ハガキに、見覚えのある名前が。
「小見川千明」。はて、面妖な。「森永理科」だったら何の違和感もないが。彼女が「奴婢訓」に? ゴリゴリのアングラ劇だぞ。いや、同姓同名の別人かも・・・・・・などと思ったりしたが、万有のツイッターに彼女のコメントが出た。「私にとって新境地への挑戦」。ということは、やはり。万有のワークショップに参加して、出演が決まったのか。かなりのチャレンジャーだな。
だが、この劇を観て小見川千明を識別することは、彼女のファンでも難しいだろう。それは彼女のせいではなく、寺山修司作、J・A・シーザー演出・音楽の、この作品の性質による。ここであんまり具体的に書くのはやめておくが・・・・・・。
まず、せりふよりも、身体表現の方がメインだという点。声優としての実績は、ほとんど関係ない。ストーリーもあってないようなもので、単なるドタバタ、とも取れる。だが、そのことは実は大した問題ではないのだ。寺山によれば、台本は、舞台上の表現のためのきっかけに過ぎないのだから。
また、蜷川幸雄がしばしば語っている。「寺山作品を観て、俳優がかわいそうだと思った」、と。せりふもそうだが、俳優も作品の一部分に過ぎない。むしろ舞台装置に近いかもしれない。実際寺山は、俳優の演技にはほとんど注文をつけなかったが、舞台での立ち位置には異常にこだわったという。だが・・・・・・。
ワシはこの10年以上、(寺山演劇を継承する)万有引力の公演はすべて観ているが、「俳優がかわいそう」、などと思ったことはただの一度もない。その逆だ。あんなに圧倒的な光輝を放つことができるのなら、結構ではないか、舞台装置でも。蜷川の言葉より、「演じる俳優よりも、存在する俳優の方が好きだ」、というシーザーの言葉の方に、ワシは共感する。
この作品は、「全体的に」 観る必要がある。ていうか、理屈じゃなく、実際に観るのがイチバンだろう。寺山作品を初めて観る人は面食らうだろうが、たとえば、どうして小見川千明はこれに出たいと思ったのか、推理しながら観るのもありだろう。
・・・・・・思い出した。この劇の、「自分の主人は自分自身」、というせりふを聞いて、ワシは転職を決意したのだった。せりふもバカにできないのにゃ。
公演は2012年2月12日から19日まで、シアタートラムで行われる。