ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

上京してました

2008-10-26 22:38:29 | Private・雑感
四日市から名古屋に出て、東京で降りて
広い駅内を横切っていると、
すべての感覚が、それが毎日だった学生時代に戻りました。
まるで毎日、こうしているかのような。
4月から10月までの名古屋・四日市の期間が
いとも簡単にすっぽりと抜けてしまった。

もうひとつ言えば、4月から7月の研修4ヶ月間と比べると、
8月から今までの、2ヶ月ちょっとの方が断然長い。
だいぶ「四日市に住んでる」って気になってきたけど、
千葉にいたときみたいに、そこに生活してるって感覚には
一生ならないような気がするな。
だからといって疲れるわけではないけど。

とりあえず動いて、仕事に慣れて、毎日の仕事をこなしているだけで
満足しないようにしないと。
情報が受動的になっていて、能動的な思考が少なくなっている気がする。
まず目標は、11月中旬と末に締め切りのあるコラム。
せっかく自由なスペースなんだから、書きたいことを堂々と書きたい。
今日締め切りだったコラムでの敗北感を忘れずに、
何か能動的に動かなくちゃ。

岡田卓也

2008-10-18 19:43:34 | Private・雑感
四日市で押さえておかなければいけない人物といえば、なんといっても岡田卓也氏だ。
四日市の「岡田呉服店」をJUSCOに、イオンにと日本大手の小売企業にした人物。
もちろん、11月末の四日市市長選でも大きな鍵を握る人物とか。

1925年生まれの83歳。
2時間の講演を、立ったまま、言葉明瞭にやってのける、元気な人物。
戦後焼け野原の四日市に立ち、「焦土に開く」と書いた岡田屋バーゲンの折り込みチラシを
「やっと平和が来た」と握りしめる住民を見て
「小売業の繁栄は平和の象徴だ」と思ったという。

小売業は人の変化を感じ取り、対応していかなければならない。
「30年も立てば世相はすっかり変わる。企業も変わらなければ」と
ジャスコに、イオンと名前を変えてきたのだそうだ。

ふと思い出したのは、新橋で一ヶ月だけバイトした小料理屋の女将。
「日航機が墜落したとき、阪神大震災がおきたとき、十年ぐらいずつ仕事を変えてきた。
 何か変わらないと恐ろしいことが起こる、ってそう思って」。

すごいなと思うのは、自分を変えようと思うことではなくて、
どう変えるか、ということをちゃんと具体化して人生をやってることだ。
「このままじゃいけない、変えよう」と思ったって、ただ足踏みして考えあぐねたままの人も
たくさんいるだろうに。

2歳で父親を亡くし、11歳で母親を亡くし、姉らが代表取締役を担った後、
早大を卒業してすぐ家業を継いだ岡田氏。
商工会議所で工業部連中に「小売業は雑魚やないか」と言われながらの奮闘とか、
東京の百貨店審議会委員を毎日夜討ち朝駆けして勝ち取った出店許可とか、
聞いてたら、自分が甘やかされてここまで来たのかなと思ってしまった。
現状も、どうやら幸運にも恵まれた職場環境だし。

少しは生まれてきた余裕を、どうやって使おうか。
早くしないと年が変わってしまう。