こどもをつれてきたにゃ

2010-03-27 17:46:38 | 

 「初版 金枝篇」を読む。ジェイムズ・ジョージ・フレイザー著。ちくま学芸文庫。

 本書は「書斎で作られた人類学」、「本からできた本」などと呼ばれるとおり、膨大な量の引用から成っている。だが、今となってはこのことは欠点というより、自分の部屋にいながらネットでさまざまな情報を集めるわれわれのライフ・スタイルを、先取りしているようにも思える。
 歴史は、言葉だ。たとえば広島の原爆ドームを「原爆ドーム」たらしめているのは、建物自身ではなく、過去のいきさつを説明する使い尽くされた言葉だ。他人の言葉でできているからといって、どうしてこの本を責めることができるだろうか。

 それはともかく。本書では人身供犠、すなわち人間の生贄の実例が数多く紹介されているが、特にベンガルのコンド族のがすさまじい。それは豊作を確実にするためのもので、生贄(生きたまま焼かれる)が苦しみのあまり涙を多く流すほど、多くの雨が期待できる、という。このような儀式は、今となっては人間の命をないがしろにしているように思えるが、逆に、人間の命にはそれだけの価値や能力があると信じられていた証拠なのだという。
 秋葉原の無差別殺人事件の犯人は、人を殺せば何かを、自分自身かあるいは社会を、変えられると思っていたのだろうか。人の命にそこまでの価値はない、とワシなら思うが。

 時代をさらに遡ると、このような生贄は人の形をした神と考えられていて、神としての能力が衰える前に後継者が用意され、それまでの神は殺されたのだ(「神殺し」)、という。多くの民族は神にも「賞味期限」があると考えていた。ユダヤ教などの「不滅の神」という考え方は少数派だったという。

 人身供犠はかつて世界各地で行われ、近代ヨーロッパにもその名残をとどめる風習があることを、フレイザーは膨大な資料を挙げて説明する。この3分の1くらいの量で十分なのに、と思えるほどだ。うんざりしながらも読んでいくと、「人類には、時代や地域を超えた、共通の思考パターンがある」、と主張しているように思えてくる。このような考え方は、古代宗教の神話と、現代の精神病患者が抱く幻想との間につながりを見出す、ユングに近いように思える。フレイザーといえばフロイトだと思っていたが、意外だ。

 フレイザーは、人身供犠などの未開人の迷信を、単純に貶したりはしない。逆に、ヨーロッパ文明の精神面を支えてきたキリスト教の方を、シニカルに見ている。「人間の苦しみを考慮するということは、未開人の打算に入り込む類のものではない。もし入り込んでいたなら、われわれはキリスト教国ヨーロッパの記録を思い出して驚愕に震えることだろう」。つまり、「ヨーロッパにおいてでさえ人間の苦しみは考慮されてこなかったのだから、未開人がそれを考慮しないのは無理もないことだ」、と言っているのだ。何とイヤミな。
 ジョン・ライドンが「アアイアムアンナアンチクライスト」と歌うのは、この本が出てから80年以上もあとのことだ。

 むしろ未開人に対して敬意を払うべきだ、と彼は主張する。さまざまな迷信は、未開人が自分たちの生活をよりよくしようと努力する過程で生まれてきた。今考えるとばかげているように見えるが、そのような試行錯誤の延長線上にわれわれの生活があるのだ。ていうか、今のわれわれも、未来においては未開人と呼ばれるようになるかもしれない。

 「結局のところ、われわれが真実と呼ぶものは、もっとも効果的に機能することの判明した、ひとつの仮説に過ぎないのである」。このような、学者らしくない「諦念」とも「不まじめ」ともとれる態度がカンに障ったのかどうか、ウィトゲンシュタインがこの本を強烈に批判しているという。ワシはけっこう好きだけどね、こういう人。

 読んでいて、わが国の地鎮祭は社会的儀礼なのか、宗教行事なのか、という議論を思い出した。あれはやはり、宗教行事だろう。日本人の心性とあまりにも深く結びついているため、かえって社会的儀礼に見えるだけなのではないだろうか。

 結局、この本の一番の魅力は、忘れがたい数多くの記述に出会える、という点にある。「・・・・・彼らは人が自然死を遂げることをけっして許さない。親族のひとりが死にそうになると、村の祭司を呼び、その喉を掻き切ってもらう。これを怠ると、死者の魂は祝福された者たちの館に入れない、と信じている」。カタルシスの宝庫、といえるかもしれない。

 

 

コメント
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