ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

四国・京都から帰ってきました

2007-07-29 08:49:46 | Private・雑感
飲食代1万円って、7泊8日の旅行でおかしな目算ですよね。
もちろんオーバーでした。

が、帰ってきました。無事に。

最近他人に興味が少なくなってきていた自分が、また他人の考えることに興味が出てきました。なんだかんだいって、友人と話す時間が非常に長かったからだと思う。

この旅をそそのかしてきたUさん、四国で再会のUくんや、京都で働き始めて宿を提供してくれたT、スケジュール管理のへたくそなノルウェー人Aとの再会、最後の晩餐は高校の友人で宇宙を極めようとしているMちゃん。

それに、ふらっと手にしていったオルテガの本に触発されたり、川端康成の世界に浸ってみたり、坂本龍馬の手紙に鳥肌が立ったり。何かを成し遂げようとする人間はどういうものか、なんとなくわかった気がしたし、少なくとも興味が高まった。

・・・でもちょっと最後は長かったな。といいますか、暑かった。

さて、夏休みはそろそろ終わり、かも!

京都・四国

2007-07-20 01:31:13 | Private・雑感
高速バス(東京・京都往復) \8600
青春18きっぷ(2回分)  \4100
宿代(たぶん1回)     \2000
その他交通費(高松・直島間フェリー含む) \6000
飲食代           \10000

京都・四国のダイナミズム  priceless

計・3万円強 + 娯楽費 など + priceless

実質7泊8日の旅。こうやって見てみると、やはり切り詰めるべきは食費だとわかる。

明日の夜、品川24時、久しぶりの日本の旅が始まります。

『市場を創る―バザールからネット取引まで』

2007-07-19 09:03:53 | Book
ショック。30分かけて書き終えたところで文章が消えました。あぁぁぁ・・・。
あぁショック。立ち直れないのでここまで。

でも、2週間前くらいの新聞の書評にあったこの本は、おすすめです。

多種多様な「市場」を、どこまで経済学が説明できるのかに挑戦していて、レンブラントが試みた芸術品市場(それが、パトロンから独立した創造のための資金源を生み出すことになった)から、築地市場、ネットオークションまで進む。オークション理論が専門らしい著者は、インターネットやIT技術の進展が、オークションを用いた新たな「効率的メカニズム」形成の可能性を示唆している、と言う。現に、アメリカの周波数割り当てやスウェーデンの鉄道輸送サービスの割り当てなどで使用されてもいる。

参考文献や参考論文も多く書かれていて、知的好奇心もそそられるという、なんだかお得な本にも思える。いろいろ書いたのに消えてしまって残念。

・・・

それと、昨日の夕刊で報道されたブラジルの旅客機墜落事故(200人以上が死亡)が、なぜ今日の朝刊でひとつも記事が無いのか。御巣鷹山の事故を経験した日本、でなくても、大事故ということがわかるはずなのに、読売と日経には記載がなかった。

メガ・チャーチ―――アメリカのマーケティング技術の集大成かも

2007-07-18 23:59:47 | Public
アメリカは―――「まさかね」っていうことがほんとに起こってる、私にとって(日本人にとって?)かなり奇妙な先進国だ。
人口が2億8千万人、日本の2倍ちょっと。人口比で「奇妙なことが実現する確率」の代替指標になるとは考えていないけど、、ちょっと比べてみたかった。

忘れないうちに書いておこうとおもった今日のびっくりは、「アメリカのメガチャーチ、(と大統領選)」である。今夜のBS1「きょうの世界」の特集である。

「宗教保守」(中絶や同姓愛反対を唱える)というカテゴリーの宗派(?)が、メガ・チャーチを形成して巨大(政治)組織となっているらしい。チャーチとはもちろん教会のことだが、礼拝はプロ・バスケットリーグの会場を貸し切り、プロの歌手がアレンジした賛美歌を歌い、カリスマ的牧師が巨大スクリーンを駆使して訴えかける。週に3日あったりもするし、子供の遊ぶ施設も併設されている。

教会+地域住民施設+政治組織+・・・なんでもありという感じだ。
との解説。2つ、気になる点があった。

ひとつは、上品な「抱き合わせ商法」と言えるのではないか、ということ。
研究者は、「マーケティング」という言葉を使っていた。
「郊外の新興住宅地、若い子供連れ核家族、社会的連帯への抵抗、、という状況を離婚率などを見ながらマーケティングした上でメガチャーチは組織される。」と言っていた。宗教というゆるい枠組みを使って、中絶反対、同性愛反対、戦争賛成、医療保険反対、というように価値観をぐるっとまとめてしまっていないだろうか。
事実メガチャーチは、強烈な共和党の支持基盤である。

2つ目は、新しい姿として、あるメガチャーチの牧師のひとりが、ひとびとの意見を「取り込もう」としていたこと。
「信者は地球環境保護に強い関心と支持を持っている。われわれは、常に共和党にイエスと言い続ける必要はないし、自らの信念をアピールすればいいんだ。」というわけである。

教会は・・・ひとびとを導くものではないのか。

先日の読売新聞社取締役の滝鼻さんの講演でも違和感があった。
「われわれは大衆の意見を常に把握しなくてはいけない。」

なぜなのだろう?
ジャーナリズム(やその他)でなくて、何が、人々を導く(選択の上で大きく依拠する)と言えるのだろう?

新鮮な驚きのままに書き連ねた拙筆でした。

連続関数と不連続関数

2007-07-12 21:56:48 | Private・雑感
物事の変化の類型として、「連続型」か、「不連続型」か、というものがあると思う。

何か一つの指標の「推移」として捉えることが出来るものか、「勃発、改革、事件」のように一時点を支点として物事が大幅に変わるもの。どちらが大事とか言うわけではないが、分析の仕方が大きく違う、と思う。

主に経済学者は前者が得意なのだと思う。数字は、たくさんあったほうが分析対象として心強い。関数として線でつなげて傾向を捉えたい。

法学者や政治学者が得意なのが後者なのかな、と思う。彼らが対象としているものが、制度とか、その改正とか、という不連続に見えるものだと思うからである。

でもできれば、不連続なことを、連続関数で捉えたい。
ある不連続な出来事の背景には、その要因となるものの連続的な推移が変化していて、舞台は出来上がっていたのだ、というように。

「数字では見えないものを分析する」
とはそういうことか、と思った帰り道でした。

新聞業界の枠と中身―――『新聞社』と『官僚とメディア』

2007-07-12 00:48:50 | Book
昨日と今日で、2冊の新書を読んだ。半分衝動買いの2冊が、私が首をつっこもうとしている業界の、2つの側面を垣間見せてくれる良本に思えたので紹介します。
1冊目が、『新聞社―破綻したビジネスモデル』、2冊目が『官僚とメディア』。二つの本から新たに見えてきたのは、広告収入の不確実性が、新聞社と政府の結びつきを強くする傾向があるんじゃないか、という推測である。

・・・

―――真の危機というものは、いくら大声で叫んでも人の耳に入らない。人は組織の中で有形無形の身のまわりの小さな危機によって自己規定され、大きな危機を叫ぶ声を小耳に挟みはしても、日常業務に忙しい。・・・危機はいつだって脱出路の提示という形でしか認識されない。

〔山本七平『日本はなぜ敗れるのか――敗因の21か条』〕

という言葉が、著者にこの本を書かせたとあとがきにある。新聞業界の危機(「毎日新聞社はナイアガラの滝の縁まで来ている、とまで指摘する)、特に新聞というメディアの供給(生産・販売)構造と需要(インターネットなどの他メディアとの競合)という側面においての危機に対し、それを明らかにした上で「脱出路の提示」をしている本である。

ひとつは、時代遅れ名部数至上主義が、非合理的な販売店構造の改革を先送りさせ、人口減、読者絶対数の減少を直視していない業界を批判する。
ふたつめに、新聞が筆頭となったメディア界のグループ化の変遷(主に田中角栄がテレビ局の申請を一挙に認めた1957年以降)をたどりながら、マスメディア集中排除原則が、公然と行われている他メディア(系列キー局など)の株保有などから刑害していて、「不偏不党、政治的公平、事実報道、多面的な意見の報道」などを強要するシステムが「無意味」どころか「弊害」を生んでいると言う。
最後の章で改革案の提示である。

とくに2つめ、耳障りよく聞こえる「マスメディア集中排除原則」が実際に意味したものの解説が面白かった。

マスメディア集中排除原則
・多様な言論を守り、一事業所が複数の放送局を支配することを避ける。
具体的には
・新聞事業、テレビ事業、ラジオ事業を同一事業所が所有することを原則的に禁止
・一事業者が所有、経営できる放送局は一つまで
・この事業者が複数の放送局に出資する場合は、10%もしくは20%以上の株式保有を禁止

というもの。
現実は、紆余曲折を経て、新聞社をリーダーとしてメディア同士が株式の資本関係を持っている。5系列で「多様な言論」か!?寡占市場の中で、「一社の中に多様性を求める」から、バラエティばかりの視聴率合戦になる。アメリカのように、どうせ無理な「不偏不党、政治的公平、事実報道、多面的な意見の報道」を捨てて、宗教メディア、政党メディア、など事実上の多様化をどんどん進めればよかった、と展開する。

エントロピー増大の原則はここでも有用であるらしい。大体、言論の「分散化」をその主要な役割においているとも言える新聞やメディアが、自ら系列化するのはなるほど無理がある。本にも何度も「知識レベルが平均的に高い日本人、その人たちに支えられている新聞」というような書き方があるが、その一方で「多様化した意見から、自らの意見の選択(たとえばどの新聞を読むか、など)を経験してこなかったために”なんとなく知識者”ばかりで主体性が育たなかった」という面はある気がする。とすれば、新聞やメディアの多様化を阻んだ「マスメディア集中排除原則」の罪は大きい。

最後の改革案も、それを意識しながら新聞を読むのに値する、現実的でありながら「改革」と呼ぶに値するように思えた。中日新聞がそのキーを握っていることがなんだか嬉しかった(笑)。

・・・
2冊目は『官僚とメディア』。共同通信を自主退社した著者が、メディアの質についての通信社・新聞社の限界を示す。具体的には、耐震偽造事件、村上ファンド・ライブドア事件、NHKの政権介入事件、裁判員制度普及のためのフォーラム・さくら事件、を、事実の経過とマスコミの熱の経過、彼の見た事実と、国民に流れた熱の違いを書いている。面白いし、あれだけ騒がれた耐震偽装事件も、自分がまるで理解していなかった、むしろ誤った印象だけをぼんやりと残していていたことに気づき、恐ろしくなった。

この2冊では、それぞれがメディアの怖さや弊害、その原因などに言及している。その中で感じた「メディア(新聞)のアキレス腱」は、「広告収入の将来が見えない」ことである。それが政府との蜜月関係、報道の質の低下につながっている。行政活動における広報は、部数の伸び悩みと人口減というマーケット縮小から折込広告に不安を感じる新聞にとって、大きな営業先である。一方、いまや信頼をなくし、政治家も当てにならない政府は「堅実で信用あるメディア」として新聞を頼らざるを得ない。

なんだか急に、新聞業界で働くことになるのか、という実感が湧いてきて、課題図書が増えた。新書で、思いがけず気持ちよく読みきれて、新書も悪くないじゃないかという気分になりました。

・・・

今日は久しぶりに運転、良い本棚が見つからず。
父から財布のプレゼント、財布の軽量化に挑む。
それよりなにより、腹筋強化プランを作成、したい。

『勝者の代償―The Future of Success』

2007-07-08 22:51:01 | Book
アメリカ 2002年 ロバート・ライシュ

 金融市場のヒートアップ、CEOのびっくりするような高給、インターネット支配、人々の過剰労働―――アメリカでいったい何が起こっているのか!?を見事に解明している本。的確な抽象化、言葉の選び方、ストーリーの創り方、そして説得力に驚く。本の中核部分は以下のようなものである。

・ニューエコノミーがもたらした新しい仕組み

 大量生産時代から、いろいろなものが変わった。とくにITが、生活や仕事を変 えたと実感している。これが意味しているものは何か?
 それは、「取引コストの著しい低下」である。
 消費者は非常に低いコストで情報を手に入れ、比較し、買うものを決めるようになった。生産者側への圧力は飛躍的に大きくなり、

 →常に技術革新が求められるようになった

 →一部の創造的労働者の価値が急上昇した

 より良い製品・サービスへの消費者の願望に応えられる、アイディアマンのニー ズが急上昇した。新しい分野を作り出してしまう創造者と消費者の潜在的な欲求 を掘り起こすのに成功する創造者(変人と精神分析医、と著者は呼んでいる)に 仕事が集中し、

 →常時対応を求められるようになり、、「常時出勤中」の仕事中毒状態が恒常化した

 →ブランドの力が増大

 「ハーバード」を含め、ブランドがブランド・ポータル化し、名前を使ってナンにでも進出するようになった

・雇用の終焉

 雇用システムが変化し、誰もが「企業人」でなく「個人」で働くようになった。これは「不確実性の増大」を意味する。人々は(時折仕事の出来不出来に関わらず)解雇されうる状況に居る。その不確実性をカバーするために猛烈に働く。

 前工業時代にも雇用関係は無かった。ただ、そのリスクをプールすることのできる地域や大家族のコミュニティがあった。それがない今、人々は自らの「今」で未来のリスクをプールするしかない。

・・・「人々がこれまでにないほど「今日」一生懸命働くようになったのは、「明日」の支払いの必要のためなのである。」

 すなわち、人々は進んで残業を申しであるのである。

・「個人的な気配り」の削減

 個人的な気配りは、総じて生産性の低いサービスとも言える。技術に代替できるサービス―――電話交換手、銀行の窓口係、小売店の店員など―――からはもうすでに人がいなくなっており、それが出来ない「個人的な気配り」産業へと人が流れてきている。

・・・

 つまり、「ひとは、消費者であると同時に生産者である」ということを彼は随時呼びかけている。ニューエコノミーの恩恵を、消費者として、自由でハイレベルな取引を行えるようになった。より買いたいものをより安く、より簡単に手に入れられる。しかし、その分生産者として、非常に長い労働時間と、過労と、粗悪な地域サービスと、気配りの無い生活を受け入れなければいけない―――代償として。

 この、ひとつの要因に対する二つの側面を、どのように対処すればアメリカ人はよりハッピーになれるのか。

 いくつかの提言は、社会保障の枠組みの中にあった。急激な所得変化への社会保険、義務教育などのサービスの公共化などである。

 このような経済構造の変化は、多くの面で日本と共通している。その中で、情報の重要性―――著者は、ブランド力の増加、顔見知りネットワークの価値増加について言及している―――は増すばかりだろう。「メディアの権力」はまさに現実のものとなっている。かつては企業の「予測整合性の上昇」のために生まれたのが広告だ、と著者は言う。独占を試みて価格、収益の予測性を高めるというのと同じ行動原理である。
 メディアは、逆かもしれない。それ自体が「不安定性」を求めているかのように動く。

 より、「ビジョン」が重要になってきているとも言えるのかもしれない。アメリカの労働長官だった著者は、それを仕事とするために執筆活動をしているのかもしれない。(いずれにせよ、労働長官というような行政トップの仕事をする人が、これだけ創造的な、上手い文章と分析をしていることが結構ショッキングだった。)

クリントンからブッシュに変わり、ITバブルが崩壊した後のアメリカについて、この次の著作も読んでみたいと思う。

 


伊能忠敬

2007-07-08 09:10:17 | Book
伊能忠敬(1745~1818)享年73歳。

 昨日、初めて佐原を訪れた。水郷の町、そして伊能忠敬の故郷である。

 忠敬が家業を隠居後に測量をはじめ日本地図を描いたことは有名だが、正確にはそれは55歳からのことであるらしい。伊能忠敬記念館での印象を書いておきたい。

 九十九里に生まれ、佐原には婿養子として移り住んでくる。妻にとって忠敬は二人目の夫(前夫とは死別ではないようだ)であったらしい。忠敬自身も、最初の妻と死別後何人も後妻を持っている。江戸中後期のこのとき、婚姻関係はかなり自由だったのだろうか。伊能家が裕福な商家だった(農家ではなかった)のが大きいのかもしれない。

 村で何回か紛争解決などで名をあげる。津田氏から苗字帯刀を許されるのが39歳のとき。

 49歳で家業を息子に譲り、隠居。忠敬の時代に家業(運輸、倉庫、販売など)の売り上げは3倍になったとのこと。商才があったようだ。

 1789年、44歳、フランス革命、ワシントンん初代大統領、老中・松平定信の寛政の改革

 1792年、47歳、ロシア使節が日本(根室)に来て通商を求め始める

 1799年、54歳、幕府は蝦夷地を直轄地とする
 
 1800年、55歳、測量開始。奥州街道~蝦夷地。事業費の1、2割が政府から補助されたらしい。

 1802年、57歳、第三次測量から公用事業として無賃の人馬使用を認められる。
 
 1808年、間宮林蔵、松田伝十郎、樺太探検
 1811年、66歳、間宮林蔵、忠敬に測量を学ぶ
 ・・・
 1818年、73歳、死去

 1823年、シーボルト来日、
 1829年、シーボルト、忠敬の地図の国外持ち出しを罰せられ、国外追放

・・・
 ちょうど『菜の花の沖』の頃だと思う。同時代の人に本居宣長(1730-1801)、杉田玄白(1733-1817)などが書いてあった気がする。

 商人だっただけあって、帳簿付けの要領からか様々な記録が几帳面に残っている。記念館には、本の所蔵録、紀行記、勉強ノートなどがたくさんあり、私にでも読める字で、文で、書いてある。測量なのでもちろん数学的記述も多く、筆で書かれている縦書きの図式が面白い。読書量にも圧巻。

 記録に残すという作業は、記録それ自体よりも重要である、と最近思う。最先端で「記録に残す技術」を開発し、用いていた江戸時代の商人たちは、実は相当頭が良かったんだろうと思う。船を使った輸送、気候に大きく左右される作物量やその質など、多くの不確実性をさばいていたのが彼らだと言えるだろう。佐原の町は、おそらく、銚子から利根川を登ってくる輸送船を逗留し、取引を定め、江戸に送る役割で栄えたのだろう。それで利を得た商人たちの邸宅が少々立派で、街並みの保存に声がかかって今のような風情ある街並みになったのだろう。

 この時代の江戸時代の知識人が持っていた、知識へのバイタリティは敬服モノである。伊能忠敬の面白い伝記があれば読んでみたい。

 うなぎ屋・山田が、大変おいしかった。非常に満足、非常に贅沢なお昼ご飯でした。

アラバマ物語(原題:To Kill a Mockingbird)

2007-07-04 09:33:51 | Movie
アメリカ 1962
主演:グレゴリー・ペック
★★★★

父であり、弁護士であり、紳士―――ひとりの男の生き方を、六歳の娘の夏の物語として描いた作品。黒人差別、引き起こされた裁判、いろんな人間の苦渋の選択が、客観的に写されていて、非常に効果的に心に響く。

グレゴリー・ペックが非常にかっこいい。この作品でアカデミー主演男優賞に輝いているのもうなずける。そして私にとっては、今まで見た映画で一番、弁護士という仕事が魅力的に描かれていた。

「世の中には、私たちのためにunpleasantな仕事をしなくてはいけない人が居る。 あなたのお父さんはそのひとりなのよ。」

クールな顔で熱い仕事をしてみせる、私には到底出来ないが、非常にかっこいい。


グレゴリー・ペックは(気づかなかったが)「ローマの休日」のあの新聞記者である。続いて、「紳士協定」も見てみなくては。

・・・

昨日書いた、おととい亡くなった弟の知り合いの話である。
お通夜に行った母が持って帰ってきた、カード。

僕は死なない。
絶対復活して、レオの親分になって、
また、生きて、遊ぶ。

と書いた絵葉書である。
一度見ただけで覚えてしまう、力のこもった言葉。
確か一度しかあったことは無いのだけど、よく我が家の会話で登場してきた人物。
子供のための遊び塾はいつも経営難だったようだが、
集まっておにごっこをしたり、絵を描いたり、タコを作ったり、
山にキャンプに行ったり、勉強したり。
一時期は毎日弟が通っていたので非常に身近な存在でもあった。
弟がぐれたときには、レオだけが救いのようでもあった。

彼は、やりのことがたくさんあったに違いない。
「復活」という無邪気な言葉が、妙にリアリティを持って聞こえてくる。

生きて、遊ぶ。

ブログに書くにはもったいない言葉だと思って書いているが、
忘れたくないので、自分のために書いておきたいと思いました。

ボルベール<帰郷>

2007-07-02 22:41:22 | Movie
2007 スペイン
★★★★
監督:ペドロ・アルモドバル
主演:ペネロペ・クルス
http://volver.gyao.jp/

「この映画は、5人の女性をもって女の一生分の切なさを描いている」
と、映画を見た帰り、新聞の裏面にあったこの映画評を読んだ。上手く言い当ててると思う。女は、弱く、悲しく、非常に強い。とてもよく出来た、美しい映画なので見てみてください。

ところで、女は強いのか。

スペインはどうやらもう随分と、失業率が高い状態が続いている。この映画でも、主人公の夫もしょっちゅう失業するろくでなしである。
しかし職をもとめる具合は女も一緒。こういう経済状況でいつも女の強さが強調されるのはなぜだろうか?

ひとつは、女の就く仕事、清掃、洗濯、料理、などのサービス業の方が経済不況に強いからかもしれない。基礎的消費、地元消費のサービスに携わって、収入の無い一家を支える。

・・・なんてね。

映画とは関係ないが、人は、すぐに死に得るものらしい。
弟がお世話になった遊び塾の発起人・経営者のおんじが亡くなったと聞いた。
享年55歳くらい、一年前に癌がわかり、それから1年もせずに亡くなった。
1年。死を準備するには短すぎる。
死ぬ前に、何も予告の無い人も居れば、自ら、予告し、自ら手を下す人も居る。
後輩の卒論テーマ「自殺率の要因分析」は非常に興味深い。

昨日、一日友人とふらふら過ごした。
彼は、どう考えても働きすぎだと思う。
話を聞いていて、というか今日の余韻として残っているのは、なぜかそのことに対する静かな憤りみたいなものだ。
一部は彼に対するもの(どうして手を抜かないの!?)であり、ひとつは何か構造的なもの(仕事量の増加に対し、人間の増加でなく、一人当たり労働時間の増加で対処する傾向)である。
もちろん、彼にどれだけの選択権があってそんな忙しく働いているのかはよくわからいのだが。

そういうわけで1ヶ月がスタート。
そろそろ明日の発表準備に取り掛からなくては・・・。

・・・
最近観た映画
「ブリジット・ジョーンズの日記2」★★★★★
「エリン・ブロコビッチ」★★★☆