1985年、キリスト教の宗派のひとつである「もろみの塔」の信者、「エホバの証人」の家族の小学生男児が、トラックにはねられて病院に搬送され、手術のために輸血が必要となった際、親が「信仰上の理由」として輸血を拒否し、男児が死亡した。医者の再三の説得に、両親は応じなかった。
この事件を、エホバの証人の生活の視点から描いたノンフィクションが本書。目の前の「事実」を、無意識のうちに「テキパキ」考えてしまいがちな記者の仕事をしている自分にとって、それを戒めるような事件だった。エホバの証人の信仰はどんなものか、その信仰と生活がいかに密接なものか。10歳の少年も、もしかしたら死の淵にいたとしても「エホバの証人は輸血を受けちゃいけない。死んだとしても『復活』するから大丈夫」と考えていたかもしれない―だなんて、ちょっとやそっとでは考えが及ばない。本を読みながら、少しずつそんな理解に近づいていく。
先月読んでいた本は、『洗脳の楽園-ヤマギシ会という悲劇』。集団生活、集団営農、農産物の宅配販売などで一時期全国に農場があったヤマギシ会の実態、特に子どもが強制労働や暴力の中で痩せて小さくなっていったり、社会活動ができなくなったり、でもそれを肯定してしまう親がいたり、やりきれずに戦う祖父母たちがいたりといった状況を書いたノンフィクション。
こういうノンフィクションを読んでいると、まずはその事件や団体そのものを知らなかった自分に驚く。どんな形であれ、事件の存在を知らなくては、「恥ずかしい」と思うような歴史の一部なのだ。「事件は社会を映す鏡」と、新聞社の社会部は自分たちの存在意義を掲げるが、否定できない部分はある。ただ、20代のメディアに関わる人間として感じるのは、「過去の事件をもっと知らないといけない」ということ。現在、全国規模で「横」で起きている事件や出来事を知るのも大事だけど、「縦」があまり入ってない。「テキパキ」と思考を作るうえでも、「そんな簡単な話じゃないかも」「医療と信仰の話では、こういうのもあったし」と考えるのは、常識的に求められることだと思った。
ちなみに、『説得」この作家は、おそらくこの本の取材をしている間は現役の中央大大学院・哲学科の学生だったようだ。この作品でデビューしている。私が佐野眞一の『別海から来た女』(連続殺人の木嶋香苗を書いた本)で感じたような、「上から目線」が全くなく、読み進めるのに好感が持てたし、何より「だんだん文章がうまくなっていく」感じがひとつの楽しみだった・笑。
この事件を、エホバの証人の生活の視点から描いたノンフィクションが本書。目の前の「事実」を、無意識のうちに「テキパキ」考えてしまいがちな記者の仕事をしている自分にとって、それを戒めるような事件だった。エホバの証人の信仰はどんなものか、その信仰と生活がいかに密接なものか。10歳の少年も、もしかしたら死の淵にいたとしても「エホバの証人は輸血を受けちゃいけない。死んだとしても『復活』するから大丈夫」と考えていたかもしれない―だなんて、ちょっとやそっとでは考えが及ばない。本を読みながら、少しずつそんな理解に近づいていく。
先月読んでいた本は、『洗脳の楽園-ヤマギシ会という悲劇』。集団生活、集団営農、農産物の宅配販売などで一時期全国に農場があったヤマギシ会の実態、特に子どもが強制労働や暴力の中で痩せて小さくなっていったり、社会活動ができなくなったり、でもそれを肯定してしまう親がいたり、やりきれずに戦う祖父母たちがいたりといった状況を書いたノンフィクション。
こういうノンフィクションを読んでいると、まずはその事件や団体そのものを知らなかった自分に驚く。どんな形であれ、事件の存在を知らなくては、「恥ずかしい」と思うような歴史の一部なのだ。「事件は社会を映す鏡」と、新聞社の社会部は自分たちの存在意義を掲げるが、否定できない部分はある。ただ、20代のメディアに関わる人間として感じるのは、「過去の事件をもっと知らないといけない」ということ。現在、全国規模で「横」で起きている事件や出来事を知るのも大事だけど、「縦」があまり入ってない。「テキパキ」と思考を作るうえでも、「そんな簡単な話じゃないかも」「医療と信仰の話では、こういうのもあったし」と考えるのは、常識的に求められることだと思った。
ちなみに、『説得」この作家は、おそらくこの本の取材をしている間は現役の中央大大学院・哲学科の学生だったようだ。この作品でデビューしている。私が佐野眞一の『別海から来た女』(連続殺人の木嶋香苗を書いた本)で感じたような、「上から目線」が全くなく、読み進めるのに好感が持てたし、何より「だんだん文章がうまくなっていく」感じがひとつの楽しみだった・笑。