ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

立花隆(1976)『田中角栄研究―金脈追及・執念の500日』

2011-06-29 11:45:39 | Book

ジャーナリズム論というか、日本のジャーナリズム界を回顧するものの中では、
立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」(文芸春秋1974年11月号)は
特別な意味で登場することが多い。
新聞がジャーナリズムの主役のような立ち位置だった時代に、
フリーライターだった彼が首相退陣にまで追い込むセンセーショナルな
論評を月刊誌に発表した。
新聞記者たちの落とし穴というか、徹底的に調べることの強さみたいなものを
痛感させる出来事だったということだと思う。

当時、田中角栄は総理大臣。金権政治をやっているという声が端々で聞こえる
ものの、「その金はどこから来ているのか」という素朴な疑問にはっきりと
応えるものがなかった。フリーで物書きをやっていた立花が、
チームを作って登記簿や政治資金報告書など、公になっているものを徹底的に
調べ、それを元に方々の関係者に取材してまとめた。
「新聞記者の首相担当その他、みな「話は聞いてた」というが、
 実際に誰も調べて明らかにしようとはしなかった」ものを、新聞記者ではない
彼が暴いた、というので、「取材して、書いてなんぼだ」「徹底的に調べれば
ここまで書ける」というお手本のように紹介されることが多い。
田中角栄は、これを元に国会などで追及され、2ヶ月ほど後に首相を辞職する。
ロッキード事件で逮捕されるのは2年後だ。

「研究」は、発表後にも続編が次々と出て、次第に金脈の事実は
広範囲にわたって明らかにされる。
読んだ後も、詳細には覚えていないほど複雑なルートをいくつも
お持ちだったようで、幽霊会社を自分の株名義人として使ったり
土地ころがしの受け手として使ったりしながら、1日の土地転売で
何億も儲けていたりする。
立花は、登記簿などで土地の所有関係が時系列でどのように変わったのか、といった
年表と、人間相関図をいくつもいくつも作ったそうだ。
印象的な図は、
「産業界に対する払い下げ国有地総面積」を、大蔵大臣別に比べたもの。
池田勇人、佐藤栄作などを経て田中は昭和37~40年に務めているのだが、
その間の払い下げ面積は突出している。
単年度で一番多かったのは370万坪(昭和39年)。
ちなみに、昭和41年の福田赳夫のときは40万坪ほど。
田中の前の水田三喜男のとき(昭和36年)は110万坪ほどだ。
土地の払い下げを交渉材料としたり、その土地を購入して高く売ったりと
考えてしまうよねーという「周辺の事実」は、週刊誌ならではの面白さかもしれない。

時事ネタで言えば、新潟の柏崎原発。
田中は現柏崎市が出身で、彼の作った幽霊会社が、
原発立地の前にその広大な土地を購入している。
それが、田中に仕えていた(その後越山会の幹部となる)刈羽村長の名義となり、
原発で土地が高額で買収されて、差額の利益分の多くが
田中の元に収められたという。(後半部分はネット上で集めた話だけど)。
原発立地の自治体に多額の補償金が入る「電源三法」を成立させたのも田中だ。

それにしても、取引は複雑なのに、幽霊会社の電話番号は田中の事務所になっていたりして、
抜けているところは抜けている。
だからこそ、立花隆たちもたどり着けた。
今、小沢一郎たちが裁判している話は、一応客観的事実が弱いために
当事者たちが言う言わないの争いになってしまっているが、
田中の場合はそこらへんが少し甘かったのかもしれない。
(それにしても、田中の話を読んでしまうと、小沢一郎だって
 絶対黒だろうなと思ってしまう。政治家の生態系として被せてみてしまう)

根気と執念、その前にある「なぜ田中はあんなに金が使えるのか、どこから来るのか」
という強い問いが、この仕事を形にした要素だと思う。
付け加えれば、文芸春秋を巻き込んだチーム力。
専従の、(といっても行き場を探すフリーターたちが多かったみたいだが)
スタッフによる膨大な量の資料収集が物事を動かしたのだと思う。
これも、間違いなく歴史に残っている「キャンペーン」のひとつだ。


本田靖春(2005)『我、拗ね者として生涯を閉ず』

2011-06-24 10:53:10 | Book
本田靖春という人を知っているだろうか。
「知らないわけないだろう」という人もいるだろうし、
「誰?」という人もいると思う。
私は、何を隠そう新聞記者の書いたものを毛嫌いしていたので、
就職するまで知らなかった。

元読売新聞社のエース記者で、「不当逮捕」「誘拐」などの
ノンフィクション作品で有名な人だ。
彼の本は、なんというか、事実とはこんなに面白いものかと思わせる。
それほどに、大量で詳細な事実を、つなぎ合わせて提示してくる。

580ページにもなった彼の自伝(『月刊現代』に連載、途中で死去)は、
朝鮮での出生や敗戦後の引き揚げ、家族の没落、大学時代から入社、
仕事やポリシー、読売社主の正力松太郎への嫌悪感、「新聞記者のサラリーマン化」
への憂い、そして有名な「黄色い血」キャンペーンの成り立ち、
読売退社のいきさつなどを書いている。

読み進める中で、この誰でも情報発信が出来る時代に、
新聞にしかできないことがまだあった、と思った。
それが「キャンペーン」だ。
彼は有名な「黄色い血」キャンペーンをやって、売血制度を廃止させ、
献血制度を世に定着させたと言われている。本では、「72本のキャンペーン記事を書いた」と。
「私は、記事の良し悪しを分けるのは、主観の優劣にかかっている、という
 考えの持ち主だったので、ばんばん主観を表に出した」。
彼の気力、記事の質はもちろん多大な影響力があったのだと思うが、
新聞の持つ「継続性」が、売血制度の廃止などの実効力を持たせたのだろう。
毎日発行され、少なくとも役所などでは毎日目にする。
これでもか、と事実を定期的にぶつけるのは、テレビやインターネットでは
性質上あまりそぐわない。
インターネットなどで、弱い立場の人であれ、声に出しやすくなり、
ネットワークを作って行動を大きくしやすくなった現代でも、
(「企画」の粋を出た)キャンペーンは他にはない力を持ちうるだろうと思った。
(ついでに書けば、読売新聞は1954年、「ついに太陽をとらえた」と
 題する原子力の大型企画をやっている。「原爆アレルギー」がある日本に、
 原子力発電の導入を促す目的だったといわれている)

「黄色い血」キャンペーンについて少し書いておこう。
当時は「献血制度」がほとんど行き渡っておらず、
代わりに「売血」が公然とあり、そのために貧民は血を売りまくって不健康になって、
売られた血も貧血気味なために真っ赤ではなく黄色っぽいものが多く、
またその注射針なども不衛生だった。
血清肝炎の蔓延もこの「悪い血」が原因のひとつとなっている―――
その実態を書きまくったものだった。
先進国で売血制度を取っているところはなく、当時の厚生省が「必要悪ですよ」
と言っていたものを、売血をなくさせて献血体制を整えるところまで動かしたと
言われる。
(彼は、自分自身がその職業的売血の人たちの中に入っていき、売血をする中で
肝炎にかかって、最後は肝ガン(や他のたくさんの病気)に犯されて亡くなる。)

さて、そんな本田氏も1971年に辞職し、ノンフィクション作家となる。
一番の理由を、正力の事業癖に犯されたふがいない社会部の現場に嫌気が
さしたため、というように書いている。
正力は「私がいちばん大切だと思っているのは、新聞発行で得た利益を
いろいろな事業を通じて読者に還元すること」と話したという。
読売ランドを拡大し、世にゴルフ文化を根付かせたいとも言った社主の元で、
来客や事業宣伝をときどき社会部に書かせる。
(こういう新聞がいかに有害かを知るには、現代の金沢に来て見ればよい。
 そびえ立つ本社を持ち、なんでもかんでも「後援」して、経済部を使っては
 多くの宣伝記事を書かせ、社会部記者を使っては行政におべっかを使ったり
 おどしたりして社の存在をPRする地元紙があり、シェアが6割とも7割とも言われる。 これがさまざまな弊害を生んでいると思う)

彼が活躍した新聞記者時代は、彼曰く「社会部が社会部であった最後の時代」と
何度も書いている。
それは読売内に限った話ではなく、どの新聞社でも感じていることなのかもしれない。
共通するであろう「社会部の壁」のようなものは、いくつも上げられる気がする。

結婚パーティーは山の中で

2011-06-22 13:02:44 | Private・雑感
ジーンズがまだ、スス臭い。
6月11日、キャンプ場での結婚披露パーティーから1週間半が経った。
今思い出しても、信じられないくらい楽しく、控えめに言っても
大成功の面白い集まりだった。
三重県菰野町(こものちょう)の山の中に、117人も集まってくれた。
間違いなく、人生最大のわがまま。
それでも、イワガキの網焼きや緑の中で飲むビールと、けっこう
おもてなしできたのでは、と自負もある。

■なぜキャンプ場に
ちょうど一年前ごろ、結婚式をどうしようか考え始めていた。
最初は、名古屋駅から歩いて15分ほどの、ノリタケのレストランにしようと
思っていた。
名古屋発、明治期からアメリカに進出した洋食器メーカーのノリタケ工場内にあり、
東京に多い私の友人たちも、観光がてら楽しめるんじゃないか。
一度、相方と食事をして、そこにほぼ決めかけていた。

ただ、ネックは、名古屋に結婚パーティーってめんどくさそう、ということ。
私自身、東京の結婚式に呼ばれては、午前6時ごろから支度して、化粧して、
なれないハイヒール履いて午前8時台の新幹線に乗る。
会場に着いてしまえば楽しいのだが、帰りも二次会までいるわけにはいかず、
せっせと帰る。千葉の実家に泊まろうとも、靴やら着替えやらを持っていくのは
重いからだ。
「名古屋に泊まってもらうのも、日帰りしてもらうのもちょっとなあ」と
思っていた。

「格安一泊つき」パーティーはどうだろう、ということで、思いついた
キャンプ場BBQ披露宴。ネットで見ると、いくつかそうやって売り出している
キャンプ場があった。ただし、中部にはなかったが。
どこか、手作りでできそうな、東京からアクセスのよいキャンプ場はないかな・・・
と思ってキャンプ場ガイドを開いてもよいところがなく。
当初から頭にあった、私の大好きな、山岳会の拠点でもある朝明渓谷しかない!と
落ち着きました。うまいこと、会のおじさんたちに乗り気になってもらい、
四日市のFM局で仕事する友人にも企画から手伝ってもらって、
1回の打ち合わせで出来ました。

■終わって
降水確率80%だったのが、一滴も降られなかったこと。
神様、とは言わないが、何かが、私たちを応援してくれているような
気になっても仕方ないというものです。
そして、垂れ幕を作ってくれたり、ケーキを用意してくれたり、
もちつきの準備から設営してくれた山のおじさんたち。
全部原価でBBQの材料を用意してくれ、夜食や朝食の心配もしてくれた
キャンプ場オーナー。
プログラムの企画から司会まで、無料でプロの仕事をしてくれたラジオ局に勤める
友人。
北は仙台(フェリーで)、南は宮崎(飛行機で)、多くは東京から、
辺鄙な山の中まで来てくれた大学や高校、仕事の友人たち。
多くの労力をみなさんが払ってくれたおかげで、
あの場所があったのだと思うと、自然と感慨深くなります。
「オープンな家庭でいる」という私たちの方針のスタートとして、
素晴らしい機会となったと思っています。
これから、どうぞよろしく。
あ、私たち写真は1枚も撮ってないので、お持ちの方メールして下さい☆

以下、備忘録として。

■プログラム
当日朝、金沢からキャンプ場へ。
12時半ごろに着。すでにおじ様方が設営完了。

15時にスタート。
・入場と簡単なスピーチ
・乾杯
・ケーキカット
 (これはサプライズでした!川の絵が描いてあるなんて。)
・いろんな方のあいさつ
 (その日の午前中に、メールで頼む有様・笑 ほとんど同世代の友人なので・・・)
・談笑
・もちつき
・我が父と弟の歌(栄光の架け橋、翼をください)
・上司の笛演奏
・山岳会の二人によるデュオ

昨年末に、山岳会の忘年会でもちつきをやり、
お祝い事ならもちつきでしょう!というノリに共感して、
パーティーでも入れた。
「一生付き合う」ということで、「一升」つきました。
その場できなこにまぶして食べた。おいしかったー。

■食事メニュー
・オードブルは、近くのホテルから取り寄せ
・イワガキ130個、トマトの差し入れ2箱
・名古屋の絨毯屋をやっているパキスタン人の二人による、
 タンドリーチキンとチャイ
・誰かが一匹だけ買ってきたうなぎの炭火焼
・入刀後のケーキ
・BBQでは、エビやイカ、焼きそばetc、お寿司も
・ビールはサーバーを借りてきて、117人で100リットル飲みました
・カクテルは、知り合いのプロ級アマバーテンダー。
 材料費のみで、素晴らしいメニューを出してくれました

■キャンプファイヤー
・あまり中身は考えていなかった・苦笑
・三線を弾き、彼が歌うことを決めたのは1週間前。
 本番の前々日と前日は、仕事後にカラオケに行きました
・そして、火を囲んでの2次会?3次会?
 寒さもなく、日本各地から持って来てくれたみなさんの差し入れのお酒を、
 酌み交わしました。たぶん・・・

Mさんのこと

2011-06-09 13:14:32 | Private・雑感

金沢に「笑って死ねる病院」がある、と四日市の知り合いの看護師に
聞いていた。調べてみたら、ドキュメンタリー番組になっており、
youtubeで(なぜか)観れた。
http://veohdownload.blog37.fc2.com/blog-entry-495.html

5月末に亡くなった、知り合いのおじいさんのことを思って涙が止まらなかった。
おじいさんといっても、62歳だったと思う。
最近の60代といえば「おじいさん」と言えない元気な人が多いが、
ずいぶん年老いた様相だった。
穏やかで、人を警戒しない九州出身のおっちゃん。
介護していた妻を殺め、執行猶予中だった。
亡くなる前の週に、四日市に行ったついでに家に寄って
少し話しをしていた。
一人暮らしだったから、もしかしたら私が最後に会って話した
人間かもしれない。
翌週に、毎週泊まりに来ている娘さんが、亡くなっているのを見つけた。
携帯の着信から、私に連絡してくれた。

心臓が悪かったので、「発作的なものかも」ということだった。
今年二月ごろに高熱を出し、右耳が聞こえなくなって、
歩くときもバランス感覚が変になっていた。
最後に会ったときには、一歩一歩がおぼつかないほど。
食事は作れるし、よろよろと身の回りのことはこなせる。
病院で薬ももらっている。
訪問リハビリとか利用すれば、少し体が楽になるんじゃないかなと
思って、四日市の知り合いのケアマネさんに相談してみようと、
考えていた矢先に訃報を聞いた。

拘置所から出てからは、生活保護を受けていた。
最初は「仕事、どうですか?見つかりました?」
という話を意識的にしていた。でも建設作業関係の仕事はなかった。
肝臓が悪く、毎週点滴に通っていて、心臓も悪いということになった。
これでは仕事もだめ。
気休めでも、前を向いてもらうにはどういう言葉をかければいいのか
分からなかった。いつも、庭の野菜作りの話や、病院の話などをぽつぽつした。
娘さんは市内でそのだんなさんと暮らしていた。
仲がいいでも悪いでもない風だった。
この家では、息子さんが高校生の時に自殺している。
思い出話を聞くことも、家族の話をするのも、少しためらわれた。

「やり残したこと、今やりたいことはないんですか?」
と、聞いてあげればよかった。ドキュメンタリーを観ながら思った。
なんていうか、まさか亡くなるとは思わなかった。
食べたいものとか、行きたいところとか。
生きる欲求みたいなものが、少しでも刺激されるような話が
できればよかった。

死ぬときは「ぴんぴんころり」といきたいが、なかなかいけないのが
現実の数字だ、という話を在宅医療をする医師に聞いたことがある。
ぴんぴんころりと、本当に行きたいのだろうが。
死期を悟り、準備するのは怖いことだと思うが、
できることなら覚悟するほうを選びたい。残される人も、覚悟したいのではないか。