四日市は、萬古焼という地場産業がある。
四日市周辺でとれる土を使うとか、独自の技法とかが
色濃くあるわけではないため、
なぜここで萬古焼というものが栄えたのかよくわからなかった。
パラミタミュージアムの一室には、萬古焼のコレクション展示室があるが、
そこでは研究者の講演が流されていて、勉強になった。
四日市萬古は1829年、
信楽の作陶家と親交があった浄土宗唯宗寺の住職が開いた
海蔵庵窯が最初らしい。
信楽の人が寺を訪ねたときに、陶芸の話で盛り上がり、
その人が海蔵川の土手の土を取って「こんないい土なら、ここでやってもいい」
と言ったのだとか。
その頃、隣村くらいの朝日町(当時の小向村)では、
森有節の独特のカラフルな作風が人気になっていた。
それを海蔵庵窯の人たちがまねしたらしい。
当時、四日市には困窮者が大勢いた。
海蔵川と三滝川の間のデルタは水害が絶えず、
この頃大地震(安政の東海大地震?)もあったとか。
困窮者を救おうと、四日市の村役の山中忠左右衛門という人が
海蔵庵窯に習いに来て、自分で窯を開いて困窮者に技術を教えた。
その他、いろんな人が四日市に窯を開き始めた。
作った物は、定期航路のあった東北地方に売ったらしい。(ちょっと定かじゃない部分)
バイヤーの人が四日市の急須を東北に売り込みに行った。
「中に金が入ってるから、ずっと使って飲んでると体が良くなる。健康効果がある。
ちょっと高いのはそういう意味」と言って。
欠けたりしたら買い取るからよろしく」となかなかそれらしく言う。
それで、生産だけでなく販売も栄え、産業が興ったらしいです。
生産より販売に「四日市の萬古」の特徴があったということか。
池田満寿夫の常設展目当てで行ったパラミタミュージアムだけど、
ちょっとしたおみやげをもらって帰ってきた。
四日市周辺でとれる土を使うとか、独自の技法とかが
色濃くあるわけではないため、
なぜここで萬古焼というものが栄えたのかよくわからなかった。
パラミタミュージアムの一室には、萬古焼のコレクション展示室があるが、
そこでは研究者の講演が流されていて、勉強になった。
四日市萬古は1829年、
信楽の作陶家と親交があった浄土宗唯宗寺の住職が開いた
海蔵庵窯が最初らしい。
信楽の人が寺を訪ねたときに、陶芸の話で盛り上がり、
その人が海蔵川の土手の土を取って「こんないい土なら、ここでやってもいい」
と言ったのだとか。
その頃、隣村くらいの朝日町(当時の小向村)では、
森有節の独特のカラフルな作風が人気になっていた。
それを海蔵庵窯の人たちがまねしたらしい。
当時、四日市には困窮者が大勢いた。
海蔵川と三滝川の間のデルタは水害が絶えず、
この頃大地震(安政の東海大地震?)もあったとか。
困窮者を救おうと、四日市の村役の山中忠左右衛門という人が
海蔵庵窯に習いに来て、自分で窯を開いて困窮者に技術を教えた。
その他、いろんな人が四日市に窯を開き始めた。
作った物は、定期航路のあった東北地方に売ったらしい。(ちょっと定かじゃない部分)
バイヤーの人が四日市の急須を東北に売り込みに行った。
「中に金が入ってるから、ずっと使って飲んでると体が良くなる。健康効果がある。
ちょっと高いのはそういう意味」と言って。
欠けたりしたら買い取るからよろしく」となかなかそれらしく言う。
それで、生産だけでなく販売も栄え、産業が興ったらしいです。
生産より販売に「四日市の萬古」の特徴があったということか。
池田満寿夫の常設展目当てで行ったパラミタミュージアムだけど、
ちょっとしたおみやげをもらって帰ってきた。