神谷美恵子の本を続けて読んでいる。『生きがいについて』が有名なようで、私もそれを先に読ん
だが、続いて読んだ『人間をみつめて』の方が導入としてよいと思う。不自由のなさそうな家に生
まれたが、結核になって療養し、ハンセン病患者と出会い、留学中に意を決して哲学から医学へ方
向を変え、精神科医になり、結婚や子育てをしながらハンセン病の国立療養所へ通い、またガンや
狭心症を自身が煩いながら診察や思索、書き物などをしてきた人生。この本では、人生のところど
ころで書いた 文章から、自伝的な要素や哲学的な示唆を読み取れる。
心地よいのは、ハンセン病患者で、なおかつ精神疾患を抱える人の診察に長く携わる彼女が、精神
疾患患者と自分自身をとても連続的に考えていて、上から目線がなく、医師としての冷静な診断が
書かれる部分ももちろんがあるが、それが人間総体の抱えるものの一部として出てきている、とい
う目線で感じられているところだ。なので、自分が関わることのある精神疾患のある人に読んでも
らいたい、彼らと接するときにこう考えればよいのか、と思う部分もあれば、自分のこととして、
自分の精神や肉体をこういう風に捉えればよいのか、と考えさせられる部分もあった。
例えば、人間の古い脳、新しい脳、という解説のところ。古い脳とは、人間の身体を維持する自律神経の部分で、絶えず心臓や血液、分泌物で身体機能を続けさせるための指令を飛ばす。動物性の部分、などと著者は書いている。新しい脳は、人間ならではの思索や考え方、とらえ方などを作る部分。前頭葉に代表去れ、自発性、社会性、倫理性などを司る。
そして、「過労や睡眠不足、対人関係のもつれや愛する人の死など、何か内外の減員でこの新しい脳の統制力が弱ってしまうと、古い脳から発動される衝動的・非合理的なものがあふれ出てきて、心全体を混乱におとしいれてしまう。これはちょうど私たちが夢みている時の状態に似ている。フランスの精神医学者エーは、精神病者のことを「醒めて夢みる人」と表現した」。
私が関わる数少ない精神疾患の人をみても、この「夢みる人」という言い方は理解を助けると思う。自分の夢が脈絡無く、極端で、それをおかしいと思う感覚がなくなっているように、精神疾患の陽性期もそういう趣がある。
このほかに書き留めておきたい概念。それは本書やこの著者全体を貫く、「人間は、そもそも自分からこの世に生まれてきたわけでもなく、いわば『存在させられたもの』にすぎない。それはちょうど、花やけものや天体とまったく同じように『存在させられている』にすぎないのだから、究極的には『存在させたもの』の前に、草木や星野ように、素直に存在するほかはないと思う」という受け身の姿勢。これから、赤ん坊というひとつの命を産もうとする私には考えさせられる。
そして、そこからくる、人間が生きるために必要なもの。「人間というものは、人間を越えたものが自分と世界とを支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、1日も安心して生きていけるはずはなく、真のよろこび、真の愛も知り得ないものなのだ」。この、根本的な信頼感は、先に書いた「新しい脳」の部分で疑いをかけたり、失ったりしやすい。これを反映して、著者も「精薄児たちは、こうした人生への信頼感をおのずから身につけている存在であって、わたしたちの心に郷愁のようなものをよびおこさずにはおかない」と書いている。私は、幼い子どもも、これに当てはまると思う。根本的な信頼感を持つ、はかなく美しい存在。私が好きな、松任谷由実の「やさしさに包まれたなら」にある歌詞も同じことを歌っている。「ちいさいころは、神様がいて、毎日夢を叶えてくれた」
一方で、この新しい脳が与えた「考えることの楽しさ」、人間のみが持つ「抽象化する力」を楽しむべし、と説くところもある。苦しめられる存在ではあるが、精神の穏やかさだけが人生の目的では無く、苦しみながらも考え方ひとつでいかようにも精神面を昇華できる存在として、人間を書いている。
もし、この内容を子育てに生かすならば、子どもには根本的な信頼感と、抽象化する思考力を育てられるように努めたい。それだけでよいのかもしれない、と思う。そして自分の人生に照らすなら、流されることも肯定しながら、考えることをやめず、そのために必要な時間やプロセスをしっかり捻出しなければいけない。
久しぶりに夫のパソコンを出してきて長々と書いて、もう書きすぎているのでこれくらいで。本書の最後に日記や書簡の記録がある。それを読んで読了なので、私も美しい手紙が書けるようになりたい、と思いながら本を閉じた。