ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

精神科での身体拘束は、「残っている」ではなく「増えている」

2019-06-27 15:30:00 | Public

精神科患者の地域移行や長期入院の回避が進められ、精神科病床を減らしていこう、入院を減らそう、というのが医療界の流れだと思っていた。そこからすると、閉鎖病棟や身体拘束は減っている、でもまだ残っている、ということなのかな、と。実際は逆で、身体拘束は増えているらしい。1週間以上、ほぼ24時間拘束され続ける患者もおり、その後にエコノミー症候群で血栓が詰まった結果、心不全で亡くなることもあるという。ニュージーランド人の男性が精神科入院直後に死亡したという事件は、報道でうっすら覚えている程度だったが、先日のハートネットTVで背景を知ることができた。

<iframe class="embed-card embed-webcard" title="急速に増える精神科病院での“身体拘束” - 記事 | NHK ハートネット" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fheart-net%2Farticle%2F14%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.nhk.or.jp

増加の要因としては、精神科病院での急性期患者の割合が増えている、認知症患者が増えている、ということらしい。統計的には出ていない。なぜ増えているか、ということより、まずは身体拘束の害、エコノミー症候群による死亡についてだけでなく、トラウマを抱え続けているという患者の話も紹介されている。

「精神科病院の身体拘束」カキコミ板ウオッチ 第1回 身体拘束の法的根拠 | 福祉の潮流 | ハートネットTVブログ:NHK

私も、閉鎖病棟の保護室にある身体拘束器具を見たことがある。もちろん使われていない状態のものだが。身体拘束をされたことがある、と言っていた人ものちの障害福祉事業所で会ったことがあるが、彼にあまり思い出してほしくないこともあり、深く聞かなかった。身体拘束、1週間。身体拘束がほぼ全くない国もある。病院の中での悪癖として、または人員不足の結果として行われている部分が多いように感じる。精神疾患の人と、対話によって向き合っていくということは相当な覚悟を要する場合も多い。でも、向き合わなければよくならない。すなわち身体拘束をしても、よくならないということであれば、下に紹介されていたように、「転倒などで身体を傷つける可能性もありますが、拘束しない、ということに同意してもらえますか」と家族から同意を得ること、そのことで、リスクはありつつも症状の改善を目指していくということ(他科の診療では極めて普通のことのように思う)が現実的ではないだろうか。

<iframe class="embed-card embed-webcard" title="認知症でしばられる!? ~急増・病院での身体拘束~ - NHK クローズアップ現代+" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fgendai%2Farticles%2F4083%2Findex.html" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.nhk.or.jp


げっぷの原因

2019-06-26 13:32:15 | Private・雑感

実は、先週の金曜日、生後4か月間近だった3女をベビーカーから落とした。ベビーカーで二女の保育園のお迎えに行った帰り道、うちのマンションに続く急な坂道を歩いているとき、それまでベビーカーのステップに乗っていた二女が「降りたい」と言い、降りた拍子にふらっと道路のほうへ行ったため、慌てて手をつかんだのだ。私の左手で。その左手に引っ張られたように、右手からベビーカーが離れ、ベビーカーが坂を降りて行った。駐車場のフェンスにぶつかってベビーカーが横転し、三女はベビーカーの中にいながら頭の側面を打ったと思われる。そのあと、おでこをアスファルトにぶつけた。腰部分はベルトをしていたのでベビーカーの中のまま。

ベビーカーが転がっていき、三女が横転したとき、生きた心地がしなかった。夜になって、おでこのほうが少し腫れてきたが、機嫌はよく、大きな影響はないようだった。こうやって振り返ると、肩部分のベルトもつけておけば、横転は防げなかったが頭の部分だけアスファルトにぶつけることはなかっただろう。次から必ず肩ベルトをつけよう。

この件があってから、ベビーカーで外を散歩する気が失せてしまった。だいぶ暑くなってきた、ということもある。ここ最近肩こりもひどいので、抱っこひももつけたくない。家にいれば大方ご機嫌にしている三女なので、なるべく外に出ないようにしていた。

そしてそして、ここ2日ほど、げっぷが止まらない。昼になると軽い吐き気も。でも授乳はあるのでお腹はすく。昨夜はげっぷのせいでかなんだか、熱器も悪く、おかげで午前中はげっぷと気怠さを抱えたまま。こんなことで医者にかかるものだろうか?授乳中で薬も飲めないのに?と思いながら、いつも行く内科はきょう午後は往診で休み、明日は休診、ということもあって授乳後の勢いで行くことに。

運動不足と思われる、というオチでした。多少家で筋トレなどしていても、やっぱり歩くのとは違う。じっとしてるのはだめなのか・・・せっかく勉強にやる気を出してきたところなのに・・・。それでも、普段からあまり薬を勧めず、顔を見てしゃべってくれるおじいちゃん先生で、寝そべった私のお腹をたたきながら「これは空気の音」「こっちは腸のあたりで、ここが痛いということは腸が動いていないということだね」など、おっとりと進めてくれた診察で、気持ちが楽になった。歩くのは大事、と戒めよう。


本「車イスの私がアメリカで 医療ソーシャルワーカーに なった理由」

2019-06-26 09:16:32 | Book

定期的に自伝物を読まなくては、と急に思ってKindleで購入した本。

月刊福祉で紹介されていた。1978年生まれの女性が5歳で難病指定の「若年性多関節リウマチ」を発症し、小中学校には通えず、高校、短大を経てアメリカへ留学、大学院も出てアメリカで医療ソーシャルワーカーとして8年勤務、現在は日本で療養中とのこと。その反省を、大阪人らしく明るく、でもどこか辛いことや過酷なことを少しはぐらかして書いているような気がする。

アメリカの大学、大学院を首席で卒業したという彼女。このバイタリティーというか、覚悟が、大学院時代の私にはなかったのだろうか、などと考える。大学院時代は、もっと頑張れたはずだ。そこで自分を知った気になってみたが、別にそこで自分が終わったわけではない。がむしゃらに勉強するなら今だ、と最近ふつふつと思えるようになってきたので、火をつけたくてわざわざこの本を読んだ気もする。

こうやって、自分を他人と比べて落ち込んだりやる気が出たり、過去を振り返って「こうすればよかったのでは」と思ったり。こういう揺れ動きが、まさに就労移行の事業所で会う利用者さんたちと同じだと、毎日思う。本当に、本当の意味で、利用者さんと私は同じである。そのことに失笑するのではなく、明るいエネルギーにして次に進みたい。


俳句

2019-06-21 11:11:54 | 俳句
長女が保育園の帰り際に飛び回って遊ぶ姿を眺める。究極に暇な時間なのだが、ときどき俳句を考える。先日の句。

子供舞う 園庭横切る 黒揚羽

ハチを避け
離れて見入る藤の花

無意味だと
知りつ子に布団、掛けてやる

昨日の新聞のコラムで紹介されていた短歌が、これ好きだな〜と思えた。

寝た者から 順に明日を配るから 各自わくわくしておくように (佐伯紺)

覚えてしまった。
俳句や短歌は反芻する感じがよい。

「対話」は精神科領域の治療になりうる

2019-06-20 15:31:53 | Public

NHKのハートネットTVで特集されていた、精神科医療で行われている「オープンダイアローグ」。これを、「治療法」と位置付けて精神科でなされている様子が写されていた。患者、家族、医師、看護師、心理士などが輪になって話を聞き、時には医師らが自分の話もしたりして、対話をすすめていく。患者の話を聞いて、そこから少し視線を切り替えて、医師らがその話から考えることについて、考察を患者の前で意見を交わす。患者の前で、患者抜きの客観的なケース会議が開かれるような感じだ。

<iframe class="embed-card embed-webcard" title="【特集】変わり始めた精神医療 (3)“オープンダイアローグ”の可能性 - 記事 | NHK ハートネット" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fheart-net%2Farticle%2F233%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.nhk.or.jp

医師らが時間をかけて話を聞き、言葉を返す。治療法を決めるためだけでなく、その会話自体が治療になりうる。患者は小さな「?」を膨らませたり妄想化させたりしなくて済む。生活を変えたり薬を飲んだりすることへの理解も進み、病気と付き合う生活に前向きになれる。

これだよ!と思った。常々、「医者は短時間で精神科患者の何を見ているのだろう?」と思っていた。日常で関わる、たとえば日中活動サービスの支援者らは、時には家族以上に長い時間、彼らの様子を見て、言動を聞いて、今のはどういうことではないかな?病気の症状かな、性格の部分かな?などと考えながら対応する。誰だって、私だって、医者の前では違う、よそ行きの自分を演じていることがある。その「よそ行き」を見て、それがよそ行きだと見抜けるかもしれないが、では日常の部分を見通せるのか?

精神科患者に対して、「言葉に頼りすぎるな」と言う同僚がいたが、私は、言葉で会話、対話できることこそ、彼らの救いだと思っている。言葉を交わすことで、考え方を少し変えたり、考えを深めたり、ということができやすくなる。小さな変化を見ることができ、それが本人にとっても支援者にとってもうれしい。

オープンダイアローグ。果たして診療報酬上の評価はどうなんだろうか?そこらへんは

今度調べてみたい。


子どもは献立表が好き

2019-06-20 14:00:12 | Private・雑感
保育園から夫と一緒に帰ってくるなり、「こんなん〇〇(娘の名前)が食べたいものじゃない!〇〇が食べたいものだけ作って!」と5歳の娘が言って、食べる前からひと騒動、ということが週に2、3回あったので、先週は娘と献立を決めておくということをやった。


メインだけ決めておくというのがミソで、味噌汁とか、何を合わせるとかは、冷蔵庫の中身と相談して私が決める。とりあえず初めての一週間はトラブルなくいけた(娘もぐずらず、私もさほど手間ではなかった)ので、今週もやってみる予定。

娘は、このおかげでパクパク食べる、というわけではないが、グズらずにそれなりに食べるので、私にとっては全然オッケー。しゃぶしゃぶ、と書いた日は、冷しゃぶのつもりでそうしたのだが、娘は鍋のしゃぶしゃぶだと想像しているだろうと思い、朝のうちに「今日のしゃぶしゃぶは夏の、冷たいしゃぶしゃぶにするからね」と言っておいた。夕方帰ってきて食卓を見るなり、「こんなんしゃぶしゃぶじゃない!」と案の定ゴネたが、「朝に夏のしゃぶしゃぶにするって言ったんだけど」と言うと「あ、そうだった」と落ち着いた。言っておいてよかった…。

子どもとの食事は相変わらず試行錯誤です。

一時託児サービスは虐待の予防・発見に役立つのでは

2019-06-19 15:34:40 | Public

児童虐待のニュースは本当に胸に痛い。伝えられる情報から、その虐待場面を思い浮かべてしまうからだ。虐待する側の親がしんどい、共感できる部分がある場合もあるが、すべての場合で子どもは虐待されるべき理由はない。どうにかできなかったのだろうか、と考える人も多いだろう。

その具体的な方法について、効果があり、なおかつすでに機能している例がある、と知ったのが、月刊福祉(2018年12月号)である。図書館で借りて、返却直前の今日まで置いてあったもの。特集は「地域で支える子ども・子育て支援の展開」。

その方法とは、理由を問わない一時託児機関を設けること、である。保育園は、もちろん親が就労していたり病気があったりと「保育できない明らかな理由」が認められなければ利用者となり得ない。普段保育所を利用していない人が一時保育を使うのにも、定員などでハードルが高い。(保育園では一時保育を片手間的にやっているところがほとんどだと思う)。

大日向雅美さんたちがやっているNPO法人あい・ぽーとは、365日の一時託児所を2003年からやっているという。1時間800円程度の料金設定で、生後2か月から預けられる!!

<iframe class="embed-card embed-webcard" title="施設型一時保育事業「あおば」|子育てひろば「あい・ぽーと」" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.ai-port.jp%2Faiport%2Faoba%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.ai-port.jp 子どもの家庭環境や育ち方は、接してみるとすぐにわかる場合が多い。託児してもらえば、子どもの様子も、親の様子もわかる。親の「預けたい」というニーズがあるから、自分から支援拠点に接触してくる理由になる。子ども食堂も、同じような機能があるのではないか。

あい・ぽーとは年中無休をうたっているが、特集では大分県福祉会が月に1回、日曜日にやっている子育てサロンも紹介されていた。月1日でも、子どもを安心して、だれにもとがめられずに預けることができれば、親にとっての意味はとても大きい。虐待のサインに気づくための発見機能だけでなく、親がゆとりを少し取り戻すことで虐待の予防にもなる。

うすうす、スポット的な託児サービスの意味の大きさには気づいていた。先日も、自分がいける範囲での「託児付きイベント」を探したばかり。多少興味が持てなさそうな後援会でも、子どもを預かってくれるなら行きたい。興味のない映画でも、ぜひ観たい。

託児サービスは、潜在的な可能性を秘めている。託児の利用だけでないところで、いつか関わってみたい事業のひとつだ。


拳銃強奪事件容疑者の「手帳所持」ニュースは今必要なことか?

2019-06-18 15:35:39 | Public

大阪で拳銃が強奪された事件。犯人逮捕のニュースで、NHKは昨日の昼、「精神障害者福祉手帳2級を持っていた」と伝えた。「このタイミングで小出しに速報してくることか!?」と腹が立った。

新聞やテレビの事件報道は、やっぱりおかしい。わかったことをわかっただけ伝えてくる。それを競う。そのことが、多くの事実を読者・視聴者に伝えることになる仕組みだという面は理解しているが、事件の全体像を歪んで見せるという面の弊害は大きい。手帳の取得が伝えられ、「精神障害だからか」「2級だから事件を起こしたのか」と、犯行と結び付けるなというほうがおかしい。

ではどのように伝えればいいのか。ひとつひとつわかった材料を、のちの影響も考えたうえで、ボリュームの強弱を慎重につけながら伝えること。事件の全体像を早くつかむ、それを伝えることに重きを置くこと。こんなことしか考えられないが・・・。だいたい、起訴され、裁判で判決が下るまでは「容疑者」であり、全体像として見えてこないともいえる。確かにそれでは遅い。事件について最も世間の関心があり、事件について世の中の人が考えるタイミングというのは事件直後なのだ。

それでも、「情報についてのボリュームの強弱を慎重につけながら伝える」というのは基本においてほしい。それは、川崎のバス停で子どもと大人が刺された事件でもそう。

<iframe class="embed-card embed-webcard" title="「価値ある人間」の裏返し - ほっぷ すてっぷ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fmreisende21%2Fe%2F0d252f3a874a37a8691c36bf0781ab66" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>blog.goo.ne.jp そのことが、メディアとして価値を上げることになるはずだ。


転職という自分探しの悪影響

2019-06-18 10:18:08 | Private・雑感

転職というのは、常に「自分は何がやりたいのか」突きつける。次に、何が何でもやりたいことが見つかった時に転職するのであれば、その悩みは自然と沸き上がり、スムーズに答えが出てくるのではないか。夫の転勤に伴う転職では、「まだ今のままでいい」という選択肢がないので、半ば強制的に考えさせられる状況になる。それはまた、やりたいことをはっきりと答えることのできない自分の言い訳でもある。おとといの夜、夜中の授乳時に起きて寝付けなくなり、そこから「自分には何もやること、やれることがない、何も答えられない」とひどく落ち込んでしまうということがあった。日経新聞に出ていた熊谷市長のインタビューを読んで、「できる人は私とは違うんだ」というような、かなりざっくりとした疎外感を感じたことも理由のような気がする。いや、今の自分が自信喪失状態なので、そのような疎外感を感じたということのほうが正しい。

それぞれのときに、やりがいのある仕事をしていれば、それまでがどんな紆余曲折で一貫性がなさそうな人生でも、どうにでもストーリーに仕立てられるというもの。話としてまとまっている(=まとまっていれさえすればそれはサクセスストーリーと言える)ものを読んでは落ち込む、というのはもう止めたい、と思い、昨日は真面目に自分の方向性についてノートに書いて考えてみたりした。

今日も、そんなどっちつかずの自分の気持ちを引きずっていたことは否めない。同時通訳で活躍していた人が医学部に入って医者もやっている、という女性の話なんて、スマホで読む必要なんてなかった。結果的に。そんなことをしている間に、娘がベビーラックから落ちたのだ。うごうごとか弱い声で鳴きながらずり落ちて行って。書くのも落ち込む。スマホで記事を読んでいる間に、すぐ近くにいた生後3か月の娘が落ちたのだ。幸い、打ったのは後頭部ではなくおでこ側で、おでこの右側にたんこぶができてはいるが、泣いた後抱っこで泣き止み、ベッドで寝たり起きたり笑いかけてくれたりと、いつもと変わらない様子に戻っている。

自分のもやもやした気分と、それに伴う行動が、彼女を危機にさらしたと思えてつらい。すぐに、ベビーベッドを組み立てた。ベビーラックは、座れるようになるまで片付ける。かわいくて優しい笑顔で穏やかに寝ていてくれている彼女のためにも、しっかりとこのもやもやの闇を踏みしめたい。その後、もやに足をすくわれないようにするために。


メンタル不調を抱える人の「自分研究」「自分助け」としてのブログ

2019-06-18 10:17:39 | Public

ニュース記事ではないが、soarというWEBメディアの記事から。

適応障害の診断を受けた鈴木悠平さんが、べてるの家に教えてもらった回復の道のり | soar(ソア)

 

自分の声を聞いて、“ちゃんと”自分助けをする。自分が当事者であることから逃げないこと。

べてるの家の当事者研究は、決して「傷のなめ合い」的な共依存関係ではない。それぞれのありのままを受け止めつつも、一人ひとりが自分の人生の主人公になれるのだという、強い理念と信頼によって支えられていることを感じる言葉だ。

 精神保健福祉士のような、相談援助の「専門職」は、援助する相手の人を、「その人自身の専門家」として対等である、ということを常に意識するようにと教わる。精神保健福祉士の養成課程の中で、覚えている数少ない要点のひとつだ。これを、援助を求める人、困りごとを抱えた人の視点で考えると、この記事のようなことになるのだ。自分自身をよく研究し、自分なりに応えていく。それが、「自分自身の専門家である」ということなのだ。

このことを、私なりのやり方で深めているのが、「自分のブログを書く」という行為だと、再認識している。今のような、育休中の手持無沙汰の時間に、自分を見つめなおしたり、自分のある側面を思い出したり。前回の育休中は何を考えていたっけ、前に転職した際の決め手はなんだったっけ。この、自分のブログを書き続ける、というのは、ときにメンタル不調に陥る人には、「自分研究」「自分助け」にとても有効なツールだと思う。自分研究にもなるし、ときに世の中研究として、「綴り方」の要素も含んでいる。 ※綴り方の思想については→ 『現代日本の思想』 - ほっぷ すてっぷ

基本的には、自分で自分のブログを読む。でも、ときに読者が温かく反応してくれたり、そこから気づきを得たときにそのことを教えてくれると励みになる。ただ、ときに強すぎる刺激になったり、過剰な恐怖にもなる。そのあたりをコントロールできると、なおよい。今のところ、そういうプラットホームはなさそうだ。