ヨセフスの 「 ユダヤ古代誌 」 ( ちくま学芸文庫 ) の1~3まで読んだが、4~6は絶版中。古本は結構高い。それなら・・・というわけで、聖書を読んでいるのにゃ ( 新共同訳 日本聖書協会 )。まだ 「 士師記 」 の途中だが、言えるのは・・・。
旧約聖書というのは、神がひたすらユダヤ人をいびりまくる話でできている。神は、自分の命令 ( これがキツイ ) に従うことを条件にユダヤ人に繁栄を約束するのだが、ユダヤ人は裏切って他の神を崇拝する。すると神は怒って、ユダヤ人を異民族の支配下に置く。ユダヤ人は後悔して、神にすがる。神はユダヤ人を許すのだが、また裏切られて・・・。
このパターンの繰り返しだ。旧約聖書は、実に 「 循環的 」 だ。
「 最後の審判 」 に向かってひたすら突き進むキリスト教の歴史観は 「 直線的 」 だというが、それは怪しいのではないか。ルター以降のプロテスタントが旧約聖書を評価しているのは、どういうわけなのだろう。「 最後の審判 」 の後に、人間はまたもや神を裏切って、話は振り出しに戻る。そのような書かれざるラストを、プロテスタントの人々は予感しているのではないか。
以上は総論的なもの。次から細かいところを見ていくにゃ。