ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

筑紫哲也(2009)『若き友人たちへ』集英社新書

2009-12-25 22:58:06 | Book
 今まで、ジャーナリストとか、新聞記者が書いてきた物は
読まないようにしてきたところがある。
「新聞に本当のことが書いてあるなんて思っちゃいけない」という
教育の効果なのか何なのかわからないけど、なんだか嘘くさい気がしていた。

 この本を読んで、ジャーナリストの本として定評のある文章を
積極的に読んでみたい、損はしないはず、と思った。
この本の中身はとっても簡単だし、平易なんだけど、純粋に
筑紫哲也という人に興味を持った。

 内容としては、彼がどこかの雑誌で連載しようとしていた
「若き友人たちへ」という書簡体の文章と、早稲田と立命館とかで
やっていた講義。
 憲法について考えよう、では、平等権について定める日本の憲法14条
を取り上げ、「憲法改正の前にすべきことがある」と言う。

 1.すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
 2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
 3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

憲法改正というけれど、現存の憲法をしっかり使っているのだろうか、
14条は男女の平等も意味するけど、これはGHQの女性スタッフが
いろんな意味を込めて付け加えた物だけど、使いこなせているだろうか、と。

アメリカの有名なカナダ国籍のテレビ記者で、2,3年前に亡くなった人を取り上げた番組で、
彼が常に、アメリカ合衆国憲法の全文を書いた小冊子をポケットに入れていたと
紹介していたのを思い出した。
権力からの被害を養護し、権利として訴える手段なのだから、
私のような仕事の人は特に、十分に知っていなくちゃいけないんだよなあと痛感。

そのほか、「判官贔屓」という言葉から、日本人の気質や現状に触れる
展開はうまいなとおもった。
この言葉が生まれたストーリー(歌舞伎かな)は、
日本人が好む情けの美学を描いている。
その現象として、今までは「2番手でもうちょっとで勝てそうな人」を
応援する風習が強い。だから、ヒーローと祭り上げる人は、
ストーリーとしては悲劇で終わることが多い、というようなこと。
それが、小泉旋風に見られるように、「勝てる勝てる、間違いない」と
言われる(メディアが書く)人に実際の人気も流れるようになってきた
ということを言ったり。
なるほどな。「そういうのを、心配性のジャーナリズムが釘をささなくちゃいけない」と。

今、初めて本田靖晴の本を読んでいる。そんなこともあって、
新聞記者やジャーナリストの仕事を、しっかり見てみようという気になっています。

最後に。本の中で線を引いたりして読んだ部分。
長いけど、覚え書きに。

火事が起きても「火事なんて、人類始まって以来起きているんだ。
また起きたところで珍しくもない」などという人は学者になればいい。
ジャーナリストになりたければ、火事と聞いたらパアーっと駆け出す、
他のどんな能力よりもこれが一番、これなくしては仕事になりません。

そうすると、「お前、好奇心だけでいいのか」という話になる。
(中略)ジャーナリストというのは野次馬の代表であり、野次馬のプロだと
よく言われます。
(中略)「出火原因は何か、死者はいないか、どういう特徴のある火災だったか」
などを取材して分析できる。それがプロという意味です。

つまり、物事が起きた時、それをどう見たらいいのかについての経験と知識、
それを調べるフットワークのある人をプロというんです。
そしてそのエンジンになっているのが好奇心です。
そこからもう一つ大事なのは、「これは何だろう」という探求心です。
探してずっと先まで求めていく。
これが学ぶということの意味でなくてはなりません。

・・・いろんな知識を貯えていきながら、どうやったらそれを知へ転化できるか。
はっきりした方法はないんですが、
知識を蓄積してそれについて考えてみると言うことを繰り返している間に、
ぽんっと何かがわかった瞬間、「体得」です。
(中略)ある時ふっと、ああ、自分はここまで来ていたんだ、と気づく。
まあ、気づくはずだと思ってなきゃやってられないですね、こんなことは。
私はそう信じています。

映画「母なる証明」

2009-12-24 10:42:20 | Movie
韓国/2009
監督 ポン・ジュノ
主演 キム・ヘジャ(母)、ウォンビン(息子)

明るい、ほのぼのとしたシーンがひとつもない。
映像は終始暗く、救いとなる場面を思い出せない。
それでも、注視しつづけてしまった。
本当によくできた映画で、「映画はジャーナリズムだ」と書いた
筑紫哲也の言葉が思い浮かんだほどだ。
環境的な共通項がないのに、映画に共感したのは、
韓国だから、田舎だから、といった条件ではなく、
「人間だから」こうなってしまった、というストーリー展開の
無理のなさなんだと思う。

あらすじは、ある静かな田舎の村で、のほほんとして取り柄のなさそうな息子が、
女子高生の殺人事件の容疑者として逮捕される。
無罪の証明のため、母が奔走する。

映画中にも、映画のサイトにおけるストーリー説明にも出てこないが、
息子は知的障害者なのだ。
(そう明言しないところは、「知的なおかしさなんて誰にも判断できないだろう」とう投げかけがあるような気がする)
彼はいろいろと不可解なこともするし、うまく答えられなかったりする。
母は、この息子を溺愛し、一心不乱に無実を晴らそうとする。
警察も、母も、真相をよく知らない。加えて、彼自身もよくわかってない。
それが結末を二転三転させる。
「馬鹿と言われたらやり返せ。1発殴られたら2発返せ」
という母の教育を、誰が批難できようか。

映画は見なくちゃいけないな、と改めて思った。
一筋縄ではいかない世界。
正解を明快に、論理的に導けない世界を、もっと知らなくちゃいけないんだろうな。

行政機関と報道機関

2009-12-20 15:01:46 | Public
 「行政」という主体は、ここが地方都市だからか、とても大きい存在。
制度政策、統計資料、なんだかんだと情報を求めることは多い。
議会の情報にしたってそう。

 報道機関の立場から考えてみて、それをどれくらい要求できるものなのか。
「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」なんていう法律もあるが、
実際、細々したところをどうするのか。論理構造はどういったものなのか。

 前に、山崎豊子の『運命の人』の感想で書いたけれど、報道側の権利の
説明としては、憲法上の表現の自由があり、それに付随する報道の自由がある、
のだと思う。
 では行政側には「要求者の表現の自由を尊重する」というインセンティブ以外に
はないのか?主体的な公開の意味はないのか?

 ここで問題にしているのは、たとえば市議会の議案説明書の内容量とか、
一般通告の内容とか、細かくて行政側に公開量の裁量権がかなりある場合。
「すでに作ってある文書を出す、出さない」ではなくて、
「どれくらい文章として書くか」「出すにしても、議会開会のその日に出すか
2日後くらいに出すか」とかいう微妙な場合。
仮に、後者のような対応でも、市民から100%の割合で責められる、
なんてことにはならない。

 人と話しているうちに思ったのだけど、これは行政の自由ではないかな。
制度政策を報道に説明したり、資料を公開したり、公開用ではない内部資料にして
もコピーして提供したり、「あまり大きな声では言えないけど、うまくいって
ないんですよ」って言ったり。
 これらのことは、たぶん、行政が批難を浴びることがあるかもしれないけど、
巡り巡って行政には良い影響をもたらす。と思う。
 とすると、行政自身の「良い行政にしたいか」という思いの強さとか、
「巡り巡って良い影響をもたらすと信じられるか」ということの強さをもって
自分たちで選択することじゃないかな。

 こんなことを考えたのは、報道の人が、あまりに「公開が当然だ」「隣の市では
これくらい出してる」「こういうものは文書に起こした物を配るべきだ」
といった要求調で、「なんでそこまで言えるの?」と思うことが多いかったからだ。

 以上の話とは別に、行政と報道は、ギブ&テイクの関係にもある。
行政が知らせたいことを、新聞やテレビが知らせることは多々あるし、
報道も「ちょっとこの話はどういうことでしたっけ」と聞くことも多い。
ただ、微妙なラインの話は、上に書いたようなことの方が
しっくりと説明できるような気がした。

 本とかを読んだ訳じゃないから、他の解釈が多分にありそうだし、
他にも正しそうな説明が有りそうな気もするから、
覚え書き程度に書いておくことにしました。

堤未果(2008)『ルポ 貧困大国アメリカ』岩波新書

2009-12-20 14:35:22 | Book
 読み終わってみて、この本にはもっと適したタイトルがあるんじゃないかという
気がしている。
「貧困大国アメリカ」というより、「貧困ビジネスを主導する国、アメリカ」といったところ。
弱者が生み出されることは、彼らが経済的な弱みを持ち、
それが利用されやすい構造が生まれることだということを示している。

 具体的には、貧困のために大学進学をあきらめそうな高校生たちへの
軍へのリクルート(そのための、各学校の携帯電話番号レベルでの個人情報提供)、
同じく、無理して大学を出ても就職もなく、奨学金の返済が出来ない
学生に、返済免除制度などを示しながら軍にリクルートする、
移民には、「入隊すれば市民権を与える」という移民法改正(2002年)
までして誘い込む、

 軍だけでなく、”警備”を政府から受託している
KBR社(ケロッグ&ブラック・ルート社=親会社はハリバートン)と
傭兵派遣の請負をするブラックウォーターUSA社は、
実際に支払う報酬や労働環境の過酷さを隠しながら、
ネパールやフィリピンにまでリクルートに出かける、

 戦争の他にも、貧困家庭用のフードスタンプ(食糧用バウチャー)が
チーズバーガーのように、栄養の偏った高カロリーのものの消費に流れ、
貧困が肥満につながっている構図などを書いている。

 内容以上に考えさせられたのは、2つの点だ。

 ひとつは、仕事の上で、「事実を構造的に組み立てて示す」ことの重要性。
構造ごと知らせる、というのは、私の仕事で常に求められていることでは
ないと思うけど、目標にすべき付加価値のある仕事なのだと思った。

 もうひとつは、読者として「具体的に知り、覚えている」ということの必要性。
当たり前のことだけど。おおざっぱにしか知らないことは、そのことの
重要性を低く見ている証拠だし、その後も低く見続けることにもつながる。

 =岩波新書、2008年1月発行=

上京といえば結婚式

2009-12-06 22:13:24 | Private・雑感
久しぶりの上京。
やっぱり、電車移動に刺激を受ける。
大げさに言えば、自分の社会的存在というか、
他人の中の自分を意識するような・・・まあとにかく車社会では
どこでも味わえない感じだ。
近鉄四日市-名古屋と東京メトロでは、
ファッションやテンションが乗客の層が違うのもある。
地元の駅では、「こいつ知り合いかも?」とちょいちょい思うという
地元ならではの刺激も少しある。
他人と自分を比較するのは、さりげなく自分発見で面白いということかもしれない。
トレンドのコートを持ってない自分とか、
ヘアスタイルにあまりに気を遣ってない自分とか、
DSやったことない自分とか、確実に前より増えたなというDS人口とか。
本を読んでメモとってる人とかいると、なんかいいよね。

上京といえば結婚式だが、
3組の夫婦を見た忙しい週末だった。
1組めは、青山で結婚式を挙げたエリート会社員の男性友人(26)と、
会社を辞めてパリへ行く同じ会社勤めだった新婦(25)。
もう一組は、高校の友人で8月ごろに結婚、
結婚を機に国交省を辞めた女性(26)と、
現役国交省事務官(26)=たぶん、会ったことはない。
最後は、私を社会勉強をかねて?2年前に披露宴に呼んでくれた友人女性(もうすぐ29)と、社内結婚の年上男性(40)=たしか。かわいい8ヶ月の赤ちゃんと一緒。
先月から会社に復帰して働いているとのこと。

まーいろいろですね、
具体的な話を聞けば聞くほど、参考にならないような(笑)。
結婚に伴う環境や条件はみなあまりに違いすぎて、
結局、当たり前だけど重要なことに気づく。
自分の人生は他の誰も考えてくれないものだと。
自分で考えるしかない。
裏を返せば、自分も本気では他人の人生を本気では考えてない。
「考えられない(考えるには難しすぎる)」という前提の上で、
話をしている。
客観化して考えてみる癖も、こればっかりは話を複雑にするだけかも。なんてね。

ひさしぶりに実家でゆっくりしている今夜。
贅沢して、これからお風呂沸かそうっと。