今日、叔父の訃報が届きました。
主人の母の妹のつれあいで、とてもハンサムで写真が好きな粋な方でした。
今日が通夜で、明日が告別式となります。
叔母はもう数年前に亡くなっており、息子である主人のいとこは東京暮らしで、近年はお一人で暮らしておられました。年齢もあって、少しずつ枯れて行かれた感じではありますが、新年のご挨拶に行こうかという矢先のことで、最期をお送りできなかったことが悔やまれます。
主人の母は、私が松見に嫁いだ時にはもう88歳の高齢で、8歳になる息子もいましたので、私の身内からは介護と子育てに行くようなもんだから、苦労するのは目に見えているのに、そんなところに嫁がなくてもいいと心配される中、生活が始まりました。
母に一番最初に教えられたのは、トイレ掃除でした。
この時すでに、少しずつ斑に認知が始まっていたのでしょう、39歳の私に、まるで子どもを相手にするように手とり足とりトイレの掃除の仕方を教えたのでした。
もちろん私は、当たり前に掃除の仕方は身につけておりましたが、母の教えを一つ一つ聴いたあの日を忘れません。
おかげさまで88歳の母と39歳の私は、お互いにいい年齢になっていましたので、嫁姑の何とかは、何もなく、お母さんではなくおばあちゃんと呼ばせてもらい、おばあちゃんが、逝くまでの8年間を介護させていただきました。
初めのうちは、認知も斑でしたし、身の回りのことはある程度は出来ておりましたが、86歳で歯医者の現役(最期数年は診療室で日向ぼっこ状態だったそうですが)を退き、88歳のときには、することがないので毎日、寝て暮らすという状態でした。そして、間もなく要介護となり、介護度5を受けるようになりました。
主人と結婚する折に、私は不器用だから仕事と家庭の両立は出来ないから専業主婦ならとの約束で嫁いだのですが、すぐに患者さまの食事の指導をするべく、台所は料理教室となってしまい、介護と子育てと、家事と仕事に追いかけられるめまぐるしい日々となりました。
息子である兄は千葉におり兄夫婦に介護を分担してもらえることもなく、主人も仕事、テニス、会合と、おばあちゃんの介護はすべて私任せで、正直、腹の立つ数年間でした。
おむつの着替えはとくに辛く、お風呂に入れるのも私より大きな母を抱えて途方に暮れることもたくさんありました。そんな時にいつも助けてくれたのは息子で、小学校のころから、僕がするよって手を取って誘導してくれたり、思春期の頃に、おばあちゃんのおむつ替えも嫌がらずにしてくれ、唯一、心が休まる時間でした。
兄や主人には、実の親なのに、どうして面倒を見ないのか本当に悲しく思ったものです。兄嫁にも、表面的には繕ってはいましたが、内心はもやもやしながら、そういう人だからと自分に言い聞かせ、おばあちゃんの介護に務めました。もちろん、家の後を継いだ主人は金銭的な援助はしてきましたが、男故、仕事が忙しいといいわけするばかりで、いよいよ、おばあちゃんが亡くなる2年くらい前に、私は大爆発。血のつながったものが誰も見ないで、どうして血のつながりもない私にすべてを押しつけるのかと怒りにまかせて主人を猛攻撃しました。
おかげで、その日から主人は本当に一生懸命、おばあちゃんの面倒をみてくれるようになり、そういう意味では、おばあちゃんを亡くして、思い残すことのない日々を送れたと思います。
おばあちゃんが亡くなって親族が集まった折に、気落ちしている私をみて、件の叔父が「千奈美さん、あんたが介護してくれたんを、ワシらはちゃんと見とったけんな。あんたがおらんかったら姉さんは気の毒になるとこやった。ありがとなぁ」と言ってくれた時、あ~、辛かったけどちゃんと介護できてよかったぁって、それまでの骨折りのことがす~っと体から記憶が抜けていくのを感じました。
叔父も叔母も、おばあちゃんが健在な折から、いつも気にかけてくれ、優しくしてくれました。
その叔母が亡くなり、ついに叔父も昨日天国に召されました。
寂しい思いでいっぱいです。
今夜は、主人とともに、お別れに参ります。
明日、告別式となり、予定しておりました料理教室を直前ではありますが、キャンセルさせていただくことにいたしました。ご無理を申しあげて大変申し訳ございませんでした。
振替の日程は1月31日(金)か2月14日(金)を予定しております。ご希望の多い日を明日の振替とさせていただきますことを重ねてお詫び申し上げます。
2012年12月に開催された、叔父、アマチュア写真家の高橋徳治の個展の記事を貼り付けて、ここにご冥福を祈りたいと思います。叔父さん、ありがとうございました。
主人の母の妹のつれあいで、とてもハンサムで写真が好きな粋な方でした。
今日が通夜で、明日が告別式となります。
叔母はもう数年前に亡くなっており、息子である主人のいとこは東京暮らしで、近年はお一人で暮らしておられました。年齢もあって、少しずつ枯れて行かれた感じではありますが、新年のご挨拶に行こうかという矢先のことで、最期をお送りできなかったことが悔やまれます。
主人の母は、私が松見に嫁いだ時にはもう88歳の高齢で、8歳になる息子もいましたので、私の身内からは介護と子育てに行くようなもんだから、苦労するのは目に見えているのに、そんなところに嫁がなくてもいいと心配される中、生活が始まりました。
母に一番最初に教えられたのは、トイレ掃除でした。
この時すでに、少しずつ斑に認知が始まっていたのでしょう、39歳の私に、まるで子どもを相手にするように手とり足とりトイレの掃除の仕方を教えたのでした。
もちろん私は、当たり前に掃除の仕方は身につけておりましたが、母の教えを一つ一つ聴いたあの日を忘れません。
おかげさまで88歳の母と39歳の私は、お互いにいい年齢になっていましたので、嫁姑の何とかは、何もなく、お母さんではなくおばあちゃんと呼ばせてもらい、おばあちゃんが、逝くまでの8年間を介護させていただきました。
初めのうちは、認知も斑でしたし、身の回りのことはある程度は出来ておりましたが、86歳で歯医者の現役(最期数年は診療室で日向ぼっこ状態だったそうですが)を退き、88歳のときには、することがないので毎日、寝て暮らすという状態でした。そして、間もなく要介護となり、介護度5を受けるようになりました。
主人と結婚する折に、私は不器用だから仕事と家庭の両立は出来ないから専業主婦ならとの約束で嫁いだのですが、すぐに患者さまの食事の指導をするべく、台所は料理教室となってしまい、介護と子育てと、家事と仕事に追いかけられるめまぐるしい日々となりました。
息子である兄は千葉におり兄夫婦に介護を分担してもらえることもなく、主人も仕事、テニス、会合と、おばあちゃんの介護はすべて私任せで、正直、腹の立つ数年間でした。
おむつの着替えはとくに辛く、お風呂に入れるのも私より大きな母を抱えて途方に暮れることもたくさんありました。そんな時にいつも助けてくれたのは息子で、小学校のころから、僕がするよって手を取って誘導してくれたり、思春期の頃に、おばあちゃんのおむつ替えも嫌がらずにしてくれ、唯一、心が休まる時間でした。
兄や主人には、実の親なのに、どうして面倒を見ないのか本当に悲しく思ったものです。兄嫁にも、表面的には繕ってはいましたが、内心はもやもやしながら、そういう人だからと自分に言い聞かせ、おばあちゃんの介護に務めました。もちろん、家の後を継いだ主人は金銭的な援助はしてきましたが、男故、仕事が忙しいといいわけするばかりで、いよいよ、おばあちゃんが亡くなる2年くらい前に、私は大爆発。血のつながったものが誰も見ないで、どうして血のつながりもない私にすべてを押しつけるのかと怒りにまかせて主人を猛攻撃しました。
おかげで、その日から主人は本当に一生懸命、おばあちゃんの面倒をみてくれるようになり、そういう意味では、おばあちゃんを亡くして、思い残すことのない日々を送れたと思います。
おばあちゃんが亡くなって親族が集まった折に、気落ちしている私をみて、件の叔父が「千奈美さん、あんたが介護してくれたんを、ワシらはちゃんと見とったけんな。あんたがおらんかったら姉さんは気の毒になるとこやった。ありがとなぁ」と言ってくれた時、あ~、辛かったけどちゃんと介護できてよかったぁって、それまでの骨折りのことがす~っと体から記憶が抜けていくのを感じました。
叔父も叔母も、おばあちゃんが健在な折から、いつも気にかけてくれ、優しくしてくれました。
その叔母が亡くなり、ついに叔父も昨日天国に召されました。
寂しい思いでいっぱいです。
今夜は、主人とともに、お別れに参ります。
明日、告別式となり、予定しておりました料理教室を直前ではありますが、キャンセルさせていただくことにいたしました。ご無理を申しあげて大変申し訳ございませんでした。
振替の日程は1月31日(金)か2月14日(金)を予定しております。ご希望の多い日を明日の振替とさせていただきますことを重ねてお詫び申し上げます。
2012年12月に開催された、叔父、アマチュア写真家の高橋徳治の個展の記事を貼り付けて、ここにご冥福を祈りたいと思います。叔父さん、ありがとうございました。