ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

世代というもの

2007-04-30 21:34:05 | Public
「もし経営者がここに住んでいたなら、こんな事態にはならなかっただろう」

公害の問題に根気強く取り組んだ経済学者、宮本憲一氏の連載を思い出す。
経済学で扱う「経済主体」は、ときに個人であり、ときに家計であり、ときに企業であり、ときに省庁だったり政党だったりする。「どこまでを自らの利害関係主体とするか」でモデルが変わってくる。経営者は地元民と利害関係を同じくすることが無かった。だから、気づかぬ振りをして公害問題を長期化、深刻化させた。

なぜこんなことを思い出したのか。それは、世代間格差の問題もこれと同じことなのかもしれない、と祖父母の家を訪ねて思ったからだ。

群馬県の標高400mの田舎に、父の実家がある。農家を営んでいる祖父が78歳、祖母が75歳。千葉の生活とは全く異なるここの空気が好きで、よく訪ねる。

祖父母と暮らしていると思う。普段どれだけ自分が「同世代」+両親、としか「暮らして」いないか、ということが。自らの問題として、どの範囲まで他人のことを考えられるか―――その範囲の狭さが、身近な「同世代」のみを養護してその他を「他人事」としてしまう世代間格差を助長しているのではないだろうか。

「他の世代が身近ではない」のは学生特有のことだろうか。核家族特有のことだろうか。わからない。でも、兄弟の数が減り、叔父、叔母、いとこ、といった親戚も数が少なく、世代的な広がりは一昔前に比べると明らかに小さい。
10歳の男の子がいじめにあって自殺したとして、「あぁ、いとこの娘のあの子と同じ年の子かぁ、ひどいことだなぁ」と思えることは少なくなっている。

それは、心が貧しくなっていることを意味しているような気がする。
祖父母を見ていてそう思う。
自分以外の人の人生、自分とは異なる時代を生きてきた人の人生、自分より若く、長い将来を持った人の人生、を、真剣に考えること。

実際、考えすぎれば身動きが取れなくなってしまったりする、難しい問題でもある。
でも、一回しかない人生で、自分と自分のすぐ周りに居る家族や恋人のことしか考えないんじゃ、やっぱりちょっと貧しい。

「世代」が利害を一致させやすい歴史的背景があるような気がする日本。その危うさは、価値観の多様化、なんていわれるものが進んでもまだ内在し続けるように思った。




セキュリティー対策商品市場

2007-04-26 00:34:52 | Public
都心に、一心不乱に増え続ける高層ビル。それらには例外なく万全のセキリュティー対策がなされている。
入り口にはガードマン。入館には入館証。過剰反応ではないか!?これってどんどん過激化してないか!?

なぜセキュリティーが強化されてきているか。

1.ビル内へ会社関係者以外の人が乱入し、何かしらの事件がいくつか起こった
2.警察や自衛隊からの天下りかどうかは知らないが、退職後のおじさんの再就職先としての警備会社の人手が溢れた、使い先を探していた
3.セコムの営業努力、

などか?
ポイントなのは、入館証さえ持っていればよいということ。社員による個人や企業の重要情報持ち出し等の犯罪には無効である。

検証の一つとして、セキュリティー対策大好き国家、シンガポールの姿がある。セキュリティー、リスク回避、とか、いかにもアメリカが好きで得意そうな市場分野ではないかと思ってしまう。金融商品、保険商品などに似て、ひとに「こんなに恐ろしい!」ということをアピールすれば、潜在的需要を容易に引き出せるからだ。

セコムその他の企業背景、それらの海外投資家比率、シンガポールのそれ、などが検証材料か。

セキュリティー国家の行く末として、ひとつの姿に「ベルリン、僕らの革命」に描かれた世界があるかもしれない。この映画はおすすめです。


・・・
というようなことを今日のWhats newで言おうかなと思っていた。回ってこなかったので、なんとなくここに記してみました。
明日、あさってが終わったら、頑張れゴールデンウィーク。溜まった宿題と格闘する予定。もちろん遊びもありますが。

大英帝国

2007-04-22 22:09:12 | Public
映画、『Queen』を見た。イギリスにとっての王室とはどんな存在なのだろうか、その感覚が少しだけわかった気がした。

ダイアナの事故死から湧き起こる、微妙な感情のやり取り――一度王室に入り、ドラマチックに王室を去ったプリンセス・ダイアナのスキャンダラスな死を、元親族、将来の王子となる子供たちの母親、王室のイメージを痛めつけた現代女性、、とどのような対応をしなければならないだろうか、という場面での女王の立ち振る舞いを描いている。

王室と国民は、どうあるべきだろうか―――

エリザベス女王の、1992年の言葉がある。ヨークの公爵とその夫人が離婚し、ウェールズの王子、王女も離婚し、国民感情がとげとげしくなっていた矢先、ウィンザー城が放火された年である。

国民の批判をどのように見たのか。
(王室や行政府など、国民の監視から自由であるべきではありません・・・
「But we are all part of the same fabric of our national society and that scrutiny, by one part of another, can be just as effective if it is made with a touch of gentleness, good humour and understanding.」

マスコミは何のためにあるのか、それはgentlenessとgood humour and understandingで居るためのものなのだ―――この3つの単語は、いかにも英国らしく、あの女王の口から発せられる言葉としてふさわしい。

それにしても、ダイアナはなぜあれほどの人気を集めたのか。1997年は10年前だが、私にとってはさほどショッキングなニュースではなかった覚えがある。単にそれ以前にダイアナ妃をほとんど知らなかっただけだが。
映像で流れた、彼女の国葬に参列した人の群れが非常に印象的だった。

映画としては、あっさりとしすぎていて、物足りない。トニーブレアがいい役すぎて、ユーモアがなかった。


ウォール街

2007-04-17 22:24:32 | Movie
ある企業の株主総会。取締役を前に並べて株主が質問を投げかける。
集会最後、待ってましたとマイクを取ったのは投資家で大口株主のゲッコー。

「株主のみなさん。この会社はお金を持っている、でも消える。おそらく副社長間の書類のやり取りにでも使っているのでしょう。私たちはもっと主張すべきです。その権利がある。わたしは自分のために言ってるのではないのです。株主が声を上げなければ、この会社だけでなく、株式会社U.S.Aは経営難におちいってしまうのです。」

株式会社U.S.A。そして株式会社JAPAN!?株主の国籍は日本人に限りませんのでご注意を。株主総会は何語でやりましょう?

だから僕は学校へ行く

2007-04-15 21:40:51 | Book
『五体不満足』を書いて世に知られた、乙武さんが、この4月から杉並区の小学校の教師として働き始めている、という話は有名かもしれない。彼が、教育に興味を持ち、教師という職業を選び、働くまでに資格を取ったり勉強をしたりした経過と彼の考えをつづった本が、『だから僕は学校へ行く』だ。

ベストセラーを書いた後、スポーツ選手へのインタビュー、物書きとして5年が過ぎ、「そろそろ、新しい、人生をかけて極めたいと思うような道を決める時が来ているんじゃないか」と思いつつも、それが何なのかわからずに、悩んだ時期から始まる。

新宿区の小中学校、養護学校を視察し、レポートをするという区のプロジェクトの一種みたいなものとして、視察をし、また海外の小学校での経験や、不登校児を受け入れるNPO団体の施設なども紹介。体罰や、学力低下、学校安全なども問題に素直に「なぜ?」と切り込んでいく。

たとえば運動会。競争原理への過敏な反応から一時は「徒競走の順位をつけない」なんて滑稽なことがあったこともあるらしいが、現在はどうなのか?負傷するリスクの高い棒倒しなどは、今も実施されているのか?・・・という項では、運動会の歴史を引っ張り出してくる。富国強兵策の一環として、体を鍛える機会を!と始まった運動会。義務教育も始まったばかりの当初、適当な場所が無く神社やお寺の境内を使った。神社や境内に人が集まるんだから、盆踊りやイベントごとも一緒にやったらいいじゃないか、とお祭り調が加わって、外でのお弁当を楽しみにするような会になっていった。一方、政治団体が集会の場所を求め、運動会と称して「与党を倒せ!」と棒倒しをやったりしていたらしい。この部分が一番面白かった。
こんな調子で、現場、その制度の確認、成立と変遷、個別的な取り組み、そして彼の考え、と、重くない本ではあるが、しっかり出来ている。

「ある世代にある格差を、一度リセットするための公教育」だから、公立の学校にこだわったという彼。ルポ形式の文章に、「それは言いすぎでしょう」というような印象を持つことが多いが、この本にはなかった。現場の雰囲気がよく見える感じの本だ。

各小学校の様々な工夫を読みながら(立ち読みだったのだけど)、「こういう個別的な工夫を、どこか”小さなこと”と軽視していた」自分に気づいた。制度、制度、大きな影響力を持つものを、なるべく見るようにしてきた。それが経済学という学問が得意とする領域だから、だと思う。でも、ひとつひとつの工夫――例えば、外国人やハーフの子供が多い大久保の小学校では、毎月「おはよう」が違う。ある月は中国語、ある月はタイ語、というように。全校生徒が100人を切った小学校では、父兄が「親慈会」を作って、街ぐるみで学校の取り組みをサポートしている――は決して”小さい”ものではなかった。正解がなく、だからこそ個別的に、個性的に、無理なく模索していかなければならない教育の問題は、介護の問題とも重なるところが多いように思った。

耳をすませて聞いてごらん
未来の自分が言う言葉

NHKで特集されていた、自閉症の子供が書いた詩の一部。

いつかは、私も「人間ひとりひとりと向き合うサービス」がしたくなるんじゃないかな―――未来の自分の影がちょっぴり見えた。

医療崩壊

2007-04-15 00:58:18 | Book
春休み、ゼミで話題になっていた『医療崩壊』を読んだ。そろそろ春季貸し出し期間が終わり、返却しなければならないので感想を。

著者は小松秀樹氏、東大医学部を卒業し、現職が虎ノ門病院泌尿器科部長、という医師である。慈恵医大病院の医療過誤事件や、その他「現場」で起こっていることの報告と問題の指摘、政策としての改善案などを述べている。

「医療崩壊」の要因として、3つ紹介したい。
・極度の医療費抑制による人員配置不足、それからくる医療過誤
・警察による暴力―――専門的知識もなく医療過誤の現場に介入
・メディアの暴力―――専門的知識よりも患者側の意見を元に社会へ情報を提供

というものだ。
ふたつめ、警察の介入について、司法関係者は「理念からの演繹」で物事を考えている、と指摘する。こうあるべきだ!そうなってない!誰かが間違ったことをしているのだ、出番だ!という流れである。理念は怖い。スティグリッツの本には、理念の裏に本当の目的を持った非常にしたたかな市場至上主義者が描かれている。日本の司法は、もっと純粋に「あるべき論」を胸に暴力を振りかざしているのだろうとは思う。
「ドイツは解決をあきらめたのではない。法廷ではなく立法による解決を選んだのだ。」
これが多くの人間を幸福にする手立てであると思う。

三つ目、メディアの暴力。元来リスクを伴うことが前提である医療行為において、「過失」を過度に報道するメディアへの批判である。医者と患者の間の信頼関係を崩壊させ、過失を恐れる医師たちの合理的行動として、産婦人科医の減少が進む。
難しいことは「難しい」ままにし、簡単な「個人の視点=読者の視点」に逃げているメディアを憂う。
ニュースを伝える媒体が多様化し、それを手に入れるコストもピンからキリまで担ってくる中で、新聞が果たす役割はどんどん大きくなってくる。大手と呼ばれる企業はいくつもない。質の向上は、彼ら自身の自浄作用にかかっているようだ。

最後には、民主主義における知的エリートの役割と、その判断への期待が書かれている。知的エリート、「自分の頭で考える」人間へのメッセージだ。情報を自らで選び、理解し、判断する。そのあと、制度に反映させて最噴出を避ける。
情報の量と比例して、人間が頭を使わなくなってきているのだとしたら、人間は今急激に馬鹿になっていることになる。民主主義、メディア、教育、、とスティグリッツの書く世界経済の落とし穴といくつも危機のキーワードが重なったことが、非常に印象的だった。

貧困脱出の意欲

2007-04-12 23:35:26 | Public

発展途上国をどのように経済成長させていくべきか、という問題がある。何のために?アメリカ金融業界の需要を満たすために。スティグリッツが証言台に立ち、世界に訴える。工場を持たず、酸素を吸って二酸化炭素を出すでもない、オカネというものは、目に見えないところでとんでもない動きかたをしているらしい。

著書のひとつ、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』で、ワシントン・コンセンサス(IMF、世界銀行、アメリカ財務省の合意)に基づいたIMFの開発政策、その自己中心的な行動原理や閉鎖的内部構造、そして政策の失敗などについて触れている。

経済発展とは、各国の、経済的進歩の歴史である。

というクラークの定義。経済発展は、歴史の一部であり、あるべきなのだ。彼らの政策は、各国の歴史から浮いたものであり、いろんな不連続を生み出し、混乱を招いた。そんな記述を見ていて、日本の経済学者は何をしていたのだろう、と思ったりもする。他のどの先進国より、南アジアの経済状況を把握し、予測することに長けているはずだと思ったからだ。高温多湿、家父長制が根強い、人口が多く、「自発的近代成長」を試みている―――日本は特異な、後進国としての最初の経験をした国である。日本人の方が理解しやすい、経済発展の視点があってもいいのではないだろうか。ま、それが他国や、既存の国際組織に影響を与えられるかは別問題だが。

リカードは、アジアのような「定住してから久しいが、原始的生産の供給が人口増加に追いつかないために、人口過密のあらゆる弊害が生じている国」を「過剰人口低開発社会」と名づけた。そして、唯一の有効政策は、人口制限であると考えた。

そして人口制限は、所得水準の低い階級の経済的向上意欲(economic aspiration)を誘発することによってのみ可能である

と主張した―――これを読んで、これはIMFより頭がいいな、と思った。経済的向上意欲、「ただ生きていればそれでよい」という行動原理からの脱却。人間は意欲によって生きているのだ。ちょっと目が開かれた思いがした。






フロンティア・スピリット

2007-04-10 23:29:10 | Public
ユナイテッド93と、ハイジャックフライト93を見た。どちらも9.11テロで激突・墜落した飛行機4機のうちのひとつ、ユナイテッド93、唯一攻撃物まで到達せずにペンシルバニアの農村地に墜落した飛行機に焦点を当てた映画だ。後者は原題は「The Humburg cell」。

前者はドキュメンタリー映画の類で、ハイジャックされて混乱した機内を想像し、再現しようとしている。クウィリティーは高いと思った。後者は、悪くは無かったけど、最後の炎上した貿易センタービルを見る頃には「中間選挙でも意識して、テロを思い出させるためのフィルム?」と思ってしまった。

「わたしたちの世代」とはどこまでを指すのだろう。
世代とは、「何をリアルタイムで見、話題にしながら生きてきたか」ということでも区切られるのかなと最近思う。戦後、冷戦の始まり、高度経済成長期、ベトナム戦争、オイルショック、カンボジア内紛、日航機墜落、ボスニア紛争、湾岸戦争、ソビエト崩壊、、、これくらいまでは、私の中では「現代史」になる。
阪神大震災、オウム真理教事件、サカキバラセイト、砒素混入、奥尻島の地震、インドシナ沖地震、東ティモール独立、アフガニスタン侵攻、イラク戦争、、、なんかは、「現代:目の前で起きてきた出来事」に入る。
責任もって、目の前のことくらいはしっかり見ていかなくちゃいけないよな、と危機感を感じることがある。現代史のこともそうだが、特に現代のことを。

たとえば、アフガニスタン侵攻のことも、混乱して理解してないところがたくさんある。同時多発テロが起こって、その行動主体がアルカイダという団体、オサマビンラディン氏が総統として指名され、本拠地アフガニスタンを侵攻した。それにより、アルカイダを支援していたタリバン政権が崩壊、パレスチナへ逃走。パレスチナはアメリカから軍事支援を受けながらも、タリバンと和解をしたり、やっぱり出来なかったり。そんなところに、「大量破壊兵器の保持」が疑われるとしてアメリカはイラクにも侵攻。

世界の政治や経済、軍事関係、なんでもそうだが、「敵の敵は味方」の原理で動いていると感じる。それが、世界の勢力図を極端に二分化したり、複雑にしたりしている。世界を舞台に、そんな形相が出来上がってきたのは、冷戦前からなのだろうか?第二次世界大戦から?

「フロンティア・スピリット」は、アメリカの西部開拓時代の合言葉だが、これがアメリカの生まれてからの行動原理でもある、という話を今日聞いた。
東から西へ!そこには「フロンティアの終わり」があった。次は世界へ!アメリカ経済の離陸。そして民主主義世界へ!フロンティア・スピリット。なんだかいろんなところが納得いく。生まれつきなんだ。

アメリカ人は、西海岸に「果て」を見たとき、嬉しかったんだろうか、悲しかったんだろうか。2億7千万人いるアメリカ人の中で、どれくらいが彼らの血を引いているのだろう。その割合は、アメリカ政府や国防省の中では、やっぱり高いのだろうか?そんなアイデンティティーが、行政府にばかり濃縮されていかなければいいのだけど。