ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生

2007-03-25 19:50:55 | Book
「オウム」という単語を憎悪し、臭いものに蓋をするように議論を閉じ込めた日本社会。果たして、「再発防止」という観点で徹底的に追求したと言えるだろうか?オウムの信者たちは、特別に馬鹿で、思考回路がおかしくて、我々とは違う人種の人間たちだったのだろうか?

1995年の事件から10年余りたってからのノンフィクション作品には、事件後にやらなくてはならないことを自ら追い、また社会に問いかける。著者自分に、そして著者の親友であるサリン事件実行犯、豊田被告にも―――。

・・・

オウム真理教が出来上がり、一連の事件を起こし、事件自体を毛嫌いされるように裁かれる―――これが日本社会の縮小図なのだと著者は言う。自らと同じように夢を持って東大物理学科で学んでいた豊田被告は、彼自身の弱さに起因する重罪を指摘しながらも、「死刑にすべきではない。普通の人間であった彼が出家=拉致され、サリンを撒くに至った経緯をつぶさに追い、社会がその再発防止策を立てられるように、彼に語らせなければならない」と説く。

著者による追跡によって、本書中では、

「人間誰しも離れられない性欲を逆手にとって、その快楽を、表立っては否定しつつ、段階的に肯定して評価する「修行」システムで、「靜慮」なる名の下にマインドコントロールすれば、かなりの人間は出家させることが出来る。出家修行者を最終的に「悟り」に導くくとは、絶対服従のロボットに洗脳することだ。・・・」

というプロセスを、松本被告が行った様々なマインド・コントロール手法(対面時にも決して松本被告と目を合わせないという手法、ラジオや出版物などによる洗脳、など)とその脳内反応実験、薬物投与の事実と日本の戦時に見られた薬物効果(特攻隊の現実など)、オウム本拠地であった上九一色村の巧妙な立地条件、等を織り交ぜながら主張する。


著者・伊東乾は、東大物理学科でオウム真理教豊田被告と席を隣り合わせにして学んだ人物だ。物書きを生業にしている人ではないので、文章はわかりにくい。オウムのことを言いたいのか、豊田氏のことを言いたいのか、戦時日本と現代日本のことを言いたいのか、まとまりのない感は否めない。それでも、読みきった。実際にオウムの事件から目をそらしたいと思っていた自分を確認したことと、やはり著者の言うように「オウムはその信者に特別な出来事ではなく、社会の一部で発生したものだ」という主張に納得したからだ。

豊田氏は、物理学の中でも素粒子論を専攻し、修士論文を書いていた。村上春樹が小説で書いたように「応用物理学」なんかじゃない。この世の神秘に興味があり、ノーベル賞に近いロマンある世界に没頭したかっただけなんだ。そんな若者に、「文献レビュー」のみを修士論文のテーマとして指示した教授がいた。(大変重要ではあるが)何の創造も許されない作業をするなかで、息が詰まりそうだった。・・・
豊田氏が出家した=拉致された背景(著者による分析)は私にはリアリティーがあって、真面目で、この背景によって危ういステップを踏みそうになる学生がいてもおかしくはないな、と思った。そういう身近な危うさと、ナチスやルワンダ紛争、戦時日本などの歴史上の経験を引き出して説得するメディアコントロールの恐ろしさで、オウム事件を踏み込む。目新しくもないのかもしれない。でも、私には新鮮なところも多かった。

豊田被告の死刑阻止のための提出書類として作られ、出版に至ったもの。やっぱり、この文章で豊田氏が語り始めなくては、読者として、日本人としては不完全燃焼で気持ちが悪い。

パッチ・アダムス

2007-03-19 22:34:56 | Movie
 映像が持つ力は、当たり前だが「見たことの無いものを納得させる」というところにあると思う。主人公・パッチ・アダムスが見せる屈託のない笑顔は、なかなか人々が見ることの無い種類の、温かいものだった。その力の大きさに、彼は気づいた。自殺未遂後の精神病棟を出、医学部に入った30代後半のパッチの成し遂げたことの偉大さ―――昔よりもよくわかる気がしている。

 「Quolity Of Life」、通称QOLという言葉は、医学的専門用語ではなくなりつつあるようだ。「死は敵ではない、死を恐れるのではなく、生の質を高めるのがドクターの仕事なんだ」と彼は繰り返す。ひたすらに死を恐れ、回避しようとするより、その方が素敵な瞬間が蓄積できることは確かだと思う。そして「生の質を高める」ことは何も医師免許を持った人間の専売特許ではない。誰もが他人に与えることが出来るもの―――その事実を思い出させることが、この作品の狙いの一つかもしれない。

 意義を感じないものに全力投球することなんてない、意義を感じるものだけに全力を投じていれば、いつか道は開ける。実在するらしい主人公の生き方を観て、なぜかそんなことも思った。

キリング・フィールド

2007-03-11 08:55:18 | Movie
キリング・フィールドという映画は、おそらく過去に観たことがあった。ポルポト時代を迎えるカンボジアが舞台で、アメリカ人記者と、その通訳を務めたカンボジア人ジャーナリストを主人公にして物語が進む。

観たことがあった、というのは、カンボジア旅行中に、断片的にその映像が頭の中に浮かんできたときに、感じたことだ。「これ、観たことあるなぁ、大虐殺の悲劇とともに・・・」カンボジアに着いてからのことである。それほど衝撃的な絵だったのだ。

作品としては、私にはいまいちだった。完成度の問題ではなく、現実的にカンボジアで感じた違和感・・・うわべだけを楽しむ西洋人と、カンボジア人の精神的距離みたいなもの・・・がどうしてもぬぐえず、感情移入はできなかった。監督の意図なのかはわからないが、主人公のアメリカ人ジャーナリストが終始胡散臭く感じてしまった。

ジャーナリズムとはなにか。結局、「人のせい」を叫ぶだけなのか?というのはアメリカ人のシドニーを見ていて思ったこと。彼がアメリカ人だから、アメリカ軍がやったことを知るにつれて抱いた感想も混じってのことかもしれない。

「この国は長所をいっぱい持っていたのに、自ら短所を助長させてしまった!」

アメリカ大使館から出て行く外交官の吐き捨てた言葉。「自ら」だろうか?カンボジアに行けば、「アメリカ軍が」大地に残した地雷を目の当たりにするし、「反ベトナム」イデオロギーを作る元となった、かつてのフランス植民地支配を思わせる景色はあまりにも多い。

紛争地を映し出すドキュメンタリー番組を見て思うことは、どの土地もとてつもなく美しいということ。カンボジア然り、アフガニスタン然り。産業革命は、農耕の発展しない貧しい土地で生まれ、育ち、広がって・・・肥沃な大地を荒廃させる帝国主義を生んだ。その怨念が、今、純粋すぎる愛国主義を生み、戦いを生む。
もしこんなシナリオの世界だとしたら、世界はなんと淋しいことだろう。

ポルポト政権の崩壊から、まだ30年も経っていない。