ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

記者クラブの記者室

2010-07-28 23:42:41 | Public
 大きな市の市役所や、大きな警察署の部屋に「記者室」「記者クラブ」と
表札のかかる部屋がある。机が並び、新聞記者やテレビの記者が席にいたりいなかったり。
担当記者が私物化しているので、資料が山積みになっているのがほとんど。
「こんどこういう祭りがあるので取材してほしい」という人が来たり、
来月の市議会の詳細な日程が張ってあったり。
役所の担当職員がひとり、ふたりいたりして、何かを広報してほしいという
団体や市民の対応をしたり記者と話したりしている。これが、地方都市の記者クラブのひとつで、
運用は地域、機関によってだいぶ違うが、まあ大体こんな感じだ。

 最近読んでいる本で、記者クラブ制度を否定する論考があり、
「なぜ記者は記者室を使えるのか」と改めて考えてみた。
記者クラブ、という組織があることはそんなに違和感はない。どこでも業界団体はあるし、
自浄作用とかなんとかで、必要だと思う。地方都市の記者クラブは、日本新聞協会の
その都市版みたいなイメージだ。

ただ、公的財産である記者室の使用については、積極的には肯定できないというのが私の考えだ。
反対に消極的肯定というのは、何の仕事でもそうかもしれないが、上司のいる職場以外の方が
仕事がはかどるとか、悲しいほど庶民的なもので、表現の自由とか報道の
自由とか、高尚な理由ではない。実質的に行政側として
必要な機関であり、場所を提供するだけのメリットもあるのは確か。
論考をもとに、少し調べたり考えたりしたことを書き留めておく。

 論考は、竹内謙(2005)「ジャーナリストは「養殖場」を飛びだそう」
『ジャーナリズムの条件1』で、副題は問われる記者クラブ制度。
元朝日新聞記者で、鎌倉市長になり、市役所内にあった記者クラブへの提供部屋を
「広報メディアセンター」にして、記者クラブ加盟者以外にも開いた人物だ。
タイトルからして「記者クラブはジャーナリストにとって弊害だ」という主張が
読み取れるが、とりあえず日本新聞協会の主張する記者クラブの意義はこうだ。(HPより)

----------------------
記者クラブの機能・役割は、(1)公的情報の迅速・的確な報道(2)公権力の監視と情報公開の促進(3)誘拐報道協定など人命・人権にかかわる取材・報道上の調整(4)市民からの情報提供の共同の窓口―である。
----------------------


記者室を提供することの解釈は、
----------------------
公的機関にかかわる情報を迅速・的確に報道するためのワーキングルームとして公的機関が記者室を設置することは、行政上の責務であると言えます。常時利用可能な記者室があり公的機関に近接して継続取材ができることは、公権力の行使をチェックし、秘匿された情報を発掘していく上でも、大いに意味のあることです
-----------------------

実質的には、記者クラブの役割(記者クラブに属する記者の役割)として、
記者室がどうしても必要な理由は、(1)公的情報の迅速・的確な報道だけだ。
そして、公的情報の迅速・的確な報道なんて、仕事の優先順位からすればそんなに高くはない。
そこまで迅速じゃなくてもいいはず。市や市議会のホームページに載っていることがほとんどだからだ。
くわえて、竹内氏が書いていた、「日本新聞協会が2002年に示した見解の中で
援用している1958年の旧大蔵省管財局長通達」の内容を知り、がっかりだった。
これは、国が公的財産を記者クラブに渡すことを正当化するものだが、
そこには「国の事務、事業の遂行のため、国が当該施設を提供する」とある。
結局、「公的情報の迅速・的確な報道」は国の事務にあたるのだ。
国の事務を新聞記者がやってると捉えることができてしまう。

客観的に考えて、新聞界の人はこういう「国のお墨付き」を嫌いそうなものだ。
他ならいざしらず、なぜ新聞協会の「見解」で50年も前のなんとか局長の文章を出すのか。
おそらく、多くの新聞社、地域で記者室の使用を続けたいからだろう。
今更、警視庁や財務省に始まり、全国津々浦々の県や市町にある記者室がなくなったら、
そこにいた記者たちを置く場所はない。

それならやはり、「見解」が言及するように使用料有りの、
賃貸スペースにするべきだし、そんなに支障はないと思う。

紀伊半島東部をぐるっと

2010-07-20 00:00:16 | Private・雑感
日本で一番大きな半島、紀伊半島に行ってきました。
今年分の夏を満喫。もういつ秋が来ても後悔はないです・笑。

・奈良へ
 17日午前6:30ごろ四日市を出発、名阪国道で奈良県天理市へ。
天理教って、芹沢光治良の自伝的小説『人間の運命』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B9%E6%B2%A2%E5%85%89%E6%B2%BB%E8%89%AF
で親しみはあったが、実際はよく知らない。
町中に「天理なんとか」ってあっても、天理教のものなのか天理市のものなのか
よくわからない。天理教本部や天理高校、その他天理教施設(独特な建物で統一している)
を見ながら、梅雨明けの紀伊半島に繰り出しました。

・高野山
 山へ山へ。目指すは高野山。
真言宗の総本山、金剛峯寺のある山の上です。
12時半ごろに着。標高900メートルを超えるところに、
金剛峯寺や数十の寺、そして町、小・中・高・大学がある。
そこに到達する道が、すれ違いも緊張するようなくねくねの山道だっただけに
驚いた。きれいな町並みの中に、人々が住んでいました。
人口4067人。約70%が金剛峯寺らへんの集落に住んでいるとのこと。

 空海の墓がある奥の院が印象的だった。
空海は、世界の人々の悩みや悲しみがなくなるときが自分の死ぬときだと言い、
なくなるまで自分が身代わりになろう、と言ったらしい。
だから、空海の墓の回りは「ここでは極楽浄土に行ける」となり、
宗派を超えて墓が建てられるようになった。
高野山を責めようとした織田信長までいる。島津藩、加賀藩、現代ではパナソニックや
クボタ、トヨタ、日産、キリはないが、有名どころに会社はほとんどそろっていそう。
それで、考えた。これは、比叡山延暦寺ほど財政的に恵まれていなかった高野山が
寄付を募るツールだったのでは無かろうかと。
現在は、何だろう、その組織力や統率力がもたらす市場への影響力を売りにしているのだろうか。
墓は良いビジネス、臨む人がいる限り作りたい、というところかなと想像した。

・白浜温泉へ
 古来から親しまれていたという和歌山県の白浜温泉へ。
紀伊半島最南端よりちょっと西。
夏目漱石の『行人』に出てきたような気がして、ちょっとあこがれだった。
でも、たぶん行人で出てくるのは和歌山の和歌浦らへんだと思う。
白い浜は非常な賑わい。
夕方に着き、浜を散歩し、ビールを飲んで早く寝ました。

18日
・南方熊楠
 19カ国語を話したという、ここらへんが出身の明治期の人。東大で夏目漱石と同級生だったとか。
子どもの頃から、好きな勉強ばかりし、本を写しまくっていたという。
アメリカの大学へ行ってみたり、大英博物館でスタッフをやったり。
興味深い人物だった。小説を買い、いざ太地へ。

・太地町
 車で2時間ぐらい。くじらの町で、最初に展示されている捕鯨船へ。
船の先端には、砲丸の代わりにチューブ付きの槍がセットされた砲台が付いている。
これを鯨めがけて撃つのだ。撃ってから、チューブを通して空気を入れるのだそう。
そうすると早く死ぬらしい。
船に上げて、解体し、脂肪を切り分けたり肉を冷蔵庫へ入れたり、という施設もあるように
設計図には書いてあった。

 続いて、くじらを食す。定食には、2種類の刺身、くじらのメンチカツ、普通のカツ、
しぐれ煮、胃袋を使ったスープがあり、くわえて心臓と胃袋、腸をゆでたモノを頼んだ。
本当に淡泊な味。江戸時代、四つ足で行動する生き物を食べてはいけなかった、だから
鯨は重要なタンパク源だった、とどこかに書いてあった。

 町の一番の集客施設、「くじらの博物館」。まず、くじらの骨の展示におどろく。でかい。
もっと驚いたのは、くじらやいるかの胎児ホルマリン漬け。これが大きさや種類ごとにやたらと
ある。脳みその大きさを示すのに、またホルマリン漬け。
ちょっと生々しいし、別にホルマリン漬けじゃなくて、模型とかでいいんじゃないかと思うのだが。
博物館が今年まとめたという古式捕鯨の終わりとノルウェー式捕鯨の導入などを
扱った本を買った。

 町の一番の高台、古式の時代に、「鯨が来たぞ~!!」と発見し、知らせる場所だった
山見台へ行く。映画「THE COVE」の舞台となったいるか追い込み漁の場所を
特定し、観察する時間はなかった。

 海沿いの国道42号を北へ北へ。午後2時半から6時半ごろまで、ひたすら車を走らせる。

・鳥羽・畔蛸町
 あだこちょう、と読みます。鳥羽の漁師町。岩がきの養殖を頑張っている漁師さんの民宿へ。
夕食の刺身が、すごかった。イカ、タコがそれぞれ出た上で、
盛り合わせにはひらめ一匹、伊勢エビ一匹、アワビ一つ、大きな大きな岩ガキ二つ。これ2人前。
そしてそれぞれに、焼いたカキが2個、サザエ1個、牡蠣フライ1個、揚げ浸しでカキ2個、
最後にウニ飯。
ちょっと多すぎたなあ。幸せに満腹で、就寝。

19日

・借り暮らしのアリエッティ
 朝に散歩し、サッカーを少しして、朝ご飯を食べて宿を出た。
鳥羽の喫茶店で1時間ほど新聞を読み、次の目的地を鈴鹿の映画館に。
アリエッティは、対象年齢が小学生の低学年と思われた。高学年もいいが、
中学生はちょっと辛い。
いつからこんなに低学年化が進んだのか、もうもののけ姫のようなボリュームの
映画は出てこないのだろうか、と言う話をして、四日市に戻りました。

 さて、今、夜の12時。早く寝て、明日はうまく会社員の顔が出来るように早起きしよう。
 

日本の捕鯨問題といるか追い込み漁

2010-07-19 22:45:31 | Public
 反捕鯨の映画「THE COVE」を見たことや、舞台の和歌山県太地町に行ったことから、
あまり考えたことの無かった捕鯨問題を少し考えてみた。
情報を集めただけで、結論には至っていないが。
 映画については、興味のきっかけにはなったし、表現の自由という点で
上映阻止はおかしいと思う。ただ、これがアカデミー賞ドキュメンタリー部門で
受賞したのには、この映画を「優れたドキュメンタリー」とすることに強い違和感がある。
変だ。下に書くように、アメリカは国として捕鯨に反対しているから、
そこらへんも影響したのだろうか、と疑りたくもなる。

以下、つれづれに。

・映画「THE COVE」について

 世界でも最大規模の「イルカ追い込み漁」をしている和歌山県太地(たいじ)町を
舞台に、いるか追い込み漁を批判する映画だ。太地は人口は3200人ほどの町。
「cove」というのは「入り江」という意味。何層もの船がカンカン音を鳴らし、
音に敏感なイルカたちは逃げるように入り江に入り込む。数十頭(たぶん)の
群れのイルカを網などで入り江から出ないようにし、銛で数回ずつ刺して
放置、血を流しながらイルカが息絶えるのを待つ。入り江はイルカの血で染まる。
ユーチューブでも英語版が見られる。

・太地町のいるか漁の規模
 毎年「2万3000頭」のイルカが太地で捕獲されるというのは映画の数字。
その数字が誇張だ、という話は耳にしないので、そうなんだろう。
公式の数字はちょっと見あたらなかった。
(いるか(小型鯨)の許可頭数を各都道府県に
 割り振っている水産総合研究センターのHPを見て、表の数字を足し合わせたら
 全道県=北海道、宮城、千葉、静岡、和歌山、沖縄=9225頭だった(2008年))

・いるか追い込み漁
 国内では、太地と、静岡県の伊東で許可されているらしい。
世界では、南米、アルゼンチンのフォークランド諸島とか、オーストラリアのソロモン諸島
とかでやられているようだが、太地の規模が一番大きい(Wikipediaだけど)。

・シー・シェパードの主張と、日本の水産庁の主張、アメリカの反捕鯨の背景(?)
 なぜ、反捕鯨団体のシー・シェパードは、なぜいるか漁を批判するのか。
映画の中では、隊長らしき人物はいるかの調教師の草分け的存在で、
いるかを愛し、水族館などでショーをさせるために利用する流れを作ってしまったことを後悔、
それを是正しようと努めている感じ。
その経験が理由のような気がするが、基本的には
いるかの知能の高さ、そして追い込み漁の残酷さを批難している(と思われる)。
(捕るなと言っているのか、残酷なやりかたを改めろと言っているのか、
 英語だったしよくわからなかった)

 それをアメリカが支えていそう、という疑いは、アメリカにとっての利害関係にある。
1800年代ごろは大捕鯨国だったアメリカが、反捕鯨なのは、
昔から「鯨油」目的の捕鯨で、それが石油に代替された今は捕る必要がないこと、
鯨の肉が、アメリカの輸出産品である牛肉の代替物であり、牛肉マーケットと競合すること、
がある(と思われる、とどこかにあった)。
なるほど、その可能性は否定できない。

日本側の(捕鯨に関する)主張は、水産庁のHPには
----------------------
我が国は、以下の基本認識の下、商業捕鯨の再開を目指しています。

( 1 )鯨類資源は重要な食料資源であり、他の生物資源と同様、
   最良の科学事実に基づいて、持続的に利用されるべきである。

( 2 )食習慣・食文化はそれぞれの地域におかれた環境により歴史的に
   形成されてきたものであり、相互の理解精神が必要である。
-----------------------
とあります。霞ヶ関文学。

 日本がなぜ、強固に捕鯨推進で主張するのか、と考えてみよう。
なぜなら、そっちの方がちょっと不自然に思えたから。
直接捕鯨に関わる従事者は相当少なそうだし、大体くじらを食べることはあまりない。
なくても、たぶん私は気づかない。
鯨マーケットに関する人たち、というだけでは政治力も強くはなさそう。

 これに対する仮説は、鯨の購入先、アイスランドなどとの外交関係をまもるため、
右翼団体の文化を守れという主張、アメリカなどの理不尽な反捕鯨圧力に屈するものかという意地、
ここで負けたらクロマグロなどの回遊魚の捕獲量規制にも悪影響、
などが思いついた。

 以上をふまえて、私の今の捕鯨問題への印象を書くと、
自分で書いてきてなんだが、日本の捕鯨問題≒世界的な生態系の保全と、
太地町のいるか追い込み漁の問題がごっちゃになっている。
それが、シー・シェパードの戦略のような気もする。
いるか追い込み漁の残虐さを見せつけ、「やっぱり捕鯨はだめでしょうあなた」と同意を求める。

 日本の捕鯨問題については、鯨の生態数が減っていないというデータが正しいとすれば、
捕鯨自体は問題ないし、食文化として残したいという主張は他国に認められるべきだ。
「知能レベルが高い」ということを、食用には出来ないという線引きにするのは難しい。
強制的にやめる理由にはならない。

 追い込み漁については、確かに荒っぽい、残酷な行為という印象。
海は誰もが共有できる自然だし、それを血で染めることには配慮すべきだ。
牛やブタの血抜き、をした後の血がどう処理されているのか知らないが、
何かしらの方法があるはず。そういう流通コストは払うべきだ。
そして、「文化」と言うなら、映画にあるような、すべてを隠すようなやり方はいけない。
漁の実行に支障がある場合は仕方ないが。
堂々と見せて、日本国民にも非難される場合には、やはり加工や流通の方法の再考が必要だろう。

 IWCは、おそらく生態系への影響だけが論点だと思う。
それならデータさえあればそんなに難しい話ではないのに、政治的に利用されている印象。
これからもうちょっと注意深く見ていきたいと思います。

参考:水産総合研究センター http://kokushi.job.affrc.go.jp/H21/H21_45.html
   水産庁 http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_thinking/index.html

三重県はなぜ民主王国なのか

2010-07-16 20:55:46 | Public
「全国とは違い、三重県には反民主の風は吹かなかった」
と新聞が書くように、三重県は民主王国。今回の参議院選挙も、
NHKの中継が始まったと同時に、全国でも3人目か5人目かそれくらいの
早さで、民主党候補・芝博一に当確が出た。

 しかし、三重県はなぜ民主王国なのか。
衆院選では5選挙区中4区で民主が勝ち、参院でも民主のぼろ勝ち。
あと、注目に値するのは、県議会の多数派も民主(新政みえ)。
よく民主党は労働者の多い都市部で強いというが、三重県は他県に比べて
決して都市的ではない。特に南部は漁業、農業がさかん。
歴史的にも、自民の重鎮(参議院議長まで務めた齋藤十朗、内閣官房大臣にもなった藤波孝生など)
がどっしりと6とか8とか、何期も何十年も席を保っていた。
なぜ、いつから、民主王国なの?

ヒントは、
・1995年ごろ、民主党の前身、新進党の国会議員が4人、民社党が1人もいた。
 新進党・北川正恭、野呂昭彦、中川正春、岡田克也、民社党・中井ひろし。

彼らが、北川は三重県知事に戻ってきたが、のこりは民主党に合流、県内の民主勢力をつくった。

新進党に名を連ねた4人の出元は自民党。
彼らはなぜ新進党についたのか。

・・・
なぜなら、自民時代、北川が勉強会を開き、県選出の仲間議員に声をかけていて、
集まっていたから。それでみんなで新進党に流れたと。
事情通によると、県議の父親、国会議員の叔父を持つ北川さんは
「将来、総理大臣にでもなりたかったんじゃないか」。
それで、勉強会を催したりしながら派閥を作るくらいのつもりだったのだろう。
北川さんは1995年、三重県の田川長期政権を打破しようと、
「改革派」として立候補して当選。
その後は、岡田克也が圧倒的な影響力を持って、県内の民主議員を引き連れた。

ではなぜ、県議会まで民主党が多数派なのか。

北川さんが知事に立候補した選挙で、「北川さんの革新的イメージにあやかろうと」
多くの新人県議が立候補、当選した。
彼らが力を持つようになり、当選議員を増やして、数年前から多数派となった。

・・・
なるほど、三重県でも自治労は強そうだけど、そういう理由ではなかった。
北川さんという人がいて、岡田さんが引き継いだという話だ。
政治はつながりだ、流れだ、歴史だ。
三重もけっこう面白い。

池上彰(2010)『わかりやすさの勉強法』

2010-07-10 23:25:33 | Public

 1時間で読める本で、自分にとってためになったのは以下のこと。

 ・文章を書くとき
  「自分は何を知らないのか」を知ること
  「とにかく大変なんです」で原稿を書き始めてみること
   (それに続ける形で構成を考える)
  読売新聞の編集手帳を読んでみる

 ・情報収集や情報の整理
  フローの情報とストックの情報
  ・・・自分にはフローの情報が圧倒的に少ないと思う。だから、最近問題意識が
   希薄なのだとわかった。前にもそう気づいた気がする。
   最近、気になる記事のスクラップをやらなくなった。中途半端だからだ、
   中途半端なのは、「どれくらい領域を特定してやるか」というところが
   あいまいだったからだ。これは、「ストック情報」を集めようとしていたと
   いうことかも。
  本を読むときに、A4の紙を4つに折って挟み、メモ代わりに
  太さ0.9ミリ、2Bのえんぴつ

 こんなところ。フロー情報とストック情報は、自分の情報整理の問題点について
 腑に落ちた感じがした。

 それにしても、この新書(最近の他の新書も)帯が広い。本の帯って日本どくとくの
 モノだったと思うけど、私は好きではないです、本を雑に扱っているからかも知れないけど。
 ちょっとエスカレートしていないかなあ。

池上彰(2010)『わかりやすさの勉強法』講談社現代新書

池上彰(2005)『記者になりたい』

2010-07-10 00:41:53 | Book

 元NHK記者、キャスターで、独立した池上彰さんが、半生を振り返りながら
自分のしてきた仕事を紹介する本。意図的かはわからないが、高校生あたりに
語りかける感じ。一人称は「ぼく」である。

 著書やテレビ出演で、近年ほんとによく名前を目にするようになった池上さん。
「池上さん」と書いてしまう親しみやすさは、「週刊こどもニュース」の印象から。
私はキャスターとしての池上さんしか知らなかったので、本を読んで
「やっぱり記者だったんですね」「記者をやってても、幅広く知識が深まるものなのですね」
と感心してしまった。

 独立し、今のような活動をするきっかけを「このまま続けていたら、キャスターの経験が
記者の経験年数を上回ることになる。これでは『僕は記者でした』と言えなくなる」と
書いている。記者を16年やった後、キャスターやこどもニュースのお父さんを16年。
それで退社というわけだった。

 島根県松江、広島の呉に赴任し、その後東京本社へ。警視庁担当、文科省担当、災害担当で
ホテルニュージャパン火災、日航機墜落事故や日本海中部地震など。「テレビ記者の仕事紹介」
というスタンスで、事件の背景やテレビ記者としてした仕事を書いている。
 うがった書き方かもしれないし、当たっていないかもしれないけど、こういう本を書けること
自体、この人はまじめに記者という仕事をしてきたのだな、という感想。
「記者という仕事」というのは、目の前の出来事を知り、少し解釈して伝えること、(かな)。
というのは、こういう仕事の人ってもっと、本を書くときには自分の主観や
メッセージを強く書く気がする。池上さんのこの本は、実にあっさりしている。
主観を書く人は、いくら高校生、中学生向けでも、たぶんオリジナルな視点を紛れ込ませる。

どこまで追い続けると「追究」になるのだろう。
どこまでもやると、分析ツールを使ったりすると、研究になるのだろうか。
よくわからない書評になったが、久しぶりに来た県立図書館で、何気なしに取る本が
こういう類になってしまうようになったということです。

反省だけなら猿でもできる

2010-07-04 22:45:54 | Private・雑感
最近、眠い。
①暑いから
②体力・気力がないから
③慣れないサッカー観戦
④早起きして英語の勉強してるから

のどれかが原因だと思う。おそらく③。
先週末に、四日市コンビナートの夜景を見るクルーズに乗ってから
発熱し、ずっと鼻炎が続いているのもある。
たぶん基礎体力も衰えてる。
自転車通勤ぐらいではどうにもならないとは思うが、
もうちょっとストレッチとかしっかりやろう。
筋力を刺激するくらいはしておこう。

気力はといえば、6月中旬くらいにぽんぽんっと仕事をしてから、
衰えてる。次のテーマが遠い・・・。
それを蓄えるのが夜勤の一人の夜なんだろうけど、それももうこんな時間。
少し挽回しよう。

④は、うちのテレビが小さいからかも。
23時スタートって、もうテレビとかパソコンとか凝視したくない時間。
サッカー選手がちょこまか動いてるのは見づらい。
でも、力が入っちゃったりするから疲れる。
体力不足はたいしたもの食べてないのもあるのでは、と思って
最近、一日一食はちゃんとした外食をしている。
おろしハンバーグ定食とか。今日は吉野家の牛丼定食。
朝・夕はぶっかけそーめん率が高くなっている。

先日、思いがけず、日本代表のフリーキックを決めた遠藤選手、のお兄さんで
元横浜Fマリノスの遠藤彰弘選手の話を聞く機会があった。
小学校への特別授業。
「練習を続けること。『人よりも頑張ろう』と思って続けること」
という話がぐさっときた。特に後半部分。
足りないことはたくさんあるのに、頑張っていない、という選択を
自分はしているんだなと反省。回りに頑張ってるように見える人がいないのも
問題かもしれない、が、何のいいわけにも得にもならない状況説明。
・・・なのに、夜勤中の今夜、「犬のおまわりさん」
って2時間ドラマを見てしまった。。

リンパ腫瘍に冒された若い妊婦が、子どもを無事出産するも、亡くなってしまう話。
「余命一ヶ月の花嫁」に似ている。
なんで女性ばっかり亡くなるんだ。
北九州が舞台と言うことで、やたらと上からの景色がたくさんでてきたけど、
地域の特色は特になかった。

今週は、木・金曜日が休み。
月・火・水だけだし、どうにかなっちゃうんだよねー。
この不謹慎な社員をどうにかしないと、と思ってかどうかわかりませんが、
今週末あたり異動が発表になるでしょう。
私は対象じゃない予定だけど、私の職場や県内の人員がリフレッシュされる。
暑い夏を乗り越えなくては。

反省だけなら猿でもできる。
猿レベルかどうかもちょっと不安な夜。


民生委員制度について考えたこと

2010-07-03 13:41:02 | Public
「民生委員制度って何?」
”民生委員さん”って直接は見ないけれど、警察や役所の関係でちらほら耳にしていた。
全然違う話を聞きに行った(駅の昔話だったと思う)人がたまたま
民政委員協議会の役員さんで、制度への興味を深くした。

調べてみると、生活保護法(の全身の救護法)よりも前に、救貧状態を調べたり、
世話をさせたりという目的で出来たもの。
一応、当時参考にしたのは、ドイツのエバーフェルト市とライプチヒ市であった
「救貧委員」制度。
その後、生活保護ががっちりと制度化していく中で、行政の世話役みたいな
「補助機関」になる。「本来は奉仕の目的であって、困窮者のみじゃないんじゃないか」
というわけで、生活保護行政は福祉事務所を作ったりケースワーカーを置いたりして
民生委員の手から少し分けていく。
途中で児童(同時に妊産婦、若い母親)を支援対象とする児童福祉法の「児童委員」を
兼ねるようになる。
今でも、生活保護の給付内容の通知などを手渡ししに行く役目とかはあるけど、
仕事の範囲はもっともっと多岐にわたっている。
昔みたいに、お隣さんの親も子どももよく知ってる、なんてつきあいが少なくなった中、
プライベートなネットワークは弱くなり、一方で行政からの頼み事は多くなる。
別に、仕事の内容が決まってないのだから、何課からだって頼まれる。
最近の「要援護者台帳」だって民生委員の仕事だ。

なり手探しが大変というが、補完的に「福祉委員」というのを設けている市町もある。
民生委員より多く、たとえば30世帯から50世帯に1人。
行政の専門的なことはわからないけど、相談に乗って、「とにかく聞いて上げるわ」と
電話したりする人。
民生委員は、一応制度をよく知るために月1回ほど研修がある。
介護保険法とか、障害者自立支援法とか、要援護者台帳の話もそうだし、成年後見人制度も。

今から、福祉委員を設けて、民生委員のなり手捜しをもう少し楽にしようというところもある。
「民生委員も見つからないのに福祉委員のなり手はいるのか」というジレンマもある。
でも、民生委員ほど義務的な仕事が無く、1組2組くらいの範囲で電話番号でも教えておいて、
ゴミ出しのときにちょっと声を掛けたりするようにする。
2年で終われば、次の人。誰もがやれば、結果的に負担も少ない。
そんな福祉委員(名前はよくないと思うけど)がいて、直で行政があれば
いいんじゃないかなと思う。
わざわざ厚生労働大臣が委嘱するような大それた儀式をやって、
「よろしく頼みますよ」とやる制度で、いつまで人がやる気を出してくれるのか。
ちょっと地域の人を馬鹿にしていやしませんか、とさえ思うのだけど。

そういうことを提言して制度改正に動く組織として、民政委員の団体はあるのだろうか。
全国民生委員児童委員連合会はあるけど、そういう動きはあるのかな。
全国23万人もいれば一大政治組織になっていたっておかしくないのに、
名前を聞いたことはない。
歴史を見れば、生活保護法の制定などで大きく活動している。
彼らが自らの保身に動くような要求をしてくるなら有害だけど、
地域実情を勘案し、持続可能な制度にする、持続可能な体制づくりを進言するなら
とても有益なのではないだろうか。

民生委員制度の歴史

2010-07-03 13:38:24 | Book
全国社会福祉協議会『民生委員児童委員必携・活動の基礎知識』より

1917年 「済世顧問制度」IN岡山県
 ・ドイツのエルバーフェルト市とライプチヒ市であった「救貧委員制度」を参考
 ・防貧活動が使命
 ・人物本位の人選のため、適任者がいなければ空席
 ・当時、第一次世界大戦(1914)後の好景気が終わり、物価高騰から米騒動が起こるなど
  不安定で貧民が多く出た時期。地方長官会議が宮中であり、大正天皇から「県下の貧民の
  状況はどうですか」と聞かれた岡山県知事の笠井信一が、
  調べたらたくさん出てきた貧民層に対しこの制度を設立させた。

1918年 「方面委員制度」IN大阪府
 ・仕事は一般生活状態の調査のため、巡視、家庭訪問、警察などと連携、
  妊産婦などの健康保全に注意など、今の民生委員・児童委員に近い
・・・
 →各県の事業として広がる、背景には明治末から大正までの急速な社会変動
 (第一次世界大戦など)によって生活困窮者が大量に

1927(昭和2)年ごから、方面委員大会が「救護法」の制定を求める
→1929(昭和4)年に「救護法」公布
 BUT 世界恐慌もあり、施行は見送られる
1932(昭和7)救護法の公布、施行  ←方面委員が「救護法実施期成同盟」をつくり
                     熱心に活動
 ◎このころには団体として政治的な動きがあった!

1936(昭和11)年 「方面委員令」交付
 ・各県でばらばらだった名前や仕事内容を統一
 ・でも設置主体は道府県
 ・指導精神は「隣保相扶・互助共済」
 ・無報酬の名誉職とする

1946(昭和21)年、旧生活保護法の制定にあわせて「民生委員令」
 ・指導精神は「仁愛の精神により保護誘えき」のことに従う」
 ・委嘱者は今までの都道府県知事から厚生大臣に
 ・意見具申権を認めた
 ・・・それでも、生活保護法の補助機関、生活保護制度の世話役の位置づけ

1948(昭和23)年に児童福祉法制定→民生委員が児童委員を兼ねる

同年 「民生委員法」・・・”民生委員の役割はどんどん重要性を増しているから”・・・
             もちあげようとしたのかな?
 ・社会奉仕の精神
 ・それまでなかった国庫補助を、都道府県が負担した経費の2分の1、など規定

・・・
1960年代後半(昭和40年代)
 「ひとり暮らし老人実態調査」「寝たきり老人介護実態調査」「痴呆性老人介護者実態調査」
 を全国一斉モニター調査として実施。
1990年代(平成4年)には「地域における子育て環境調査」
1994(平成2)年 主任児童委員設置

2000(平成12)年 民政委員法等改正
 ・「名誉職」の規定が削除された ←ようやく!

2009年、全国に23万人。定員は少しずつだけど増え続けている。