日本の新聞の特徴を、山下(1996)は以下の4つに要約している。
①政党的立場を鮮明にしない「不偏不党性」
②寡占・過当競争から来る全国紙の強さ
③権威・権力への従順性
④集団(例えば会社、記者クラブ等)主義的意識
④を置いておけば、他の3つは①の不偏不党性に起因していると言えるだろう。
政党や政治性を明示しないことで、読者対象は広がる(②)し、
政党を応援しないことは、与党政府にとって都合が良い(③)。
ではなぜ、日本の新聞界には不偏不党的な新聞しかないのか。
★日本には高級紙がない
これは、なぜ政党への支持・不支持を明確に書くような、「高級紙」がないのか、という問いにも言い換えられる。
というのは、イギリスやアメリカで、政策の良し悪し、政党への支持・不支持を
明示する新聞は高級紙と呼ばれる新聞だからである。
欧米でも、日本のように(?)政策に関してさほど言及しない大衆紙はある。
例)
高級紙)『ガーディアン』(英)、『タイムズ』(英)、『ニューヨーク・タイムズ』(米)、『ル・モンド』(仏)など
大衆紙)『デイリー・ミラー』(英)、『ザ・サン』(英)、『U・Sトゥデイ』(米)、『パリジャン』(仏)など
これらに対し、日本の新聞は、大衆紙寄り・・・正確には中間あたりにあるという位置づけである。
★日本にも、政党支持型の高級紙はあった
日本に新聞が発行されるようになるのは、明治初期。
「上意下達」の手段として政府が支援する形で新聞社が勃興した。
自由民権運動の始まりがきっかけで、新聞が広まる。
明治初期から後期にかけては、新聞には高級紙、大衆紙にあたるような「大新聞」、「小新聞」の二種類があった。
大新聞)東京日日新聞、時事新報、郵便報知、など・・・漢文調、難解、政治論評など
小新聞)読売新聞、東京絵入り新聞、都新聞(のち東京新聞)、大阪朝日新聞 など・・・かな文字、絵入り、ゴシップなども
このリストを見てもわかるとおり、現在の日本の全国紙は、基本的に「小新聞」が
規模を拡大した結果として残ってきたものばかりである。(読売、朝日・・・)
大新聞に属するものは、組織としては小新聞に統合され、発行体としては姿を消している。
(例えば、東京日日は毎日に、郵便報知は読売に買収されている)
★政府補助を受けていた大新聞が、自由民権運動への政党支持のために
補助をうけなくなる
この明治期に、大新聞は不偏政党化、そして衰退していく。なぜか?
・大新聞への政府援助がなくなった
・機関紙間の攻撃合戦が読者を惹き付けなくなった
・松方デフレによる読者の購買力の低下
これらが直接の理由と考えられる。
日本の大新聞は、明治初期に政府の援助によって設立、運営された。
「上意下達」の目的―――官報のような役目を果たすことが意図されていた。
それが、自由民権運動の際、各紙(東京日日新聞を除く)が政党内閣制支持を
表明し、これはすなわち当時の藩閥政治への批判であった。
政府はこれが面白くないので、補助をやめた。
★欧米との環境の違い
欧米の新聞業界との環境の違いは、
・日本の高級紙の誕生には政府援助があったこと
・高級紙が誕生して、数十年という短い期間で以上の危機があり、
読者が根付かなかったこと
・配達、郵送などにおける鉄道など輸送機関が未発達であったこと
があると考えられる。
通常、新聞などのメディアは「上意下達」ではなく、「下意上達」のために、
成立する。市民革命によってそれを成し遂げる風土があり、
下意上達のためのツールとして新聞が出来ていた、というのが日本との違いか。
★不偏政党性の裏返しとしての「報道新聞」、「組織主義」
政治的な目的でなくて、人々は何を求めたのか。
それは、報道である。
小新聞が大新聞を部数で抜くのは1877年の西南戦争のころ。
小新聞の代表格であった大阪毎日、大阪朝日が東京に進出して
大規模化するのが1904年の日露戦争のころ。
戦争の行く末を知るために人々は新聞を求めた。
報道新聞を作るのに必要なのは、政党機関紙のような「同志」ではなく「組織」である。
この明治末期ころから、新聞の企業化が進んでいく。
ひとまずここまで。
以上は主に山本武利(*2)さんの本をいくつか読んでまとめたもの。
いろいろ書いたけど、要は、
反政府を含めて政党支持をできるような高級紙の成立には
・政府に属さないプチ・ブルジョア層
が必要だった。
西欧にはそれが存在したが、
日本にはいなかった―――エリート層はほとんどが「官」側にいたし、
当時読者であった地方豪族は、1880年代の農村不況と、高い郵送料によって
読者として心もとなかった。
それが、不偏不党を唱える小新聞の拡大になったのではないか、というのが考察です。
・・・でも、欧米でも、商業者、労働者階級の人数増加に伴って
「ジャーナリズムの大衆化」が問題となってはくる。
アメリカで、ハーストなどが商品としての新聞を売りたたいた、
イエロージャーナリズムがそれである。
ちょうど1930年代、オルテガが『大衆の反逆』で書いたように、
ジャーナリズムへの関心は
「積極的なものから受動的なものへと転換」した。
こういう、大衆化への危機感、非難みたいなものは
日本でもあったのだろうか?
エリート層は何を考えていた?
なんてことも気になってきました。次回へ続く。
(*1)http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9E%8B%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E2%80%95%E6%A7%8B%E9%80%A0%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%A8%E4%BD%93%E8%B3%AA%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%A8%A1%E7%B4%A2-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E5%9B%BD%E8%AA%A5/dp/487378459X
(*2)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%88%A9
①政党的立場を鮮明にしない「不偏不党性」
②寡占・過当競争から来る全国紙の強さ
③権威・権力への従順性
④集団(例えば会社、記者クラブ等)主義的意識
④を置いておけば、他の3つは①の不偏不党性に起因していると言えるだろう。
政党や政治性を明示しないことで、読者対象は広がる(②)し、
政党を応援しないことは、与党政府にとって都合が良い(③)。
ではなぜ、日本の新聞界には不偏不党的な新聞しかないのか。
★日本には高級紙がない
これは、なぜ政党への支持・不支持を明確に書くような、「高級紙」がないのか、という問いにも言い換えられる。
というのは、イギリスやアメリカで、政策の良し悪し、政党への支持・不支持を
明示する新聞は高級紙と呼ばれる新聞だからである。
欧米でも、日本のように(?)政策に関してさほど言及しない大衆紙はある。
例)
高級紙)『ガーディアン』(英)、『タイムズ』(英)、『ニューヨーク・タイムズ』(米)、『ル・モンド』(仏)など
大衆紙)『デイリー・ミラー』(英)、『ザ・サン』(英)、『U・Sトゥデイ』(米)、『パリジャン』(仏)など
これらに対し、日本の新聞は、大衆紙寄り・・・正確には中間あたりにあるという位置づけである。
★日本にも、政党支持型の高級紙はあった
日本に新聞が発行されるようになるのは、明治初期。
「上意下達」の手段として政府が支援する形で新聞社が勃興した。
自由民権運動の始まりがきっかけで、新聞が広まる。
明治初期から後期にかけては、新聞には高級紙、大衆紙にあたるような「大新聞」、「小新聞」の二種類があった。
大新聞)東京日日新聞、時事新報、郵便報知、など・・・漢文調、難解、政治論評など
小新聞)読売新聞、東京絵入り新聞、都新聞(のち東京新聞)、大阪朝日新聞 など・・・かな文字、絵入り、ゴシップなども
このリストを見てもわかるとおり、現在の日本の全国紙は、基本的に「小新聞」が
規模を拡大した結果として残ってきたものばかりである。(読売、朝日・・・)
大新聞に属するものは、組織としては小新聞に統合され、発行体としては姿を消している。
(例えば、東京日日は毎日に、郵便報知は読売に買収されている)
★政府補助を受けていた大新聞が、自由民権運動への政党支持のために
補助をうけなくなる
この明治期に、大新聞は不偏政党化、そして衰退していく。なぜか?
・大新聞への政府援助がなくなった
・機関紙間の攻撃合戦が読者を惹き付けなくなった
・松方デフレによる読者の購買力の低下
これらが直接の理由と考えられる。
日本の大新聞は、明治初期に政府の援助によって設立、運営された。
「上意下達」の目的―――官報のような役目を果たすことが意図されていた。
それが、自由民権運動の際、各紙(東京日日新聞を除く)が政党内閣制支持を
表明し、これはすなわち当時の藩閥政治への批判であった。
政府はこれが面白くないので、補助をやめた。
★欧米との環境の違い
欧米の新聞業界との環境の違いは、
・日本の高級紙の誕生には政府援助があったこと
・高級紙が誕生して、数十年という短い期間で以上の危機があり、
読者が根付かなかったこと
・配達、郵送などにおける鉄道など輸送機関が未発達であったこと
があると考えられる。
通常、新聞などのメディアは「上意下達」ではなく、「下意上達」のために、
成立する。市民革命によってそれを成し遂げる風土があり、
下意上達のためのツールとして新聞が出来ていた、というのが日本との違いか。
★不偏政党性の裏返しとしての「報道新聞」、「組織主義」
政治的な目的でなくて、人々は何を求めたのか。
それは、報道である。
小新聞が大新聞を部数で抜くのは1877年の西南戦争のころ。
小新聞の代表格であった大阪毎日、大阪朝日が東京に進出して
大規模化するのが1904年の日露戦争のころ。
戦争の行く末を知るために人々は新聞を求めた。
報道新聞を作るのに必要なのは、政党機関紙のような「同志」ではなく「組織」である。
この明治末期ころから、新聞の企業化が進んでいく。
ひとまずここまで。
以上は主に山本武利(*2)さんの本をいくつか読んでまとめたもの。
いろいろ書いたけど、要は、
反政府を含めて政党支持をできるような高級紙の成立には
・政府に属さないプチ・ブルジョア層
が必要だった。
西欧にはそれが存在したが、
日本にはいなかった―――エリート層はほとんどが「官」側にいたし、
当時読者であった地方豪族は、1880年代の農村不況と、高い郵送料によって
読者として心もとなかった。
それが、不偏不党を唱える小新聞の拡大になったのではないか、というのが考察です。
・・・でも、欧米でも、商業者、労働者階級の人数増加に伴って
「ジャーナリズムの大衆化」が問題となってはくる。
アメリカで、ハーストなどが商品としての新聞を売りたたいた、
イエロージャーナリズムがそれである。
ちょうど1930年代、オルテガが『大衆の反逆』で書いたように、
ジャーナリズムへの関心は
「積極的なものから受動的なものへと転換」した。
こういう、大衆化への危機感、非難みたいなものは
日本でもあったのだろうか?
エリート層は何を考えていた?
なんてことも気になってきました。次回へ続く。
(*1)http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9E%8B%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E2%80%95%E6%A7%8B%E9%80%A0%E5%88%86%E6%9E%90%E3%81%A8%E4%BD%93%E8%B3%AA%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%A8%A1%E7%B4%A2-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E5%9B%BD%E8%AA%A5/dp/487378459X
(*2)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%88%A9
わかりやすいんだけどさ、
二つの新聞社なら中道になるけど、
三つの新聞社なら鼎立状態で、
適度に政治的な意見を言うはずじゃん。
で、四つ、五つと考えていくと、、、、
要するに言い方としては、
寡占→不偏不党性という気がするな。
で、寡占になるのは、
やっぱり読者が中道だからじゃないのかな。
その政党側の援助ってのも気になるが、
やはり原因は需要側にある気がするよ。
その西欧の成立条件の、
「政府に属さないプチ・ブルジョア層」
って、実は、政府与党に属さない「野党側の層」
って意味ではない?
(というか、②の寡占・過当競争って矛盾した表現じゃないか。寡占だったら競争しないぜ。ヤマシター)
二つをあわせると要は
大衆と新聞社の中道化の循環が続いて
不偏不党?になるってのが妥当か。
というか今って不党っていうのか?
与党支持じゃないのか?
まあいずれにしろ、
その循環をつくるのは政党。
その政党から新聞社への補助の流れが読めん。
藩閥を維持したい政府と、
政党内閣を支持した新聞が対立して、
政府が新聞への補助をやめるのはわかる。
それは新聞社全体か?
そこで新聞社が衰退したときに、
何が起こったんだ?
政府に属さないプチ・ブルジョア層を想定する、
ってのはかなりきつい気がするがなあ。
不偏不党化の始まりの部分は
不偏不党→寡占化
だったんだよね、
明治中期から後期にあったのは
不偏不党宣言→新聞の普及と寡占化、
という動きだから。
だから、不偏不党宣言の背景には、
高級紙を維持するだけの読者層がいなかった、
これは読者が中道的だったというよりは、
購買力のある、非中道的な読者が少なかったことが理由で、
購買力のあるブルジョア層がいれば、
高級紙は存続したのではないか、と思ったわけです。
このタイミングには、西南戦争後のインフレを抑えるための
デフレ政策(松方デフレ)があった。
このデフレ政策は農作物価格の低下を招いたため、
自由民権運動の活動家としての地方豪族の購買力をなくさせた。
政府に属さないブルジョア層っていうのは日本では
地方豪族を考えていたんだけど、まあ彼らが読者として
高級紙を支えられなかった。
そのあと、1890年ごろから印刷機(輪転機)が輸入されて
大量生産が可能になり、低コストで、大衆にも新聞が配れるようになった。
ここで、大衆紙が高級紙に代わって広まる。
でもまあ、始まりはそうだったにしろ、
その後不偏不党性と大衆紙の寡占化を支えていたのは、
中道的読者ではあると思います。
過当競争が成り立つ条件としても、中道的読者層は必要だと思うから。
中道的→押し売りしやすい
(内容に対する読者の嗜好が薄い)→発行部数争いの「過当競争」
という風に。
不偏不党っていうのは・・・実態は何だろうって感じ。
不偏不党 意味
いずれの主義や党派にも加わらないこと。偏ることなく、公正・中立な立場をとること。▽「偏」はかたよる意。「不偏」は偏らないこと。公正であること。「不党」は仲間や党派に加わらないこと。
彼らが掲げてるのはこんな感じ。
http://www.asahi.com/shimbun/honsya/j/platform.html
今の新聞は、論調的には野党支持だと思うけどな。
でも、野党に偏っては報道していないわけで、
野党の後押しには成りえてないという点で、
与党を含めた「権威・権力に対して従順」と言えると。
ちなみに、この不偏不党条項は、テレビでは法律(放送法)で定められているもの。
不偏不党は、もともと特定政党の機関紙のような働きをしていた政論新聞が、経営上の理由から「私たちは一党だけに味方するものではありませんよ」と宣言するためのもので、決して積極的な意味ではなかった。ちょうど明治の終わりごろにこの動きがあった。
たくさんの読者を獲得するため。技術的に大量印刷が可能になった時期とも重なる。
このスタートのところは押さえておく。
それで、不偏不党というテーゼの不十分さをしっかりと批判していた長谷川如是閑という朝日新聞から出て行った論客が明治・大正期にもいた。この人の文章を読めば、もっと議論は深まると思う。
・政府補助がなくなり
・デフレで地方豪族が疲弊し
・印刷技術のおかげで低コスト大量生産型を志向した
何が「宣言」だ、という気がしますね。
政論ではなく報道本位でやってきたから、この情報化の時代に、誇れるコンテンツなどなくなってしまった。報道の速報性だけなら新聞ではもうウリにはできなくなってしまった。まさに「大衆の反逆」では。