一行一行が的確で興味深い意味を持っているので、再読にもかかわらず時間がかかった。細かいところで興味深く思えたのは、自分が前に読んでいたときが学生で、今が就労者だという違いもあると思う。また、最近労働系の本を読んでいるおかげで、日本の雇用慣行の課題・焦点が分かってきた気がする。今回は、労働時間に的を絞って書いてみたい。
本書の最初のテーマは、「なぜ(ケインズの頃に比べて)人々の生産性は上がったのに、労働時間は短くならなかったのか」。1930年、ケインズは「100年語には、われわれは週15時間程度だけ働くようになっているはずだ」と予言したという。でも、事実はもちろん異なっている。
その理由の第一に、著者は「人間の欲望の限りない拡大」を挙げる。社会から「排除された」と思わない程度の消費のレベルは上がっていて、広告業者はその欲望を膨張させるべく努力してきた。
非常に面白かった研究は、「労働生産性の大幅な上昇は、生涯労働時間の減少(余暇の増加)と、消費の増加の2つでどのように影響したのかというもの」。20世紀の100年の間に、イギリスは、3分の1が労働時間の減少で、3分の2が消費の増加だった。期間は異なるが、日本は1975年から95年の間で、余暇時間の増加がたった4分の1、残りは消費の増加だったという。「消費の増加」が研究の中でどういう指標を使っているのか分からないが、結果的に消費の増加のために労働時間を増やしているんだ、という意識は日本人には少ないと思う。私は、(会社の人には内緒だが)これをすごく感じていて、「そんなに消費するつもりはないから、労働時間を減らそう」と意識している。
なぜ消費が拡大したのか。この点でも面白い研究が紹介されている。それは、所得水準と労働時間の相関を見たもの。所得水準が低いほど、たくさん働かなければ一定の収入を得ることはできず、労働時間は増えるーという考え方はごく普通に思える。しかし実体は(会社員の人なら体感しているだろうが)違うーアメリカや日本では。所得水準の高い人ほど長時間働く。これを、著者は「競争的消費」の帰結として紹介する。
このほか、(労働時間のみを問題にしている章ではないが)、労働市場の規制緩和で解雇がしやすくなった(=いつ解雇されるかわからない、という雇用不安からくる精神的脅しがある)ことなどによる「労働強化」や、労働者の多様化により「標準労働者」像が薄くなったことを理由に、経営者側が「成果給」を導入し、簡単に言えば(賃金を成果に応じて差を付けるというより)「賃金を下げることもできる」体系にしていったことなども挙げられる。
これらの労働問題を扱う政府の姿勢は変化してきた。もちろん、企業やいろんな要因があり、本書では説明しているが、面白かった部分として政府の変化を紹介したい。
かつて、「完全雇用」は政府の至上命題だったが、どうやらそれはすごく難しいと言うことになり、それを導く環境としての「低インフレ」と「経済成長」が優先事項となった。コンピュータの普及で単純労働は機械化・自動化され、失業者は非熟練労働者に固定化されるようになった。こういう人たちは、職を得たとしても低賃金。社会的影響力も少なく、政治的にも重要でなくなってきて、経済成長という目標で経営者側に取り入る方がよっぽど票を集められるようになった。
同じ背景に、労働の多様化などが重なり、労働組合は衰退。かつて、インフレ抑制と言えば、労使での痛み分け(=所得抑制)が主流だったが、今は通貨政策がメインで、より労働組合の存在感は小さくなった。
「そのまた背景」という形で、著者はいろいろ触れている。すなわち、こういった傾向に絶望してあきらめているのではなく、とるべき方向性も示している。こういった、労働経済学の論文や歴史書をしっかり把握した上での「社会学者」(?本人はそう書いている)の役割は大きい。ただ、規制緩和や組合の衰退など、他国より急激に「改革」資源が枯渇しているように見える日本で、実現性を高めるにはどうしたらよいのだろう、と悩む部分もやはりある。