出産時の事故で、脳死に近い状態になった自身の子の育児体験を通して、周産期医療、小児医療の現状と課題を書いている。
筆者が新聞記者であるためか、自身の体験が客観的に(冷静に)綴られており、それゆえに問題の奥深さがひしひしと伝わった。
引用
医師の言葉…脳死はあくまでも移植をするために決めたことですから、ここまでだったら存在する価値があり、ここまでだったら価値がないという線引きはできません。私は脳死とはお母さんがその子が亡くなることを受け入れる猶予期間だと思っています。そういう時間をその子がお母さんに与えているんだと思います。本人も納得して逝くのではないでしょうか。
医学的な判断として、感覚や感情を有さない(表明しない)とされても、「怒る」「悲しむ」「喜ぶ」という意思表示を、顔色、瞼の動き、手足の動き等で表現する子もいるという。
それを親が見つけたとき、それは「死」ではなく、その子なりの生き方であると感じるのだと思う。
その生き方が幸福か否かは、それは非常にデリケートで難しくて、正解はない。
重く、深いテーマではあるが、目を背くことは許されないと感じた。
筆者が新聞記者であるためか、自身の体験が客観的に(冷静に)綴られており、それゆえに問題の奥深さがひしひしと伝わった。
引用
医師の言葉…脳死はあくまでも移植をするために決めたことですから、ここまでだったら存在する価値があり、ここまでだったら価値がないという線引きはできません。私は脳死とはお母さんがその子が亡くなることを受け入れる猶予期間だと思っています。そういう時間をその子がお母さんに与えているんだと思います。本人も納得して逝くのではないでしょうか。
医学的な判断として、感覚や感情を有さない(表明しない)とされても、「怒る」「悲しむ」「喜ぶ」という意思表示を、顔色、瞼の動き、手足の動き等で表現する子もいるという。
それを親が見つけたとき、それは「死」ではなく、その子なりの生き方であると感じるのだと思う。
その生き方が幸福か否かは、それは非常にデリケートで難しくて、正解はない。
重く、深いテーマではあるが、目を背くことは許されないと感じた。
子を看るとき、子を看取るとき――沈黙の命に寄り添って (シリーズ ここで生きる) | |
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