ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

『科学技術ジャーナリズムはどう実践されるか』ほか

2011-07-29 00:16:28 | Book
早稲田大学科学技術ジャーナリスト養成プログラム
小林宏一ら編(2010)『科学技術ジャーナリズムはどう実践されるか』
岡本暁子ら編(2009)『科学技術は社会とどう共生するか』

「科学技術ジャーナリズム」という分野があるらしい、と
最近新聞で読んで、大きな本屋で手に取ったのがこの本。
日本には「ジャーナリズム」を学問としてやるところがない
(果たして「学問」か、という疑問は置いておいて)と言われ続け、
最近早稲田に大学院が出来たが、その中に文科省プロジェクトとして
「科学技術ジャーナリスト養成プログラム」というのが設置されていた。
http://www.waseda-j.jp/
その5年間の取り組みの中の講義録として出版されたものだ。

驚いたことに(?)欧米には1980年代から
科学ジャーナリズムを専門とした大学プログラムが増え、
中国にも3大学ぐらいでコースがあるそうだ。
ところで、科学ジャーナリズムって何だろうか。

新聞でのノーベル賞の報道や、今で言えば原発、地震関連の解説記事、
『Nature』など自然科学雑誌の記事、コラムなどが思い浮かぶかもしれない。
他の分野に比べ、新しい発見をわかりやすく、という趣旨の記事が多いのでは
ないか。
これも大事だが、社会面のように「批判的に調査し、報道すること」も
大いに大事なのに、あまりに専門的なことが多く、表に出てくることが少ない。
そして致命的なことに、そういう媒体のマーケットが小さい。
『Nature』や『Science』がよく売れる欧米に比べ、例えば岩波書店が
出している『科学』などは人口比にしても10分の1ほどしか
売れておらず、記者も絶望的に少ない。新聞社の科学部も記者が少なく、
調査報道をする余裕はない。
それに、科学記事を書きたい、という人には科学を信奉してしまっていて、
科学者をスターのように見てしまうから、ただの「翻訳者」で終わってしまう。
・・・といった前提で話が進められる。

ちなみに、科学ジャーナリズムと技術ジャーナリズムは違うそうだ。
日経BPが出している日経アーキテクチャとか、エレクトロニクスとか。
技術者向け雑誌は、その技術の産業規模に比例してマーケットがあるから、
日本はそれなりにあるのだという。

本の中で、コロンビア大大学院科学・環境ジャーナリズム研究科とやらの
ホロウェイ教授の講演録が興味深かった。
科学ジャーナリズムの課題として、
● 用語説明や補足で大きなスペースと、書くための多くの時間が必要になる。
(アメリカのある調査では29%の人が「太陽が地球の周りを回転している」
と回答するほど情けない状態らしい)
● 科学者間の意見はなかなか一致せず、ニュースにするまでに長い時間がかか
るが、ジャーナリズムの現場は高速なので、お手軽に記事を書いてしまう
● 科学者が科学誌に研究結果を掲載する場合、その当該雑誌の発行日までに
取材して発表してはならない(もし発表してしまったらその雑誌には載せられない)
という科学雑誌崇拝的な「インゲルフィンガー・ルール」というのが
慣行化していて、科学記者は受身の体質になってしまっている

など。
その上で、トレンドとして
◆現在の科学記事は、ほとんどが健康、ダイエット、フィットネスになり
◆報道機関の科学担当は縮小され(CNNでは撤廃された)
◆研究機関、政府機関などのプレスリリースに依存した記事が多くなり、
(リリースをまとめているウェブサイト:http://www.futurity.org/が人気)
◆研究者自身が、頼りないジャーナリストを越えてブログを活用するように
なってきた
◆発表ものが多いので、記事を読んだ後に「発表元」のサイトを探して
確かめる人も多くなった

というもの。
結局、科学ジャーナリズムは大事だが、マーケット性に乏しく、
研究者が研究の片手間でコラムを書いたりするように落ち着いてしまう。

というわけで、科学ジャーナリズムが自立するためのヒントは特にない。
現在進行形の原発事故や津波被害のことをも頭に浮かびながら読んでいて、
気になったのは、「科学史、哲学的に科学を論じることを日本の理系はやっていない」
というところ。
リベラル・アーツ発祥の(?)フランスなどでは、どんな専門でも
これらを学ぶという。
科学者が社会科学を学ばなくなり、両者は違う文化を生きるようになってしまった・・・
ことの弊害みたいなものは、かつて「二つの文化と科学革命」という本が元で
言われ続けているそうだ。

ジャーナリストというより、科学者側の人が読んだほうが、
何か前に進む意見が出てきそうな気がしました。

ベンジャミン・フリードマン『経済成長とモラル』その2

2011-07-27 14:55:09 | Book
(第1章ほど面白い内容はないと思いましたが・・・)
第2章はアメリカ史の中で
「経済成長は社会のモラル改善に寄与する」という仮説を考える。
具体的には、南北戦争後の時期を成長期と停滞期に分け、
制度の変化や社会情勢を数字や小説の傾向などで見ていき、
モラル改善の兆候を現す。

分けられた時期は、
1865-80年 南北戦争後、好景気
 機械工学や鉄鋼業が発達し始め、鉄道の大事業が手がけれられる
 KKKは取り締まられ、1875年には人種差別を禁じる公民権法が成立。

1880-95年 不景気
 オーストラリアなどで耕作面積が増え、農業価格がどんどん下がって
 不景気に。1人あたり所得は15年前の水準になった。
 公民権法が定着すべきこの大事な時期に、南部では、南北戦争後にも
 駐留していた軍が撤収。人種差別が大いに広がった。
 ドイツをはじめとして制度化され始めた公的社会保険はアメリカには
 導入されず、移民制限が強化された。

1895-1919年 好景気、wwwⅠ
 車産業が本格的に広がり、人々の所得も上がった。
 黒人は白人と同じ電車やバスに乗ってはいけない、というような
 人種ゾーニングは違憲と判断された。
 移民制限は緩和され、アメリカは「移民のアメリカ化」へと
 方針転換する。義務教育の中学生に対するカリキュラムが初めて制定されるなど。

1920-28 wwwⅠ後の不景気
 第二次KKK旋風。

1929-39 大恐慌、ニューディール
 不景気だけども社会は改善された、アメリカ史上「大いなる例外」。
 なぜそうなったのか・・・
 ローズベルト大統領の性格、リーダーシップ、大恐慌があまりにも
 広範囲に影響し、誰も勝者がいなかったこと、など。
(同じような例外として、チャーチル時代のイギリスを上げている)

戦後ー1960年代 好景気
 ジョンソン大統領のころ、ようやく社会保険も整備
1970-93 停滞
93- ・・・・

要は、アメリカの各時期において、好景気であれば社会制度は充実し、
開放性は増したが、停滞の時期においては移民は制限され、しばしば
KKK(クー・クラックス・クラン:反カトリック、反ユダヤ、反移民)
の若者らが暴徒化した。
そのプロセスとして印象的だったのは、
好景気にあった1900年代、
wwwⅠの軍需による経済成長の中で、人々は民間団体の設立、活動により
社会へのかかわりを始めた。ボーイスカウトや女性クラブ総連など。
それまでの地域の教会といったコミュニティーの代表に頼るのではなく、
団体で主体的に活動し、また経済成長はそれらの活動資金を得やすくした。
これが、制度の拡充などに寄与し、再分配政策も成立させた。
それより前の時期からしばしば提案されていた増税案も、この時期にようやく
実現した。

社会モラル悪化のひとつとして、その後の1920年代はおもしろい。
この時期は、大統領(ウォーレン・ハーディング)さえ、KKKを支持していた
と書いてあるほど、白人至上主義的なムードだった。
この時期の特徴は、都市化である。田舎でのんびり農業をやっていた人たちが
都市に出てきて、社会の最底辺ではなく、「最下層のホワイトカラー」となる。
初めて、黒人と同じコミュニティで暮らし、教義上熱心に仕事をするカトリック
信者らを目にして、敵対心を抱き、KKKは増徴されていったという解説だ。

とにかく、およそ400ページを裂いて(日本語版でも第3章があり、
原著はもう何章か多いらしい)彼の仮説は実証された、らしい。
長く込み入った歴史の解説書を読み続けるには、上記のような問いが
あるのはひとつ有効な手段だろう。途中で問いには興味がなくなったものの、
読み続けることが出来たのは、この類の本が久しぶりだったからかもしれない。

ベンジャミン・フリードマン(2011)『経済成長とモラル』

2011-07-27 00:12:38 | Book

「経済成長は社会のモラルを改善するのに寄与する」
という仮説を検証し、「そのことが諸国にとって
重要であると論じえるように」(序文)することを目的として
書かれた本らしい。
著者は、ハーバード大のベンジャミン・フリードマン。
(ミルトン・フリードマンではない)
彼なりにゴールが示された上での問いではあるにしろ、ちょっと
興味を持って読んでみた。
もちろん、上記の問いに対する本の主張はYesだ。
厳密な経済学の本ではなく、経済思想史の本。
久しぶりにハードな本を読み終えて、こういう類の本はいくつも
頻繁に読まないと読み進まないものだ、と実感し、反省しました。
長いので、2回に分けて紹介します。まずは第1部。

第1部 諸概念、その起源、およびその含意
1 経済成長とは何か 何をもたらすのか
2 啓蒙主義とその淵源からの展望
3 進歩と反動―――改革の時代から現代まで
4 所得の上昇、個人の態度、社会変化の政治学

経済成長が社会のモラルを改善する、といったときの「モラル」は、
具体的には機会の開放性、(移民や黒人、女性に対する)寛容性、
経済的社会的な流動性、公平性、デモクラシーを意味する。
第1部では、1780年代ころ、経済学の始まりと言われる
アダムスミスの「国富論」あたりから、成長とモラルの関係、
経済成長の考え方を紹介する。

1では、経済成長は今、環境破壊や失業などを受けて、
「よい面ばかりではない」「GDPではなく幸福度で計るべきだ」と
マイナスにとらえられかねないが、社会が開放的になる、といった
よい面がはるかに大きい・・・と問いの意義を説く。

2では、18世紀のアダムスミスらが説いた「啓蒙思想」、
すなわち「経済成長が人間の知識を蓄えさせ、人々の態度を変え、
社会が改善する」といった考え方が主流だったことを説明する。
そのプロセスは、スミスの場合、
人口の増加→狩りや採集の生活から農耕へ、商業へ、工業へ→土地や資本などは
限られた資源であり、多様な主体間の調整が必要→社会制度が充実
という感じ。
スミスといえば、工業の生産過程における「専門化」が、飛躍的に生産性を
アップさせることを著したのが有名だが、商業についても興味深い考察を
している。
商業とは「自発的交換」であり、戦争をせずに生活水準を上げることができる
「平和な」施策であること、(交換するためには)2者以上の当事者がいるため
(狩りや採集に比べ)人間の行動は改善され、洗練される。例えば
スーツや革靴など、、という効果を述べている。
つまり、個々の尊厳を高め、権利を保障する制度や、身だしなみや文化など
「モラル」は改善する、と。

3では、経済成長による反モラル的なもの・・・への懸念を紹介。
例えば、スミスは、多くの労働者が従事する単純作業は頭を使う機会がなく、
理解力や困難の解決能力が低下する。大局的な判断ができなくなる。
政府は何か手を打たなければ・・・と。
(しかし、のちに蒸気機関を動力として産業が急拡大していくとともに、
 単純労働者は多くの知識を求められるようになり、「技術者」が
 尊敬される存在となって人々の知識量は蓄えられていく、ので大丈夫だった)
トクヴィルも、労働者に上のような危険性がある一方、経営者はより一層
判断能力が求められ、二者の間は広まってしまうのではないかと
懸念する。
「オリバー・ツイスト」を書いたディケンズは、全ての行為は取引となってしまい、
思いやりや謝意はなくなってしまった、と悲観する。これより少し前だが、
ルソーも、アメリカ大陸にインディアンが発見されたころ、彼らの生活社会が
「本当に幸せなものだ」と羨望したりする・・・という、ロマン主義者もいた。
マルクスは、実はスミスとほとんど現状認識は変わらないのだけど、
「この政治体制である限り、状態は改善されない」と絶望した。
総括すれば、これらの心配は、括弧に書いたように技術社会となっていく
ことで深刻化はしなかった。

4では、もう少し直接的に「経済成長とモラル」の関係の仮説を検討する。
例えば、好景気における就職市場は求職側の立場が強くなり、
企業側は人種や男女、年齢などの条件をいろいろつけにくくなるから、
社会的な流動性は増す、とか。
一番興味深かったのは、「人は、自分たちの現在の生活水準を評価するのに
2つの座標軸があり、それは代替関係にある」というもの。
1つは、「自分は過去に比べて進歩したと感じるか」
2つめは、「人は他の人と比べて勝っていると感じるか」。
経済成長は、多くの人にとって1つめの座標軸での現状を高く評価することになる。
例えば、10年前より所得は上がり、いい家に住んでいるとか、自分の子どものころより
自分の子どもたちによいご飯を食べさせ、よい学校に行かせているとか。
このとき、人は「他人のにとってもよい社会にしよう」という考えに賛同
しやすくなり、その実現に対するリスクをとりやすくなる。
今まで仲良くなかった黒人とも一緒に働くし、既得権益の撤廃も受け入れる。

経済が停滞しているとき、多くの人はこの座標軸で自分を評価できない。
そうすると、2つめの座標軸で考える。このとき、移民の停止や
黒人の拒絶などの反応になりやすい。
もともと金持ちの人は、転落を異常に恐れ、底辺の人たちは、その下は絶望的な
生活が待っているので、暴徒化する。クー・クラックス・クラン(KKK)の
会員も増える。
2つの座標軸のどちらが主流かという問題は、「公的な活動」と「個人的な活動」
のどちらに資源を配分する社会になるか、を決める。

長くなりましたが、以上が第1部の要約。
最後に紹介した2つの座標軸は、非常に納得のいくものだ。
今の日本でいえば、経済成長はしていないが、「被災地に比べて、私たちは
幸せだ」という意識に包まれている。
上の説明の流れとは違うが、この意識が公的な活動への資源配分を容易にする。

このロジックでいうと、財政悪化のための増税などはとても難しいものだと
わかる。
経済成長しておらず、自分たちの生活を肯定できない中では、「公的な活動」に
拠出する気持ちは生まれないことになる。
だからといって増税しなくていいわけではないが。
第2章では、アメリカの歴史においてこれらの考え方を例証していく。

ドキュメンタリー「最愛の敵 カダフィ」

2011-07-21 12:13:53 | Movie
「最愛の敵 カダフィ」とはよく言ったものだ。
1969年からリビアで独裁体制を続ける彼と、
欧米との外交政策の歴史を扱った上下編のフランス発
ドキュメンタリー番組のタイトルだ。
2011年制作。
企画段階でのタイトルは"Qaddafi : Our Best Friend"。
最終的には"Qaddafi : Our Best Enemy"となったのだとか。
テロ国家としての歴史に驚くとともに、テロの被害を受けて
いながら、石油権益に目がくらんだ欧米諸国の臨機応変さに
驚いた。
以下備忘録として。

+++
この作品を見る限り、カダフィの外交政策は3つの時期に
分けられると思う。

■1970年代。リビアで好き勝手をやり、エジプトのナセル大統領
信奉者としてアラブ連邦共和国を夢想し、石油の権益で得た金を
対イスラエルに使っていた時期。
アメリカを筆頭とした欧米諸国は、「レアル・ポリティーク」と
呼ばれるような外交策をとっていた。
すなわち、独裁制の中身はどうであれ、政治が安定しているのは悪くない。
駆け引きの窓口として利用し、石油採掘で有利な条件を引き出そう。
そのためには、カダフィ政権養護(のためにCIAに反カダフィ派を
つぶさせることなど)も厭わない。

■1980年代。リビアは暴走し、今のアルカイダクラスのテロ国家となっていく。番組ではよくわからなかったが、おそらくイスラエルへの反感、
それを支援するアメリカへの敵対心などがあるのでは。
巨額の石油収入を、アラブ諸国のテログループに渡していたとされる。
1985年にウィーン、ローマで同時テロ、
1986年に西ドイツで米兵を狙ったテロ、
1986年アメリカがリビアを空爆

1988年、ロンドンから飛び立ち、スコットランド・ロッカビー上空を
飛行中のパン・アメリカン航空機が爆発。270人が死亡する。
貨物の中の自動爆弾のメーカーなどからリビア容疑者が浮上し、のちに有罪。
1989年、アフリカのニジェールで、フランス民間航空会社UTAの飛行機が
墜落。170人が死亡。のちにリビアが関与認める。
・・・
1986年、アメリカが対リビア経済制裁

■2000年代~
各国からの経済制裁が続ける中、リビア経済は疲弊。
カダフィはアメリカに、「テロ組織の情報を持ってるよ、仲直りしようよ」と
持ちかける。
2001年にアメリカ同時多発テロ、2003年にイラク戦争開戦。
このとき、リビアも秘密裏に大量破壊兵器を保有しており、
同年に突如「大量破壊兵器保有の告白&放棄」を宣言。
アメリカらはびっくり。(イラクと違い)本当に保有していたので、
放棄を条件に、2004年に経済制裁を解いてしまった。
ヨーロッパには、アフリカからヨーロッパ大陸に移民が流入しないよう、
リビアで厳しい体制を敷くなどして協力。
その後は、ブレア首相、ライス国防長官、シラク大統領ほか欧米要人が
訪問し、あれよあれよと2009年には国連総会議長国に。
イギリスは石油採掘権契約と同時にパンナム機テロ容疑者を「健康上の理由」で
リビアに釈放。
フランスも、2007年、リビアのブルガリア看護師らを釈放させる交渉の裏で、
武器の売買契約をリビアと結んだとされる。
そして、2010年の民衆蜂起、紛争開始。

※日本は・・・
外務省のHPを見ると、2000年からしか要人往来はわからないが、
2004年以降は毎年、副大臣や政務官クラスが訪問している。
松田岩夫という元内閣府特命大臣が、その役職のときに1回、
その任にないその後にも毎年、計5回訪問している。
何なんだ・・・。元通産官僚らしいが。

平山洋介(2009)『住宅政策のどこが問題か』光文社新書

2011-07-10 10:49:21 | Book

なぜ日本の住宅地はこう、、画一的でつまらないのか。
ヨーロッパに旅行した人なら誰もが思うのではないだろうか。
この問いはすなわち、どうして寿命が短いのか、
なぜ日本人は家を持ちたがるのか、という疑問と同じものになるだろう。
みなが家を持ちたいから、よさそうな安い土地(狭い郊外の分譲地)を探し、
古いものを壊して建てる。最近はプレハブ工法とかで、
工場で大方のパーツを作り、土地に運んで組み立てるだけ、というのが
一番安いらしい。工期も短くして、労働経費も安くして、1000万円以下で
引き渡す。
なんかおかしい。私は家を持ちたいという願望もないので、余計理解できない。
なぜ、日本はこうなんだろうという疑問は、
この本が8割くらい答えてくれた。

日本の、二人以上世帯(世帯主が45~54歳)における持ち家率は
なんと85%。同様の世帯の65歳以上で見ると、90%になる。
戦前の1941年には、住宅のうちの持ち家率は22%と低かったが、
1958年には70%を超える。急激な変化が起きた。

その理由として、本書のメインの仮説は、
政府が一般的な中流家庭の持ち家取得を政策的に促進したから。
これを含めて列挙すると

●推進政策関連(住宅政策と言うより、景気対策として)
・住宅金融公庫(07年に廃止)による融資、
 不景気になると頭金制約を下げるなどして経済政策として促進
 ステップ償還、ゆとり償還、承継償還など・・・
・地方住宅公団(都道府県などによる公団)など
 公的セクターによる宅地分譲
・住宅ローン減税

●賃貸、公的団地の抑制政策
・地代家賃統制法(1941~1987)で、家賃を統制、敷金の額を
 規制し(how?)、借家ビジネスを拡大させなかった
・劣悪で量的に不十分な公的団地しか作らず、所得制限を設けたため
 ある程度所得が上がれば追い出された
・2000年代に入り、公的住宅の提供責任は市町村へ。
 財源もないし、作れば作るほど生活保護世帯が流入するというジレンマがあり、
 積極的に作る環境ではなかった

●経済環境
・経済成長によるインフレ経済の持続
 住宅、というより土地の資産価値は上昇し続け、住宅さえあれば
 年老いたときに資産価値も「上がった」。
 ちなみに、現在は購入時から資産価値は下がり続ける。

今朝の日経新聞一面でも、住宅金融支援機構(旧住宅金融公庫)が
発売している低金利の長期ローン「フラット35」が発売期間を
延長するという話が載っている。
はたして、こういう支援にどれだけの税金が投入されているのか。

上の要因のうち、資産価値はどんどん下がっているし、
所得も上がっていないし、加えて親の世代と子の世代は居住地の
選好が異なってきていて、相続がナンセンスになってきているし、
大体相続される側の年代が60歳を越えているので、そんな年に
家をもらっても困るし・・・と環境はずいぶん変わってきている。
それでも、政策的な「推進」は続いているように見えるし、人々は家を買う。
謎は深まる。

また、さまざまな形の世帯が、良質な住環境を得るには
賃貸マーケットの質的改善が欠かせないと思うが、それにはどうしたら
よいのか。
そこらへんの具体的な解決策は本書の中にはなかった。

私の価値観からすると、住宅、マンションはもっと技術革新されても
よい気がする。オートロックや、高齢者向けサービスなどの
サービス面での革新だけでなく、太陽光発電などのエネルギーや
ワイヤレスなど通信、防火・防音・・・あまり想像が広がらないが、
そういうハード面での進化があってよい。
そのようなマンションや住宅は、まず賃貸で火がついて、
分譲でも広がっていく、という形が自然ではないか。
ただ、現状では賃貸の市場価格が低いために、技術革新への
投資がなされにくい・・・そんな風に見えるが、どうでしょうか。


・・・このほかのトピックとしては、住宅保障という考えのなさ、
住宅に置けるセーフティネットがどれだけ働いていないか、
働いているとすれば、子育て世帯などの「標準世帯」のみで、
単身者は長らく入居要件になっていなかったり、住宅金融公庫で
融資してもらえなかったり、、、といった歴史を紹介している。

なぜ、今も人々の選好は変わっていないように見えるのか。
(本書の中のデータは2004年が最新。その後は持ち家率などどうなのだろう)
少なくとも、地方都市にいれば、30歳代前半の子供のいる世帯は、
疑いもなく家を建てようとしている人が多い。(転勤の多い会社でも!)
周りの人にインタビューしてみることにするか。

映画「フロント・ページ」(1974)

2011-07-05 14:49:53 | Movie
1974年 アメリカ
監督ビリー・ワイルダー 主演ジャック・レモン


監督ビリー・ワイルダー、主演ジャック・レモンの名コンビの作品は
けっこう観ていると思っていたが、またひとつ好きな作品が増えた。
1929年、シカゴの新聞社が舞台。
プライベートのない新聞記者をやめようとしたその日、
絞首刑となった若者が脱走し、目の前に飛び込んでくる事態に。
その若者のけなげさや警察署長、シカゴ市長らのヘマも続出して、
彼はフィラデルフィアに立つための夜行の時間を見ながら、
新聞記者魂に引きづられてしまう。
テンポのよさや隅々の皮肉っぷりはさすが。
原作は、ブロードウェイのヒット舞台らしい。

+++

風刺の元となっているのは、新聞記者のこっけいな行動だ。
各社の電話が並ぶ記者クラブで、隣の人の一報を
知らんふりして誇張して吹き込んだり、逃げ込んできた
犯人を隠そうとして他人のフタつきデスクに入れたり。
その犯人の恋人の売春婦が、隠されたデスクから記者たちの
気をひこうとして、窓から飛び降りてしまうところなんか、
メディアスクラムと言われる現代の現象そのものの構図だと
思ってしまった。

それにしてもこの舞台の時代。新聞記者は心底で警察を批判して
いたのだな、と改めて思った。
名編集長役の人が、この腰抜け署長に糾弾する。
「シカゴでは未解決の殺人事件が412件ある」と。
一方で、拷問や冤罪がまかりとおり、権力にものを言わせていた。
行政組織を監視するというアイデンティティーが、今と比べようもなく
あったのだと思った。

あと、終わり方が秀逸。「あばよ」とは終わりませんのでお楽しみに。




岐阜県神岡町と三井金属とイタイイタイ病

2011-07-04 00:33:05 | Private・雑感
岐阜県の飛騨市神岡町。高山市から富山県に抜ける通称ブリ街道の
途中にある山間の町だ。
家々を見渡せる高台に、「神岡城」がある。眼下には水量も
多く、涼しげに流れる高原川。この城は、数百年前から残るものでもなければ、
町などが復元したものでもない。
三井金属鉱業株式会社が、犬山城などを模して建てた。
中は郷土資料館で、甲冑や城跡から出現した土器などが展示してある。
隣には鉱山資料館。明治元年に建てられたと言う立派な民家が移築され、
中に農機具などを置いた民芸資料館もある。
この二つも、三井金属鉱業が創業100周年の記念事業として
作ったり移築したりしたものだ。
昭和45年、1970年。イタイイタイ病の訴訟提起が1968年だから、
裁判真っ最中のころである。

神岡町は、「東洋一」と言われた亜鉛、鉛などを産出する神岡鉱山があり、
それを明治時代から事業化した三井金属鉱山が築いた城下町だ。
そして、高原川にカドミウムを流し続け、この川が合流する
神通川の下流域で、イタイイタイ病を発生させた原因企業で、
この神岡町がまさしく発生場所だ。

■神岡鉱山
江戸時代初期に、才覚のある飛騨の国の家臣(茂住氏)がいたそうで、
彼が鉱物の産出に力を入れたらしい。
そのおかげもあり、高山は栄え、財政が苦しかった江戸幕府が
直轄地にしたほど。
高山、飛騨の現在の市街地からは、車でそれぞれ1時間、20分ほど
は離れており、
おそらく鉱山がなければ集落は出来なかっただろう、と思われる場所。
前近代的な手法で続いていた地場産業を、1874年に三井組が入ってきて、
株式会社化もして、事業を近代化させた。

■三井金属鉱業の時代
資料館の人の話によると、神岡の人はみな、三井金属の従業員か、その家族だった。
全国的な炭鉱の閉山に伴い、九州から三井グループの配置転換で
来た人も多いという。
最盛期には、人口2万7000人。現在の3倍にあたるという。
福利厚生も素晴らしく、「社宅には他の地域にはない水洗トイレがあって、
東京に進学した子供たちも鼻が高かった」。
そうして社宅でお金をため、神岡に家を建てた人たちが大勢いた。

■イタイイタイ病?
亜鉛、鉛の精製の課程でカドミウムが出てくる。それは鉱山資料館にも
あった。
しかし、説明図中のカドミウムから矢印は出ていない。
資料館で、カドミウムの話もイタイイタイ病の話も一切出てこない。
資料館の人の話では、「50年も前の話だしね・・・」とのこと。
(といってもこの人たちが企画内容を決めているのではなく、
 一切を三井鉱山が作り、維持や入場料の徴収を町だかどこかが
 やっているということだと思うが。)
今は分社化して「神岡鉱業株式会社」という三井金属の100%
子会社になっている。
2001年(意外と最近!)に鉱山を閉山してから、
貴金属や機械に使われている鉛のリサイクルをメインの事業に
しているようだ。
http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/project/kankyo/kamioka/index.html

■公害の原因地と被害地
街道を富山方面に抜けて帰った。
途中の富山県旧細入村の道の駅で、鮎の塩焼きを焼いてるおっちゃんと話した。
神岡町とは車で20分ほどしか離れていないところだ。
当たり前といえば当たり前だが、イ病の認識が全く違う。

神岡の人>
「公害は昔のこと」「最近、富山で(イ病)の資料館を作るというが、
まああんまり面白くないよね。歴史の教訓を、ということみたいだけど」
「(三井鉱山の)あのころはよかった。煤塵で肺をやられた人もいたけど、
 いい時代だったなと思うよ」

富山・細入の人>
「ここらへんは、川の水を田んぼに引かないしイ病はなかった。だけど
神岡と仲はよくない。働きに行った人もたくさんいるけど、みんな
早く死んだよね」「今も年に一度は、行政かなんかが変なことしてないか
あの工場に立ち入るんだよ」
「すぐ近くにダムがあるけど、その底には有害なものを
いっぱい含んだヘドロがあって、未だに放出できない。あふれたら
大変なことになる」
「イ病の資料館が出来るのは、いいことだと思う」

原因地と被害地が同じだった四日市と比べてしまう。
原因地と被害地が県をまたぐイ病の場合、被害者側は声も上げやすく、
行政も保護しやすい。
もし被害地が岐阜だったら、大いに税金を納め、城まで建ててくれる三井金属に
厳しい態度で臨めただろうか。
同じ県民である神岡の人たちがこれだけ恩恵を受けていて、
被害者たちは大きな声で責められただろうか。
富山の被害者団体がしっかりと組織されており、資料館を何億も掛けて新設する
に向け、動いていることは、声を出して議論しやすい被害構図だったことが
大きく関係していると思う。
(ほかにも、病気の性質とか、被害地が農地だったこととか、いくつかあるのだがまた今度の機会に)。

神岡には今、東大の小柴さんがノーベル賞を受賞した研究「ニュートリノ」の
実験施設「カミオカンデ」が鉱山の坑道跡にあり、ほかにも東北大の
実験施設などがあるらしく「宇宙科学の町」としてPRしているようだ。
年に一度、廃止した坑道の見学とそれらの研究説明をあわせたツアーを
企画していて、今年は来週に行われるとのこと。

これだけのどかで美しい自然が間近にあるのに、
それらへの言及は見なかった。
企業が手のひらを返したように企業イメージや戦略を変えるように、
その土地のアピール内容が変わってしまうのは少し寂しいように思った。