ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

本『移民たちの「満州」』

2017-08-21 04:18:26 | Book
久しぶりに、「感想を書かなければ」という本を読了。日光へ旅行に行く際、家で積ん読されていたこの新書を手に取った。日光近くの那須は、満州の開拓者たちが帰国してから、ふたたび開墾に努めるため入植した土地だったよな、と思って…。満州の本場たくさん出ていると思うけど、新書で全体像を読む機会はなかった。今、その時代の人たちが亡くなったり、様々な研究がでてきたりというのを受けて、責任感を持ってしっかり調べて書いてあるなという感想を持った。

二松啓紀という著者は京都新聞の現役の記者である。満州移民というと、長野のイメージが強く、京都の単語はあまり出て来ない。実際、都道府県で見ると長野が移民人数は最大で、京都は下位である。それでも京都にも確実に渡満した人はいた。長野の大日向村や、宮城の南郷村など「全国に先駆けて渡った模範村」から、京都へどう移民が波及していったのか、そこに自治体はどんな役割を担ったのか。

要約すると、移民のロジックを都合よく作り出し、日本本土における村の問題先送りや村のメンツを保つために自治体が移民を募り、半ば強制的に人数を確保していった。
満州に渡れば、

農業者向けには
・本土は過密人口により耕作地が足りていない。次男三男らが満州に渡れば彼等は土地を得られる
・借金がある家などが本土の土地、家など財産を処分して渡満することで、本土の村の耕作地は増え(村内の人間に適正配分する)、渡る人は土地を得られる

農業以外の人には
・空襲に備えた軍需工場の移転などで、国が強制的に街の土地を買収する例が増えて来ると、拠点を失った商店や工場などの人の「転業支援」として満州を勧めた
・熊本など、地区が多く差別やトラブルの多い土地では、被差別者が満州で土地を得ることが同和問題の解決策とされた

本土空襲が始まると
・満州は空襲もなく安全という触れ込みで、満州をアピールした

などなど。満州への移民推進は敗戦の年、7月まで続いた。そして、凄惨なソ連侵攻、満州での難民化、シベリア抑留などへとつながる。

本の中では、これらの側面が資料と体験者の言葉で語られる。とくに、上記のロジックがいかにおかしなものか、破綻しているか、それを唱えた農本主義者や自治体の長らの発言や責任、戦後の反省のなさを追求する。満州政策は、原爆や空襲の被害などと違い、加害というか、この状況を作り出したのも日本という国なのだというところを読者に印象付ける。

新聞記者でもここまでできるんだな、と感銘も受けた。読みやすいだけでなく、研究書としても優れているなと思った。

夏旅、日光・足尾・川場を4泊5日

2017-08-15 20:27:50 | Private・雑感
祖父の新盆(あらぼん)なので、お盆休みに群馬県川場村までの車の旅。お葬式の時に、弾丸で行ったのだけど、今度は少しゆったりと。子どもが小さいと、車の旅は便利な反面、ベビーシートに縛り付けているようでかわいそうにもなる。今回はなかなかうまく、彼女たちの負担を少なくいけたかなと思います。簡単な旅の記録を。

8月10日
夫婦揃って1日早く盆休みをとり、朝3時50分に出発。一歳半と3歳半の2人はもちろん寝たまま車に運んだのだが、上の子は6時か7時くらいまで粘って車で起きていた。でもそれからは、ぐっすり。中央道に乗り、ぐぐっと頑張って、駒ヶ根SAで朝ごはん、岡谷インターから佐野インターは下道で、北関東自動車道で日光まで。休みは3回くらいで午後0時半に日光着。ラーメン屋で昼食。降りたら、霧雨もあり肌寒い。東照宮には遅いので、大正天皇が長期滞在したという天皇家の御用邸へ。


夜は、ひと月前の予約時にギリギリ空いていた、ペンションユミィというところ。長袖を一着持ってきておいてよかったー、という感じの夜でした。

8月11日
午前9時前に東照宮着。すでに東照宮前の駐車場が満車になりかけていた。町全体が山で、川沿いを中心に街道があり、開けてはいない。道もうねっめいて混みやすい。去年行った箱根に近い雰囲気。
愛知県出身の夫は、日光は初めて。家康を祀った「神社」なのだが、いでたちはどう見ても寺である。家康自身が、死んだら日光に神として祀るよう指示していたらしいが、家康神が鎮座する前の日光はどんなものだったのか。東照宮観光をしても説明はあまりなく、幼子の世話もあるのでそこらへんわからず。
ウィキペディアによると、「その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。」
もともと神社であるが、大々的に造築した家光が、寺の造りが趣味だったのかな。…

ところで、わたしの方は日光は大学生以来。ゼミに入ってすぐ、先輩に誘われてほかの友人たちも一緒に行った覚えがある。中禅寺湖までの道で、寝不足と車酔いで不機嫌な友人の顔。その時のレンタカーは確かカローラII、ここであの子と写真を撮ったな、とか意外と覚えているものだ!この旅で、ほかにも大学生時代を思い出すことがあって、「やはり関東は学生時代の思い出が詰まっているなあ」と実感。普段、東海地方、中部地方にいてあまり思い出さないのは何かと好都合のような気がした。

東照宮のあとは中禅寺湖へ。山の天気は変わりやすい。霧が晴れて、時折青空も見える天気に。英国大使館だったという記念館で、こんな別荘素敵だなと誰もが思う空間を満喫。子どもは走り回り、わたしはスコーンを味わいました。


8月12日
日光が夫のリクエストなら、私は足尾銅山。ずっと行きたかったこの場所が、日光市の一部だとは直前に知りました。日光から40分ほど。足尾銅山観光、という鉱山跡を利用した施設は、江戸時代から始まり、明治時代に古河鉱業が買収して近代化したあとまでの、割と「武勇伝」風の展示でした。坑道は1200キロもあるという!前日までの雨もあり、坑道内は地下水もすごかったです。
足尾銅山観光では、田中正造の名前もほとんど出てこず、鉱毒、公害の歴史はわからなかったので、続いて足尾環境学習センターとやらへ。渡良瀬川を15分ほど遡り、途中、鉱石を溶解して銅にしていた精錬所の大きな煙突を横に見て、足尾ダムの裾にそれはありました。ちなみに道はそこで行き止まり。


このダム、日本最大の砂防ダムなんだとか。精錬所の煙害でダムより上流の3本の川の渓谷(奥は7キロにも及ぶ!)はハゲ山になってしまい、水も砂も蓄えられなくなったため足尾や下流で洪水が相次いだ。戦後の時期ではあったが、洪水で1000人も死ぬ災害があったりして、突貫工事で急いでダムが造られたのだという。今も続く植樹の取り組みも興味深かった。四日市公害は、こういうわかりやすくとっつきやすい関わりができなかったのかな、とか…。
足尾から群馬県川場村へは、穏やかな山道を2時間ほど。宇多田ヒカルのシングルコレクションを聴きながら、歌いながらの楽しいドライブでした。
この日の夜、祖父宅で下の娘が階段を転げ落ちる事件が。私は見ていなかったのだけど…。大人が後手後手にまわる子どものすばしこさ。一同アタフタ、泣く赤子をオロオロ心配しましたが、腫れも痣もなく、そのまま寝て朝にはいつも通り。よかった…。階段のある家には要警戒です。

8月13日
川場で新盆。この地域では、みな同じ日にお盆行事をやるとかで、お坊さんが回りきらないことを理由にお坊さんはうちには来なかった。喪主のおじ、おばが寺へ行き、お経をあげてもらってから親族で墓参り。歩いて10分ほどの、うちの畑の中に墓地の一画がある。日差しが強い!12くらい先祖の墓があり、それらはみな土葬。6月に亡くなった祖父が初めての火葬で、新しい墓石がありました。そこの門火を提灯に入れて家の仏壇へ。
精進落としは小柱温泉。酒飲みとしての務めを果たし、祖父の甥っ子にあたるおじさんに注がれるがまま飲み、話を楽しみました。

8月14日
渋滞を懸念していた帰り道。朝9時に川場を出て、行きには通らなかった長野道に載って中央道。午後5時に伊勢に着くという、渋滞知らずの順調さでした。ナビでは東名もかかる時間が変わらないのだけど、東名に乗るまでの渋滞リスクがかなり高そうだった。避けて正解。夕飯は、途中のサービスエリアで買った佐野ラーメン。無事に旅を終えてホッとしました。道中、とってもいい子でトイレもちゃんとサービスエリアまで我慢できた子どもたち、よく頑張った!