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ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

カンボジアと戦争裁判

2007-08-18 08:58:17 | Public
対ベトナム投資が前年比の五割増しで好調―――昨日の日経新聞のどこかにあった記事。直接投資を引きつけ、社会主義国であることなど忘れさせるほど、ベトナムからは経済成長の匂いがする。そしてタイ王国も然り。バンコクに並ぶ東京のようなビル街を見れば誰もがうなずくはずである。その間のカンボジアは・・・?

カンボジアが隣り合わせの両国のような発展を遂げられないのはなぜか。資源なのか、地理的なものか。労働力としての「ヒト」が良質でないのかもしれないし、海外投資を引きつけるという点でアイデア不足というのも、ヒトの問題と言えるかもしれない。それはこの国がまだまだ教育制度が整わず、ポル・ポトの大虐殺後、教師層が揃わず、両国と同じ土俵に立てないからかもしれない。

こうなると、カンボジアで起きた内紛、暴政、それを引き起こしたベトナム戦争、もっと直接的な現在の被害である地雷の問題を取り上げれば、アメリカによる北部空爆など、その罪は非常に大きい。昨日も書いたが、戦争はどこまでも罪なものだ。とすると、なぜ、第二次世界大戦においてのみ戦争裁判が開かれたのか?
(国際司法裁判所が同じような昨日を果たしているのだろうか?)
戦争の罪はどのように言及されるのか?
敗戦国のみが犯罪者なのか?

「裁く」ということにどれほど潜在力があるのかはわからないが、少なくとも「事実に対する共通認識を作る」という点では意味のある作業だと思う。ベトナムの記事を読みながら、こんなことを思っていた。

『二つの祖国』―――東京裁判と戦争の犯罪性

2007-08-17 02:25:54 | Book
 日本とアメリカという、あまりにも違いすぎる国を祖国として持ち、不幸にもその二つの国が戦争を始めたために彼らは「誰よりも忠実なアメリカ市民」として生きることを迫られる―――真珠湾攻撃を仕掛けた国の人間として敵視され、強制収容所に隔離されながらも。
戦争の激化、マニラ戦線、原爆投下と終戦、そして東京裁判。日系アメリカ人二世を主人公に、二つの祖国の輪郭を映し出していく。

 文庫本にして600ページが3冊。1800ページの物語の主要な柱は、日系アメリカ人のアメリカにおける不当な扱い(日系人強制収容所の実態や忠誠テストの存在)と、東京裁判だろう。アメリカ国籍を持ち、中には日本を見たこともないというNISEIも居る中で、日系人がアメリカ社会から隔離された背景には、少なからずアジア人への人種差別的思想があったと思う。そこらへんの感覚的には、男尊女卑に近いのではないだろうか。
 そして最も考えさせられたのは東京裁判についてである。今までこれほどちゃんと記述を追ったことはなかった(この点、小説の力はすごいと思う)が、著者の考えを割り引いてみても、この裁判はアンフェアのうちに始まり、進み、終わったものだと思わざるを得なかった。これは現代の日本人にとっても不幸なことである。なぜなら、戦勝国と敗戦国との間での共通の歴史認識を持つチャンスが生かされなかったことを意味するからである。東京裁判の信頼性が高いものであれば、靖国問題もほどきやすいものになっていたかもしれない。南京大虐殺の全容も、日本人は加害者として認識せざるを得ないものであっただろう。
 こうなってみるとドイツ人がニューンベルク裁判(東京裁判と同じ位置づけで敗戦国ドイツに対し行われた戦争裁判)をどのように評価しているのかが気になる。いずれにしろ、「平和に対する罪、人道に対する罪」を刑事裁判で裁こうとする場合、戦勝国側が罪を犯していないはずがない。戦争は、その点どこまでの犯罪だらけである。

 このような、歴史的史実を元とした小説は、歴史的事件を多様な面から、それらをつなげながら眺めることを可能とする。学者のような根気強さとセンスを持たないものにも。山崎豊子は、本当に価値ある仕事をしているなぁと再度実感しました。

「クラッシュ:CRASH」

2007-08-12 01:21:32 | Movie
2004 アメリカ
★★★★

CRASH、CRASH、CRASH―――
衝突事故が絶えない。
人に対する怖れ、誤解、そして偶然が衝突の連鎖を生み出す。

まるで、「BABEL」みたいな映画だった、と言えば、バベルを観た人にはわかってもらえるかもしれない。こういう映画がアカデミー作品賞とは少し驚きだが、私は嫌いじゃない。

人種差別は、複雑な「統計的差別」のようなものだろうか。
何か(犯罪とか)が起こると、「なぜ起きたのか、なぜ彼が起こしたのか」と理由を求める。複雑な過程を端折って、答えが当てはめられる。
「彼が黒人だからか」。
解けない問いへの、短絡的な答えでもあり、苦渋の上での答えでもあるかもしれない。

民族:文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同族意識をもつ人々の集団
人種:人間の生物学的な特徴による区別単位

多人種、多民族の中に飛び込んでみたいと思ったのは、『何でも見てやろう』の影響だろうか。


「私たちのこと、アラブだと思ってるんだわ。ペルシャなのに。」

泥棒に入られてめちゃめちゃになった店内を見て、店主の妻が言った。
「性別」差別とは違う難しさ―――「女だから」差別する、というときに、「女じゃなくて男なのに」という誤解はほとんど発生しない―――を感じた。



「さくら」と『二つの祖国』

2007-08-11 22:43:02 | Private・雑感
最近、再放送の「さくら」(数年前のNHK朝の連ドラ)が面白い。
今のやつ「どんと晴れ」は極力見ないが、さくらは見る。
BS2で朝7:45から。8:00に終わって、「BSシネマ」(BSの映画番組紹介)までを見る。

日系4世のさくらは、ハワイ在住で大学までを過ごし、飛騨高山に英語の先生として1年間赴任してくるというストーリー。
最近、婚約者のロバート(セイン・カミュ)に婚約を破棄され、今朝の放送ではその傷の深さを彼女の祖父(小林亜星)が慰める、というちょっとシリアスなシーンだった。
半年ちょっと離れて、やってきていきなり婚約破棄なんて許せない。

ともあれ、もう一人、密かに彼女を思っているのが、体育教師の桂木先生。これを小澤征良の息子の小澤征悦が演じている。彼がなかなかタイプである。

なぜ彼がタイプなんだろう?
・・・それは声である、と今日図書館の帰り道、自転車に乗りながら思い当たった。私のなかでは、「声が透る」ということが、それだけでなく「声がでかい」ということが、男性的魅力になっているらしい。

これは、(私の中では)女性には当てはまらない。声が透るのは重要だが、でかいとだめだ。

話をさくらにもどす。

ナレーションはというとさくらのお祖父ちゃん役、大滝秀治である。
彼は日系2世、すでに故人の設定だが、ほんの時折、彼のハワイでの生活、第二次世界大戦をアメリカ兵として戦わなくてはならなかった体験の話が出てくる。

そして今日、図書館で何気なく手に取ったのが『二つの祖国』/山崎豊子。
アメリカの日系2世が、第二次世界大戦の開戦を境に、時代に翻弄される話である。
帰り道に古本屋で買ってきた。そろそろ1巻目が終わる。

6日の原爆記念日から15日の終戦記念日まで、戦争モノが紙面に、テレビに多く出てくる。NHKで再放送されていた硫黄島の生存者が語るその惨状の話は、食い入るように見た。本当に多くの人が関わった戦争だから、「戦争を知る」って難しいが、少しでもわかるようになりたいと思う。NHKでは東京裁判の特番もあるらしいから、期待したい。

アメリカに、行ってみたい。
テキサスとかの、広大なとうもろこし畑とか(想像)、砂漠とかが見たい。もう今は、オーバーオールなんて着ていないのかなぁ、アメリカの古い映画で出てくる田舎は、皆オーバーオールにタバコに帽子である。そういう砂埃の中に立ってみたい。

なんて思ったままに書いてみた。

明日は、1985年、御巣鷹で520名が亡くなった、日航ジャンボ機墜落事件の日である。


『大衆の反逆』/オルテガ・イ・ガセット(1930)/ちくま学芸文庫

2007-08-08 09:28:55 | Book
 「我」とは、「わが魂」でも「わが肉体」でも「わが性格」でも、またその総合でもなく、それは、「生の計画」であり「実現せねばならない自己の姿」である。(p300)

この定義からすれば、人間は以下のような二種類、つまり

 「第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんら特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々」(p.18)
に分けることが出来る。前者が少数エリート、後者が「大衆」に相当する。

 20世紀初頭(これが書かれたのは1930年)、この大衆が自ら「おのれが凡俗であることを知りながら」主張を貫徹しようとしている。以前は、この大衆から分離した少数者の意見に従っていた大衆が、である。この大変化はなぜ起こったのか。そしてこの危機は何を意味しているのか。かつての大国スペインが陥ったこの危機をどのように乗り越えればよいか。これが本書の構成である。

 最初の問いには、19世紀の経済発展が人々の生活スタンダードの向上、それを「与えられたもの」ではなく「当然のもの」と考える人々(=大衆)が、自ら努力することをやめてしまった。人口の急増によって増えた部分の人口の多くがこの部分に該当し、数の力で政治を動かすことを可能にした、と答える。またフランス革命に代表する革命が、「社会的権力と社会の力を均衡」させた結果、「革命」の可能性自体が消滅した、残るのはクーデターのみだ、ということも述べている。

 第二の問いの答えは、文明の没落である。「慢心しきったお坊ちゃん」と彼は名付けている。14世紀に世界を支配したスペイン王国は文化、学問、その知的レベルにおいてヨーロッパの中心から遠ざかってしまった。これを何よりも嘆くオルテガは、歴史的意識の再生、すなわち、現代の状況に慢心するのではなく、向上心と歴史から学ぶ謙虚さを持てと説く。これは彼の終生の仕事となった教育・出版業(自らの執筆に加え、他言語の哲学書や学術書の翻訳版の出版)にもつながっていく。

 すぐれた分析の書であり、その説得力が、同時に啓蒙書としての成功ももたらしている。人間とは、生きるとは、というミクロの視点と、国家とは、国の発展とは、というマクロの視点が自然につながっていて、上手い。

 1930年代とは、このような危機感が少数エリート間で大いに喚起されていたのだろう。第一次世界大戦が悲劇をもたらしたこと、アメリカが力を持ち始めたこと、大衆化、それに伴うメディアの役割の増大、ということがあったのだろうか。それに対し、現在はその大衆化に慣れてしまい、大衆化自体を問題視するのではなく、それを前提条件とした社会批判がなされている、というところだろうか。変質していく「生」(「生の計画」、「実現せねばならない自己の姿」の変容)がスペインの衰退の主因である、と書けば大げさな哲学書のように思える。しかし彼の説得力ある時代分析が、読者それぞれの「生」そのものを変えるほどの力があるような読後感をもたらす。最近では一番のお勧めであります。

ちなみに、友人の話ではこの「ちくま学芸文庫」の訳(神吉敬三)が一番読みやすいとのことです。