ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

四日市萬古

2009-05-07 15:35:44 | Public
四日市は、萬古焼という地場産業がある。
四日市周辺でとれる土を使うとか、独自の技法とかが
色濃くあるわけではないため、
なぜここで萬古焼というものが栄えたのかよくわからなかった。

パラミタミュージアムの一室には、萬古焼のコレクション展示室があるが、
そこでは研究者の講演が流されていて、勉強になった。

四日市萬古は1829年、
信楽の作陶家と親交があった浄土宗唯宗寺の住職が開いた
海蔵庵窯が最初らしい。
信楽の人が寺を訪ねたときに、陶芸の話で盛り上がり、
その人が海蔵川の土手の土を取って「こんないい土なら、ここでやってもいい」
と言ったのだとか。
その頃、隣村くらいの朝日町(当時の小向村)では、
森有節の独特のカラフルな作風が人気になっていた。
それを海蔵庵窯の人たちがまねしたらしい。

当時、四日市には困窮者が大勢いた。
海蔵川と三滝川の間のデルタは水害が絶えず、
この頃大地震(安政の東海大地震?)もあったとか。
困窮者を救おうと、四日市の村役の山中忠左右衛門という人が
海蔵庵窯に習いに来て、自分で窯を開いて困窮者に技術を教えた。
その他、いろんな人が四日市に窯を開き始めた。
作った物は、定期航路のあった東北地方に売ったらしい。(ちょっと定かじゃない部分)
バイヤーの人が四日市の急須を東北に売り込みに行った。
「中に金が入ってるから、ずっと使って飲んでると体が良くなる。健康効果がある。
 ちょっと高いのはそういう意味」と言って。
欠けたりしたら買い取るからよろしく」となかなかそれらしく言う。
それで、生産だけでなく販売も栄え、産業が興ったらしいです。
生産より販売に「四日市の萬古」の特徴があったということか。
池田満寿夫の常設展目当てで行ったパラミタミュージアムだけど、
ちょっとしたおみやげをもらって帰ってきた。

小野英二(1972)『原点四日市公害10年の記録』

2009-05-06 07:46:26 | Book

なぜ四日市公害は起きたのか。四日市市に住んでいるから、
耳でこの話を聞く機会はある。
しかし、目で見る機会は少ない。
いくつかの本を手にとって、参考になったものは

四日市公害記録写真集編集委員会(1992)『四日市公害記録写真集』日本写真印刷
小野英二(1971)『原点四日市公害10年の記録』頸草書房

写真と、訴訟判決後の経過を含んだ年表については写真集、
そのほかは小野がまとめている。
小野英二は、当時の中日新聞四日市支局の記者で、
この本は地元活動家や学者と一緒にまとめたようだ。

【内容】
●なぜ四日市公害が起きたのか。
直接的な原因は、
①硫黄分の高い中東の原油をコンビナートが使用していた
②そのコンビナートが住宅地に非常に近接していた
 (だが、煙突はそれを考慮した高さではなかった)

間接的要因をあげるなら
③化学工場が労働集約型でなく資本集約型産業であった

ということだ。
ではなぜ、近接地にコンビナートが建設されたか。
戦後、それまでの繊維産業に代わって、政府は石油化学工業の発展で
日本の生計を立てていこうとした。
石油は、「世界のどこででも同じ価格と条件」で入手できる、
だから産油国でない日本でも、世界と戦える。
あと、冷戦が続く中で、燃料補給地として
同盟国アメリカに貢献できる。
このような背景で、石油化学工業の育成や、
それに関連して旧軍燃料廠を払い下げる際の
融資、税制上の優遇措置が作られた。
「エチレン系製品の国産化」を目指して。
四日市の場合、三菱グループがそれにのり、
昭和シェル石油と昭和四日市石油四日市事業所を設立。
三菱油化も隣接して建てた。
住宅地からの距離なんて考える必要のない
軍が作った施設だから、その跡地に建てられた
コンビナートも、不親切な場所に立地することになった。


●なぜ訴訟が起きたのか。
被害が、必ずしも訴訟となるわけではない。
「魚が臭い」と、築地の市場で四日市市磯津漁港の魚の値が
暴落したのが1960年。
9人の認定患者が、津地裁四日市支部に提訴したのが1967年。

政治的解決が出来なかった大きな要因は、
当時の平田佐矩市長が病死し、九鬼喜久男が市長に就任したことではないか。
それが1966年。

平田市長は、漁民らの訴えの後四日市市公害対策委員会を設立。
三重大医学部の教授らに調査をお願いしている。
1965年には、公害が原因と医師が認定した患者について
市が医療費を負担するという英断を下す。
迅速な対応とは言えないが、当時としては画期的だったと思う。
上記のように、少なくとも第一コンビナート建設のときは、
市の誘致ではなく国策に近いところで四日市での建設が決まったのだろう。
住民の反対もなかった(住民は、四日市が名古屋みたいになるだろうと喜んだ)。
訴訟に至る背景は、平田が心臓病で死亡し、
若手の九鬼が接戦の末に市長についてから作られた。

九鬼市長は、すでに窮地に追い込まれ、体力的にも経済的にも
救済を求めていた、そして漁民一揆もした磯津漁港の漁民らに
「今の日本があるのは化学のおかげ。人間ある程度の犠牲は必要や」
と話した。
市が、患者の救済や企業への糾弾に動くという望みはなくなった。
名古屋の東海労働弁護団らが「日本には法律がある」と訴訟を促す。
「民法709条、不法行為に対する損害賠償」と求めて提訴した。

なぜ政治が救えなかったか。
革新派は何をしていたのか。
そこらへんも書いてあったがちょっと読み飛ばしてしまった。
コンビナート企業の労働組合が弱かったこと
(資本集約的で相対的に労働者が少なく、給与も高くて政治闘争の姿勢が少なかった)
社会党系、共産党系が一枚岩ではなかったこと、
などがあった気がした。

【感想】

この本でそう明言しているわけではないが、
流れの中では、市長の交代は大きい。
結局、「公の害」は「公」でしか救えなかった。
公といっても、原因は民間企業6社だが、負の外部性のために
企業は「私の責任です」とは言わない。
そして、公に救ってもらえなかったから提訴した。

「公の害」に対し、私たち人間はどう対処していくのだろう。
たとえば、訴訟の起こせない鳥とか魚とか、森とかを、
人的被害が出る前に守るにはどうすればよいのか。
それらには民主主義も通用しない。
でも、そこに公の害が及べば、近い将来人間も必ず害を被る。
そこは人間の予見性と、自然を愛する心とでもいうべきものが
「自然のこと、環境のことは自分のこと」と
認識して、内部化していくしかないのか。
難しい。でも、最近は、内部化する制度を支持する土壌もあるかもしれない。

それと、行政、もしくは制度の仕組みとして、
「情報を開示させる」というのは必要不可欠な仕組みだ。
公害被害について、情報の非対称性はとてつもなく大きい。
四日市公害では、「不法行為の損害賠償」の請求として訴えた。
損害賠償の要件として
①故意過失
②権利侵害(違法性)
③因果関係
の証明が必要であるが、
四日市公害では①の故意過失も含め、認定されている。
すなわち、「企業は、健康被害を予見できた」と判断している。
一方、住民は考えもしなかった。
磯津漁港の漁民ですら、コンビナートが来れば人口が増え、
市場が大きくなって魚が売れる。こんな嬉しいことはないと
喜んだのだ。
情報公開をしないことに対する罰則は、もっともっと厳しくてもいいんじゃないか。
石原産業が、届け出をせずに「化学兵器禁止法」で定められた
危険物質「ホスゲン」を無届けで製造していた。
長期捜査の末に、有罪。しかし罰金は30万円だ。
罰則強化が経済を沈滞させるか、浄化設備などの開発が活発になるかは
経済産業省の腕の見せ所では。
「最大30万円の話。各社やっきになるほどのことだろうか」
と実は少し思っていた。
石原産業もそう思っていたとしたら・・・そして公害における情報公開の
重要性を鑑みれば、これは30万円の話ではない。

最後に、四日市公害訴訟の判決にある「公害事件における賠償責任の特質」を
記しておきます。

「公害事件における賠償責任の特徴として
 ①被害者と加害者の立場に互換性がない
 ②公害は付近の住民にとって回避不可能
 ③被害が広範囲で社会的影響が大きく、企業にとって賠償額が莫大になる
 ④加害行為が企業の利潤追求の過程でなされるのに対し、
  被害者である付近住民は、右企業の生産活動から直接えられる利益は存しない
 ⑤被害者の被害の平等性
 が挙げられる」

勝訴から38年がたとうとしている。
四日市公害の関係者が、公害の風化を阻止しようと動くのは当然だ。
市は、そして国は、どう対策してきたのだろう。
危険物使用、製造に対し細々と届け出をさせてはいるが、
それを生かす仕組み、取り組みはあるのだろうか。
メディアが、率先して勉強しなくてはいけない部分もあると思う。
・・・コンビナート誘致の際、メディアはどう反応していたのだろう。
科学的根拠に基づいた、建設の是非の論議はあったのだろうか。
40年以上前、ちょうど昔、年金制度を調べた頃か。
なんか、いい小説でもないものだろうか。