ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

川場村の祖母が亡くなる

2020-07-18 10:55:37 | Public
群馬県川場村にすむ祖母が亡くなった。90歳。おととい、昨日と、公共交通機関ではなかなか行けないその土地へ、行ってきた。

この7、8年は老人保健施設と病院を行ったり来たりで、歩けたり食べれたりするのにしない、車椅子を使う、などと生きることに消極的に見えた。今年初めには食べられない状態になり、家族は胃ろうを希望せず、点滴栄養のみだった。半年以上、それで生き続けられることに、周りは複雑な気持ちだった。この4ヶ月ほどはコロナの影響で面会もできず、ただただかわいそうだった。

農家の嫁として、また祖父のまだ小さい兄弟と自分の子どもを食べさせて行くため、よく働いた人なのだろうと思う。私の知らない、「母親時代」の祖母を想像したが、子どもらはたくさんいるし、田んぼに蚕の世話は年中続く。半纏やセーター作りもこのころからやっていたらしい。体力勝負の毎日だったことだろう。

私や弟たちが毎夏、毎冬に楽しみに通い、着いて早々茹でた枝豆やトウモロコシを出してもらい、スキーに行く時には、焼き海苔一枚をひとつひとつに使う巨大おにぎりを持たせてくれた「祖母時代」。もしかすると、祖母にとって一番充実していたのかもしれないなと思った。
蚕もしなくなり、たんぼとはたけ、味噌や切り餅つくりに勤しみ、運転免許をとって孫たちの送迎や、大正琴にも通った。

高齢になり体が動きにくくなると、一気に元気がなくなり、祖父とのいがみ合いも増えた。孫たちもほとんど行かなくなったり、東京に出たりした。

私たち孫が見てきた祖母と、父や叔父がみた祖母は違うのだろう。家事手伝いとしての農業や蚕の仕事は、過酷だったみたいだ。よくはわからないけど・・・。それもあってか、体が弱り、畑仕事もしなくなったり施設に入ったりした祖母に、父らは親身ではない気がした。そういう祖母を見たくなかったのもあるかもしれないし、幼少期に働かされてきたことがネックで、純粋には感情移入できなかったのかも。いろいろと想像の部分であり、はっきりさせなくてもよいと思うところである。

子ども時代、親時代、そして親を卒業して祖父母時代?こういうのをキャッチーな言い方で何かあった気がするが、エルダー?シニア?時代。マクロとしてではなく、個々人の人生のうねりを感じた。そりゃあ90年も生きていて、子どもとは60年程度の付き合いになるわけだから、時代時代によってかかわり方やポジショニングは変わる。あまり意識していなかったけど、長い時間のスパンで、親族間のかかわりについて考えさせられた。