさも感じられるすっきりした文章もよかった。去年よく売れた本らしいですが、読み過ごさなくて良かった。


『世論(上・下)』/W.リップマン(1922)

2007-09-17 10:39:09 | Book
 「両大戦間」という時代は、想像するに非常に思想的に、危うい時代だったのではないだろうか。1914年に第一次世界大戦が勃発し、欧米諸国を巻き込む死闘が繰り広げられた。1917年にはロシア革命が起こる。1919年の終戦、不当にドイツの賠償金が課せられたとされる、ヴェルサイユ条約が調印された。国内だけでなく、国際的な情報、報道、人々の議論が交錯した時代だったのかもしれない。前に読んだ『大衆の反逆』といい、この『世論』といい、ちょうど両大戦間に書かれた物であり、他にもトーマス・マンやマックス・ウェーバーなどもこの時代に書いたり発言したりしている。情報や「偉い人」たちの言葉に一喜一憂し、簡単に過剰にナショナリズムが台頭していたのかもしれない。ここらへんは想像に過ぎない。

 本書を説明する上では、先に書いたような時代背景が大きく関係していると思う。そして著者・リップマンが生粋のジャーナリストであり、研究者や政治家でなくジャーナリストとして生き抜き、文章をリアルタイムで書きながら、それこそ「大衆」に対して発言してきた人だという事実が重要だと思う。彼の指摘した社会分析のフレームワークを少し紹介しよう。これが本書の一番の貢献だと思うからである。

 オルテガと同じく、リップマンも、「大衆はどのように考え、判断しているのか」に興味を持っているようである。彼によれば、それは「ステレオタイプ」、すなわち複雑で自らの生活圏からは距離のある現実、環境に対して「こうであるに違いない」という仮説を立てる。その仮説によって出来上がったイメージの塊みたいなものがステレオタイプである。その仮説には「ほんのちょっとした事実」「創造を伴う想像力」「信じる意志」が作用している。

 ここで重要なのは、ひとつは、その仮説をたてるにおいて人々は「見えるものしかみない」「見てから定義するのではなく、定義してから見る」ため、現実とはかけ離れた仮説を立てることが多い。もしくはいちいち考え直すのが面倒なので、前に起きた事象や他の国の事象のステレオタイプを流用し、簡単に同一視してしまうことがあるということである。結果として現実的でない世論が形成され、そして「見えないもの」は永久に無視され続ける。多くの場合「見えるもの」は権力とか、ジャーナリストとかの意志、情報操作が影響を及ぼすため、「見させられているもの」しか議論されなくなる。真にジャーナリスト、新聞に求められているものは、この「見えないもの」を見せることである、と著者は言う。

 もうひとつは、このステレオタイプそのものが現実を変化させるということである。これはオルテガの言う大衆の反逆と同意であるかもしれない。これを踏まえてプロパガンダという単語を定義すれば、「一つの社会様式に代えて別のものにするために、人々が現在反応している社会像を変える努力」となる。彼らは現実を、ではなくステレタイプを変化させることで、現実を変えようとするのである。

これらの記述は、通常描いている新聞やマスコミの役割、政治のしくみなどと非常に近い。『大衆の反逆』に比べると、新しい概念の量としては負けるが、新聞記者らしく、読者への訴えかけ方が上手いと思った。

 彼の中で、新聞記者の仕事は「ニュースは一つの事件の存在を合図するに過ぎぬ、隠されている諸事実に光をあて相互に関連付け、人々がそれに基づいて行動できるよう現実の姿を描き出すこと」であると言う。確かに、学者や政治家と違って、ジャーナリストの使命は、意見や予測ではなく、現実にこだわること、現実を描くことであるのかもしれない。上下の二巻であるが、上巻の一章、五章だけでも十分に面白いと思う。(他の章が、内容的に物足りなかった。)

終わりなし―――キェロフスキのポーランド

2007-09-16 23:49:12 | Movie
★★★

「偶然」と同じ監督、キェロフスキの映画。1984年。

若手弁護士のアンテクは心臓発作で突然に死者となる。さまよう魂は、残した妻、息子を見守る。彼が弁護するはずだったスト指導者、その妻、後任を引き受けた弁護士の姿は、嘆く自由も無いポーランド―――NO END―――を映し出していく。

一人の人生を追いながら、その人の周りを映し出し、環境、体制を表し、国や時代を批判する。これがこの監督のやり方らしい。ただ、このタイトルがなければ私にはわかりにくいメッセージだった。ただ、この暗さは何だろう。自由が無いというのは、何が無いことなのだろう。「嘆く自由も無い」息苦しさ―――ストによって本当に彼らは労働条件を変えたかったのかはわからない。ただ、何かしたかった。現状を変えうる行動があるとしたら、それをためしてみたかった。それだけだったという印象が残った。ロシア、東欧諸国で自殺率が高いのは、そいういうところに根っこがあるのかもしれない。そういえば、貧困の国で自殺率については聞かない(もちろん統計上の問題はあるが。)人が、人生を諦めるとき、何が決定打となるのか。そんなことを考えさせられた。

「偶然」―――ポーランドの共産党時代と人々の人生

2007-09-09 00:27:31 | Movie
★★★★

「もしあのとき、こうなっていたら・・・」と誰もが一度は考える。
父の望みで医大生となった若者が、父の死を機に街を飛び出そうとする。
駅のホームで、必死に走ってつかんだ手は、電車のポールに届くのか、届かないのか・・・

届いたら?そのままワルシャワへたどり着いたら?
届かなかったら?そして憲兵隊に補導されたら?
届かなかったら、そしてそこに恋人が見送りに来ていたなら?

80年代に入ったばかりのポーランド、全ての選択は、共産党を選ぶか、選ばないか、否応にも人生を揺るがす。折りしも労働者の共産党政権へのレジスタント運動が高まり、ついにはストライキ、「連帯」の結成がなされる頃。3通りの人生の、3通りの生々しさがある。

81年に製作されたが、当時は公開されず、90年代に入ってから世に出たという作品(とツタヤの案内に書いてあった気がする)。80年代、共産主義に染まるも反対するも、神を信じるも信じないも、「偶然」に拠ってしまうような、思想的に漂流しているような時代だったのかもしれない。はじめの方は、おそらく「共産主義」をあらわす映像やヒントが出てきていたのだと思うが、それがピンとこなかった。それが悔しいが、その危うさが売りの映画だったのだとしたら、日本人の私にもよく伝わってきた。なんというか、力のこもった作品だ。

人生は、偶然が左右するのか―――もちろん、イエスだと思う。ただその分岐点や、選択肢や、思想度は、時代や国が大きく左右する。それも含めて偶然と言ってしまったら、何も考える気がおきなくなってしまう。
80年代のポーランドには、上にも書いたように、偶然で1をつかんでも2をつかんでも、共産主義に翻弄されなければならなかった、その不幸を監督は書きたかったのだと私は思った。

「人は誰でも光を欲する。そしてそれが、年老いてからの辛酸をもたらす。結局人 はなにも出来ないのだ。でも何か出来る気になって、光を探す。

 (スパイ容疑をかけられ、拷問の末に何年も獄中に居たその老人は言う。)
 40年が経ち、言えることはひとつだ。
 光も辛酸もない人生だけは、無意味である。」

あぁポーランド。
もう一回行きたい。

ポーランドの名監督として知られた(らしい)キエシロフスキ。他にも見てみよう、そして時代に漂う、どんよりとした過去の雰囲気を見せて欲しい。


阪神と巨人

2007-09-08 02:17:13 | Private・雑感
今日の阪神―巨人戦。

勝利投手 [ 阪神 ] 久保田(6勝3敗0S)
敗戦投手 [ 巨人 ] 上原(4勝2敗27S)
セーブ [ 阪神 ] 藤川(5勝2敗38S)
本塁打 [ 阪神 ] 桧山 3号 9回ソロ
[ 巨人 ] 高橋由 31号 1回ソロ、李 24号 2回ソロ、ホリンズ 12号 2回ソロ、李 25号 4回ソロ、高橋由 32号 5回2ラン、李 26号 8回ソロ、二岡 18号 8回ソロ
バッテリー [ 阪神 ] ボーグルソン、江草、ダーウィン、ウィリアムス、久保田、藤川 - 矢野
[ 巨人 ] パウエル、西村、山口、吉武、前田、三木、上原 - 阿部

9-8で阪神の勝ち。
8回裏で8-8の同点だったようだから、かなりの白熱した試合だったのだろう。

結果を見て二つ思うこと。
ひとつめ。なんだこの巨人の「ソロ」の連続は!!
まったく腹が立ってくる。彼らは7本のホームランで8点を取り、1本のホームラン(それも9回!)で負けるのだ。
もし自分が高橋だったら、李だったら(本日HR3本)、きっと泣けてくる。

・・・でも私は阪神ファンだからひとまずどうでもいい。
決定打を討った桧山は代打で出たのかな、かっこよすぎる。


ふたつめ。そろそろ負けてもいいんじゃないか?阪神。
阪神ファンの我が家(特に母)は連勝を怖れる。
「7連勝とか8連勝とかして、次に10連敗するんやったら意味ないっちゅうねん!」
阪神ファンは、意外と現実的なのである。

首位まで、いつの間にか0.5ゲーム差。
クライマックス・リーグもあるらしいし、ここが・・・休みどころ?