西部邁先生のコラムが、支離滅裂だ。いつも通りの言葉遊びなのだが、論理がかなり乱れている。
スポーツは、古代ギリシアにおいては非日常的なもの、神に奉納すべきものだった。日常原則を超越しているという意味で、それは究極の「あそび」だった。現代のオリンピックが特別視されるのも、それが並外れた、非日常的なばか騒ぎだからだ。そこに、神聖さがある。エリアーデによれば、ばか騒ぎは天地創造以前の混沌状態の象徴であり、そこから新しい世界が始まることが人々から期待される、という。
桜宮高校の件はこれとは正反対で、体罰がルーティンワークになってしまっている。選手は、ブラック企業の従業員同様にムチ打たれる、哀れなスポーツ奴隷に過ぎない。そこではスポーツは、まったく卑俗なモノに成り下がっている。
両者がまったく相容れないものであることは、いうまでもない。