昨夜は、サングラハ教育心理研究所が主催される「論理療法4回講座」の後の交流会で、京都からご参加のお坊様から、「ベジタリアンの友人に何故肉食はいけないのかと聞いても、ピンとくる答えが求められないのだが、マクロビオティックを実践している松見さんはどうお考えか?」という問いを頂きました。
それなりにお応え出来たのかなと思いますが、改めて考えてみました。
解りやすい話として、ここ1、2年、我が家でも実践している「出汁」を例に考察してみたいと思います。
以下、少し長くなりますが、お時間があればお読みくださいませ。

(写真は、昨日開催いたしました「さぬきオーガニックマルシェ」にてご提供した玄米汁ビーフンのスープをうつしたものです。蔵囲いの昆布、原木干し椎茸、焼きアゴ、イリコを使用しています)
マクロビオティックなのに?って言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「出汁」を考えて、考えて、考え尽すと、植物性の精進出汁にこだわらず、動物性の鰹も、イリコも、アゴも、そして鶏ガラさえも必要になってきます。そこにはちゃんとマクロビオティックの思想がしっかりと息づき、「身土不二」、「一物全体」、「陰陽調和」といった自然の理が根づいています。
そして、イノチある自然の恵みから抽出した珠玉のエキスは、日本の文化そのものをあらわし、失われ続けてきた大切な「食」をもう一度私たちの手に取り戻すための一滴となり一流となるものと思う、今日この頃です。
相反する性格を持った植物と動物の関係性は実に豊かで、常に相補の歩み寄りを成し遂げ、ともにこの地球に存在しています。元は、地球が太陽の惑星であり、太陽光と言う未曽有のエネルギーに支えられ、植物がこれを受けて自立型生命体を確立したところから排泄物として酸素を大量に増産し、非自立型生命体の動物がそれらの恩恵により誕生し、また死をもって有機物となり植物にめぐっていくという循環の関係が確立されたのです。
動物となる生命体は植物の進化を追いかけて多種多様な生き様を遂げながら人間という高度な生命体に発達しました。この発達段階で私たちは私たちそのものの核のなかに動物でありながら植物であるという、動植物の相補的関係の縮図を小惑星として持っています。
動物の原始の姿である口から肛門というミミズのような生命は、人間の体の中にも内臓され、太古の姿を残し、形態学では「内臓系」と言われるいわゆる口から肛門までの内臓をあらわし、それは植物性器官と呼ばれ循環系を中心とした吸収―循環―排泄の植物的機能を担うものです。進化の過程でこの無脊椎動物が脊椎を持ち、口から肛門をガードするように機能されたのが「体壁系」と呼ばれる感覚―神経―運動を担う動物性器官で神経系が中心となり、この二重性により私たちの身体は成り立っています。動物でありながら植物の生き方をも持つ所以です。
つまり、マクロビオティックでは一般的に動物性排除のような定義を正としている風潮がありますが、身体の二重性から見えるのは、実は植物性器官である内臓は動物性をも求めうるということです。
では、どんなときに?
それは、飢餓のときです。
通常は、動物である私たちは植物を求めるのが順当な行為となりますが、植物は動物の死後の有機体を摂り入れた動物の化身でもあるわけです。大地は常に動物の死がもたらす有機物と無機物であるミネラルにあふれ、それを摂り入れた植物だけで十分、生きていけました。しかし、いよいよ植物が無くなった飢餓状態に陥るとき、動物性のものをも共食いし、命につなげる行動を取らざるを得ないのです。もちろん、共食いによる動物的同系統である神経の破壊を防ぐため、できるだけ遠い血統を選択するわけです。
文明の発展により、狩猟文化から農耕文化へと生活様式を発達させ、飢餓から少しでも免れるように私たち人間は智慧を働かせてきました。
それでも天災などの避けては通れない自然の中で、ことあるときの備えとして、動物性のものも多少は取り入れてきたのです。
そして、現代。
残念なことにこの現代においては、人類史上最大の飢餓状態となってしまいました。
農耕文化は、工業化され、農薬や化学肥料にまみれ、植物に含まれるミネラルなどの栄養成分は劣化をたどり、植物だけを頼りに生きていくことができない状態にまで来ています。
ミネラル不足による様々な心身の病気の蔓延が物語ります。
また、戦後、とくに日本において、欧米化された食文化に現を抜かし、飽食に飽食を重ねた結果、生命力を落としているのが実態です。
私たち人類の歴史は飢餓との戦いであり、飢餓を乗り越える力はついていても、飽食への耐性はほとんどないといって過言ではありません。事実(臨床)が表しています。
進化に近い血統の動物性摂取を頻繁に行ってきた私たちは、体壁系のシンボルである脳の働きが低次元となり、判断力の低下を招くようになりました。
現を抜かすとは、「ある事に夢中になり、心を奪われる」状態のことを言いますがまさに「心を奪われる」→内臓系のシンボルであるココロを失うことであり、植物性機能の低下をも招き限りなくアニマル化(野獣)になっていくということです。
さらに、飽食と利便化にともない、精製度の高い砂糖や塩、化学調味料、添加物の普及なども、心身の不調を加速しています。
現実に起きている社会性の崩壊はまさに食源性シンドロームといえるでしょう。
マクロビオティック的な発想では、ならば主食である未精製穀類や植物をたくさん摂り入れる、ということになるのかもしれませんが、環境悪化により土壌が疲弊し、植物があまりにも劣化しすぎていてその役目を担えないことを認識しなくてはなりません。
植物性機能である内蔵系は相補の関係から相反にある陽性エネルギー(ミネラル)を必要とするわけで、畑の植物に望めない分を、海藻や進化の阻害の危険性の少ない魚からせいぜい鶏までの範囲の遠くの親類に頼らざる得ないのではないかと考えます。
料理研究家、辰巳芳子さんの御本で「命のスープ」として多くの方に知っていただくことになった「玄米スープ」も食養の世界で受け継がれてきた「イノチの素」となるものです。
私たちが生命の条件として持っている「細胞被膜」である他者との区別を通り越して、植物が、あるいは動物が、個のイノチに成変わり、イノチの鼓動を鳴らし続けてくれるイノチの連鎖の本質は、「生きる」であり、その言葉の思念は、イをキル(命を斬る、伐る、殺る、kill、そして着る)であり、イキをルする(息をスル)、つまり生き物たちの営みそのものなのです。生と死の調和です。
これだけインスタント化された食のありさまに、多くの方が疑問を持ち、不安を感じるからこそ、あえて手間暇のかかる「命のスープ」は大きなムーブメントになったのだと思います。
香川県三豊郡にある仁尾小学校では、学校給食にいりこやあごの粉末をお汁もおかずにも使用する取り組みを実践しています。驚くことに、子どもたちの体温が上がり、授業態度や成績もよくなってきたという結果をたたきだしています。さらに、夏休みや冬休みなどの長期の休暇になると学校給食を食べない期間に体温は低下し、始業後、体温が上がるというデータが出てきました。これは、いかに家庭における食事内容が子どもたちの育成を阻害しているかということが浮き彫りになったのです。
家庭の手作りの食事が、子どもの成長に役立っていないのはなぜなのでしょう?
女性の社会進出なども手伝い忙しい主婦。主婦のために次々と開発される加工食品や、インスタント製品、お惣菜、各種ラインナップのドレッシングやソースなどの調味料。ぜひ、食品の裏側を見てください。カタカナが並ぶ原材料は、家族の健康に役立っているでしょうか?
普通だと思っているライフスタイルを何処からか見直して、少しのことで、うんとイノチが輝くとしたら素敵ではないでしょうか?
その扉は「出汁」にあるかもしれません。
動物性のものを限りなくカラダに負担なく頂くための、日本の出汁。
旨味や甘味、ふくよかな香り、奥深い味・・・。
あえて、四足動物や鶏などではなく、進化の上では遠い存在の魚を使います。
それも、頭からしっぽまで一物全体で頂ける小魚です。
生臭さは炙ることで香ばしくします。
本当においしい・・・カラダが喜びます。
それは、きっと、私のカラダがミネラルを欲しているからでしょう。
あなたのカラダはいかがですか?
さて、さて、それでもマクロビオティックの食事法だから「精進出汁」でなければと思われますか?
それとも時には動物性のものに助けてもらうことも必要になるということが「自然の摂理」だということ、おわかりいただけたでしょうか?
余談ですが、マクロビオティックが楽しいなぁって思うのは、
こうやって、いろいろ学んだことをつなぎ合わせて、こうかな? って実践してみて、結果を感じて、
それを何度もくりかえして、いよいよ発見することです。
でも、この発見は、またいつか覆されることもあるのが面白いですね。
ぜひ、あなたも、いろいろ考えてあなたのマクロビオティックを深めていってくださいね。
それなりにお応え出来たのかなと思いますが、改めて考えてみました。
解りやすい話として、ここ1、2年、我が家でも実践している「出汁」を例に考察してみたいと思います。
以下、少し長くなりますが、お時間があればお読みくださいませ。

(写真は、昨日開催いたしました「さぬきオーガニックマルシェ」にてご提供した玄米汁ビーフンのスープをうつしたものです。蔵囲いの昆布、原木干し椎茸、焼きアゴ、イリコを使用しています)
マクロビオティックなのに?って言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「出汁」を考えて、考えて、考え尽すと、植物性の精進出汁にこだわらず、動物性の鰹も、イリコも、アゴも、そして鶏ガラさえも必要になってきます。そこにはちゃんとマクロビオティックの思想がしっかりと息づき、「身土不二」、「一物全体」、「陰陽調和」といった自然の理が根づいています。
そして、イノチある自然の恵みから抽出した珠玉のエキスは、日本の文化そのものをあらわし、失われ続けてきた大切な「食」をもう一度私たちの手に取り戻すための一滴となり一流となるものと思う、今日この頃です。
相反する性格を持った植物と動物の関係性は実に豊かで、常に相補の歩み寄りを成し遂げ、ともにこの地球に存在しています。元は、地球が太陽の惑星であり、太陽光と言う未曽有のエネルギーに支えられ、植物がこれを受けて自立型生命体を確立したところから排泄物として酸素を大量に増産し、非自立型生命体の動物がそれらの恩恵により誕生し、また死をもって有機物となり植物にめぐっていくという循環の関係が確立されたのです。
動物となる生命体は植物の進化を追いかけて多種多様な生き様を遂げながら人間という高度な生命体に発達しました。この発達段階で私たちは私たちそのものの核のなかに動物でありながら植物であるという、動植物の相補的関係の縮図を小惑星として持っています。
動物の原始の姿である口から肛門というミミズのような生命は、人間の体の中にも内臓され、太古の姿を残し、形態学では「内臓系」と言われるいわゆる口から肛門までの内臓をあらわし、それは植物性器官と呼ばれ循環系を中心とした吸収―循環―排泄の植物的機能を担うものです。進化の過程でこの無脊椎動物が脊椎を持ち、口から肛門をガードするように機能されたのが「体壁系」と呼ばれる感覚―神経―運動を担う動物性器官で神経系が中心となり、この二重性により私たちの身体は成り立っています。動物でありながら植物の生き方をも持つ所以です。
つまり、マクロビオティックでは一般的に動物性排除のような定義を正としている風潮がありますが、身体の二重性から見えるのは、実は植物性器官である内臓は動物性をも求めうるということです。
では、どんなときに?
それは、飢餓のときです。
通常は、動物である私たちは植物を求めるのが順当な行為となりますが、植物は動物の死後の有機体を摂り入れた動物の化身でもあるわけです。大地は常に動物の死がもたらす有機物と無機物であるミネラルにあふれ、それを摂り入れた植物だけで十分、生きていけました。しかし、いよいよ植物が無くなった飢餓状態に陥るとき、動物性のものをも共食いし、命につなげる行動を取らざるを得ないのです。もちろん、共食いによる動物的同系統である神経の破壊を防ぐため、できるだけ遠い血統を選択するわけです。
文明の発展により、狩猟文化から農耕文化へと生活様式を発達させ、飢餓から少しでも免れるように私たち人間は智慧を働かせてきました。
それでも天災などの避けては通れない自然の中で、ことあるときの備えとして、動物性のものも多少は取り入れてきたのです。
そして、現代。
残念なことにこの現代においては、人類史上最大の飢餓状態となってしまいました。
農耕文化は、工業化され、農薬や化学肥料にまみれ、植物に含まれるミネラルなどの栄養成分は劣化をたどり、植物だけを頼りに生きていくことができない状態にまで来ています。
ミネラル不足による様々な心身の病気の蔓延が物語ります。
また、戦後、とくに日本において、欧米化された食文化に現を抜かし、飽食に飽食を重ねた結果、生命力を落としているのが実態です。
私たち人類の歴史は飢餓との戦いであり、飢餓を乗り越える力はついていても、飽食への耐性はほとんどないといって過言ではありません。事実(臨床)が表しています。
進化に近い血統の動物性摂取を頻繁に行ってきた私たちは、体壁系のシンボルである脳の働きが低次元となり、判断力の低下を招くようになりました。
現を抜かすとは、「ある事に夢中になり、心を奪われる」状態のことを言いますがまさに「心を奪われる」→内臓系のシンボルであるココロを失うことであり、植物性機能の低下をも招き限りなくアニマル化(野獣)になっていくということです。
さらに、飽食と利便化にともない、精製度の高い砂糖や塩、化学調味料、添加物の普及なども、心身の不調を加速しています。
現実に起きている社会性の崩壊はまさに食源性シンドロームといえるでしょう。
マクロビオティック的な発想では、ならば主食である未精製穀類や植物をたくさん摂り入れる、ということになるのかもしれませんが、環境悪化により土壌が疲弊し、植物があまりにも劣化しすぎていてその役目を担えないことを認識しなくてはなりません。
植物性機能である内蔵系は相補の関係から相反にある陽性エネルギー(ミネラル)を必要とするわけで、畑の植物に望めない分を、海藻や進化の阻害の危険性の少ない魚からせいぜい鶏までの範囲の遠くの親類に頼らざる得ないのではないかと考えます。
料理研究家、辰巳芳子さんの御本で「命のスープ」として多くの方に知っていただくことになった「玄米スープ」も食養の世界で受け継がれてきた「イノチの素」となるものです。
私たちが生命の条件として持っている「細胞被膜」である他者との区別を通り越して、植物が、あるいは動物が、個のイノチに成変わり、イノチの鼓動を鳴らし続けてくれるイノチの連鎖の本質は、「生きる」であり、その言葉の思念は、イをキル(命を斬る、伐る、殺る、kill、そして着る)であり、イキをルする(息をスル)、つまり生き物たちの営みそのものなのです。生と死の調和です。
これだけインスタント化された食のありさまに、多くの方が疑問を持ち、不安を感じるからこそ、あえて手間暇のかかる「命のスープ」は大きなムーブメントになったのだと思います。
香川県三豊郡にある仁尾小学校では、学校給食にいりこやあごの粉末をお汁もおかずにも使用する取り組みを実践しています。驚くことに、子どもたちの体温が上がり、授業態度や成績もよくなってきたという結果をたたきだしています。さらに、夏休みや冬休みなどの長期の休暇になると学校給食を食べない期間に体温は低下し、始業後、体温が上がるというデータが出てきました。これは、いかに家庭における食事内容が子どもたちの育成を阻害しているかということが浮き彫りになったのです。
家庭の手作りの食事が、子どもの成長に役立っていないのはなぜなのでしょう?
女性の社会進出なども手伝い忙しい主婦。主婦のために次々と開発される加工食品や、インスタント製品、お惣菜、各種ラインナップのドレッシングやソースなどの調味料。ぜひ、食品の裏側を見てください。カタカナが並ぶ原材料は、家族の健康に役立っているでしょうか?
普通だと思っているライフスタイルを何処からか見直して、少しのことで、うんとイノチが輝くとしたら素敵ではないでしょうか?
その扉は「出汁」にあるかもしれません。
動物性のものを限りなくカラダに負担なく頂くための、日本の出汁。
旨味や甘味、ふくよかな香り、奥深い味・・・。
あえて、四足動物や鶏などではなく、進化の上では遠い存在の魚を使います。
それも、頭からしっぽまで一物全体で頂ける小魚です。
生臭さは炙ることで香ばしくします。
本当においしい・・・カラダが喜びます。
それは、きっと、私のカラダがミネラルを欲しているからでしょう。
あなたのカラダはいかがですか?
さて、さて、それでもマクロビオティックの食事法だから「精進出汁」でなければと思われますか?
それとも時には動物性のものに助けてもらうことも必要になるということが「自然の摂理」だということ、おわかりいただけたでしょうか?
余談ですが、マクロビオティックが楽しいなぁって思うのは、
こうやって、いろいろ学んだことをつなぎ合わせて、こうかな? って実践してみて、結果を感じて、
それを何度もくりかえして、いよいよ発見することです。
でも、この発見は、またいつか覆されることもあるのが面白いですね。
ぜひ、あなたも、いろいろ考えてあなたのマクロビオティックを深めていってくださいね。