金沢からやってきた、暑苦しい恰好の相方と、半袖シャツ、ビーチサンダルを
買うところから始まったホーチミン旅行。
書きたいことを書くにはいつも時間がかかるけど、
時間が経つと忘れてしまうというジレンマはありますが、
特に、今日手に取った『サイゴンの一番長い日』を読み終わってから
書きたい気もしますが、
おっくうになるのを恐れて書き始めます。
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・4月28日(土)
ベトナムは極度に祝日が少ないと思う。旧正月らへんの1週間弱の休み以外は、年に5日しかない。そのうち2日が連なる4月30日と5月1日が、今年は土日につながって「ゴールデンウィーク」に。2度目のホーチミンで、相方と落ち合う。
4月30日は「南部解放記念日」。すなわち、ベトナム戦争が終了した日。この日をホーチミンで過ごすことになった。大手タクシー会社の車両の上には小さな国旗がはためく。街角にもひらひら。
サイゴン陥落、ベトナム戦争終結、というとアメリカが負けた日、という感じがするがそうではない。1973年1月のパリ協定で、アメリカ軍は撤退を決め、北爆を停止、3月末には撤退した。サイゴンは、北ベトナムが南ベトナムを制圧した日である。
空港から市街地へのタクシーの中。空港のすぐ近くにマレーシア系百貨店パークソンが。空港からずっと「街」が続いている。ハノイは市街地から離れているのと、その間は水田、工業団地のほかに道の脇に見えるものはない。やるな、ホーチミン・・・。
ホテルにチェックインして夕方4時ごろ。ショッピング街の並ぶドンコイ通りのすぐ近く。「観光のメイン場所」としても、確かにハノイよりずっときれいだし、「Organized」な雰囲気。ビールもおいしい気がしてきた。
夕飯は、焼肉(@日本料理屋)に付き合ってもらう。そして、サイゴン川沿い、ベトナム戦争時のメディア基地となったマジェスティックホテルへ。屋上テラスのバーで一杯。暑さとうるささ、埃っぽさを避けようとと、人は空中へ文字通り「逃げる」。なんだか卑怯だなあと感じてしまうのは私だけだろうか。
・4月29日
ツアーバスでカオダイ教総本山と、ベトナム戦争中に200キロものトンネル(地下壕)を掘ったというクチへ。バスは、晴天の中田舎へまっしぐら。カンボジアに続く道を進む。カンボジア国境のタイニン省へ。
カオダイ教は、いわゆる新興宗教で、「新興宗教」という言葉からイメージする通り、とても怪しい。なんせ、(wikipdiaより)「孔子、老子、釈迦、観音菩薩、キリスト、ムハンマド、さらには李白、西遊記に登場する太上老君、ソクラテス、トルストイ、ヴィクトル・ユーゴーなどを聖人や使徒と仰ぐ」というのだから。代表する聖人が3人いて、掛けてあった表記を読むと中国の詩人と、ベトナム人の詩人と、ヴィクトル・ユーゴーだった。この信者は200万人いるといわれている。
「どこから金が出ているのか」。そう思わずにいられない豪華絢爛、悪趣味な建物。この地域は昔から貧しいらしい、という情報をもとに相方とたてた仮説は、貧しいゆえにすがるものが欲しくて、誰かが唱えた宗教が発達した。その後は「村八分にされないため」に、「信じ続けている」というより「信者を続けている」。事実関係は未確認。
なお、旅行中に読んでいた『ヴェトナムの歴史』によると、このカオダイ教には日本軍が絡んでいたことがある。日本軍が進駐し、フランスと保護権を交渉していたころ。当時から数百万の信者があり、フランス保護下の政権から抑圧を受けていた。これゆえか、もともとなのか、抗仏組織として政治色も濃い団体だったらしい。日本軍が目を付け、打倒フランスの下に協力関係を結んだという。
バスはクチトンネルへ。
戦跡公園として保存し、当時の南部:民衆兵士の服装や生活を紹介している。彼らが暮らしていたトンネルにも一部入ることができる。
公園を回る前に、ビデオを見る。クチがいかに平和的な場所だったか、果物もたくさんなり、そんな生活を戦争が壊したのだ、というところから始まる。民衆が上半身裸&サンダル履きで銃を構え、アメリカ兵を待ち伏せする様子、落とし穴を作り竹やりを刺すところなどが映される。当時、プロパガンダのために撮られた映像を使っているのかもしれない。その後、中腰よりも低い姿勢で10分ほど歩き続けなければ「部屋」と呼べる場所に出られないほどの狭い洞窟を体験した。穴の中は意外とひんやりしていたが、虫が出たりしたのではないか。何より疲れて仕方がない。煙が出るため、料理は夜しかしなかったそうだ。
なぜ、この平和的だったという町の住民が、武装し、しぶとく戦ったのか。
たとえば日本でも防空壕は掘られたが、それを拡充して住めるようにし、爆弾作りを学んで空のB29に向かって撃った・・・わけではない。
ベトナム素人の仮説だが、バスの両脇から見えた天然ゴムの農園がヒントかもしれない。ここらへんは、天然ゴム農園が多い。おそらく、フランス統治時代に多く作られたのだろう。そこでは、かなり過酷な労働条件で多くのベトナム人が駆り出され、搾取された。フランスの景気が悪くなるほど、植民地においては税率が上がり、労働は過酷さを増した。そこから労働条件の改善などを求めたり、また不合理な状況を作り出しているフランス政府へ抗ったりという「共産主義の土壌」ができたと述べる本があった。だとしたら、アメリカ軍に対するしぶとさ、粘り強さにもつながる気がする。帰ってきてから、そんなことを思った。
・4月30日
それにしても暑い。泊まった「サイゴンホテル」(星は2つ半くらい?)のエアコンが、ついてはいるけど効いてない。ただ、朝ご飯を食べる9階のレストランはグッド。
南ベトナムの大統領府に北ベトナムの戦車が入場し、「サイゴン解放」となったのは午前10時。それまでに当時の大統領府(公開されている)に入ろうと向かったら、チケット買うのに長い列!それも、ベトナム人特有の横入りあり。それでも、午前10時には入場できた。特にセレモニーや館内放送などもなく、それがかえって平和さを感じさせた。1975年から37年―――。75年以降にもカンボジア侵攻、中越戦争の歴史があるこの国は、本当に平和になってからそんなに長い時間は経ってないのだ。日々ハノイで暮らしていても、あまりにも若い人ばかりだし(平均年齢27.4歳!)、感じないのだけど、よく勉強しなくちゃいけない。
喫茶店でビールを飲み、本を読んだりと休憩してから戦争証跡博物館へ。2回目だが、目にする写真に再度驚く。悲惨さと、それが(日本と違って)50年も昔、というわけではない新しいものだということ。特に枯葉剤の影響を受けた子供、大人の写真は2000年を超えてからもある。前回来た時より、少しベトナムの地名がわかるので、ハノイの近くでも村が消えたり、たとえば先日アフガンで米兵が民家の16人を乱射した事件があったが、それに似た事件も起こっていたことを知った。
まさに「証跡」を並べることを意図した資料館だが、日本では何がそれにあたるのだろうか。広島、長崎、沖縄には、「証跡」博物館と言えるものがある。東京には?靖国神社の資料館くらいしか思いつかない。しかもあれは、結果と言うより経緯を、主観を交えてなぞっている印象だった。東京が、そのほかの大都市、地方都市、そして広島、長崎、沖縄が、後遺症なくきたわけがない。東南アジアの戦地で死んだ日本人、運営した収容所、捕虜たちの最後、シベリア抑留・・・。ちなみに、ベトナムには各地に戦争資料館がある。
博物館を後にして、またビールで休憩。Bietaxco Finansial Towerへのぼり、ワインを飲んで、フォーを食べて相方を送り出した。2人の旅は、ビールをよりおいしく飲めるのと、元気回復が早くなるのと、またいろんな議論が楽しい旅になる。私の長い長い旅に必要不可欠な3日間が終わりました。