社会福祉士×ちょっと図書館司書の関心ごと~参考文献覚え書き

対人援助の実践、人材育成、図書館学を中心に気まぐれに書物をあさり、覚え書きをかねて投稿中~

「倫理学からみたホスピスの理念の意義-安楽死・尊厳死との対比を通じて-」林大悟(2009)

2011-02-28 12:11:32 | 哲学
『よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学』(ナカニシヤ出版)の第8章

 倫理学という観点から、ホスピスの理念を再考している。実践の場での課題や取り組みではなく、思想そのものを深く掘り下げ、時には安楽死とイコールとして用いられるホスピスについて、その誤解を丁寧に論じている。

引用
☆安楽死・尊厳死が「死を自己決定する自由」の思想であるのに対して、ホスピスの理念が目指すのは「生き方を自己決定する自由」である。

☆QOLに対立する思想としてSOLが対置される。SOLとは「sanctity of life」の略であり、「命の神聖性・尊厳」を意味する。これは、「人の命はそれ自体で尊く、なにものにも代えがたい」という思想である。一般病棟における従来の治療はこのSOLの思想に支えられている。


 SOLという言葉を初めて聞いた。SOLとQOLの相違点、そしてQOLを実現するためのホスピスという思想について考えさせられた。

 また本書もそうであるが、「ホスピスケア」と「緩和ケア」はイコールのものとして用いられている。そもそもこれはイコールなのか?それとも、ホスピスケアという広義のものに「緩和ケア」という狭義のものが含まれているのか…。
 「緩和ケア」はここ数年で、急速に注目を浴び、多くの論文等で用いられている言葉である。しかしこの両者の意味を掘り下げているものは、あまり見受けられない。ホスピス緩和ケアの推進・普及を図るパイオニア的な協会においては、どうやら「イコール」としているようである。WHOの定義でも、わが国の解釈ではイコールだが、他国はあえて線引きしているという声も聞く。実践においてはこの点についての言及は大きな問題ではないが、研究においては、とても気になる点である。


よく生き、よく死ぬ、ための生命倫理学
クリエーター情報なし
ナカニシヤ出版
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「がん患者がかかえる社会的苦痛」田村里子 『臨床精神医学』33(5) 2004年

2011-02-18 06:49:03 | 社会福祉学
 がん患者のかかえる苦痛/苦悩について、社会的側面からアプローチし、その具体的なもの、伴走者として援助者に求められることについて記している。
 ソーシャルワーカーという自身の職種からのアプローチであるが、社会的側面のケアはソーシャルワーカーだから担える…とか、ソーシャルワーカー向けに…ということに終始せず、あくまで「患者理解」ということに終始している。そのため、がん患者のみならず、ケアを必要としているひとに携わっているさまざまな立場のひとに、共感してもらえる印象を受けた。

引用
・がんとともに生きるというストレスフルな状況と折り合うこと、経済的問題、仕事のこと、患者を支える家族の葛藤、ソーシャルワーカーは、これらのがん患者の療養生活上の困難の軽減や解決へ向けた援助を通し、がん患者の療養生活上の課題解決を通し自己決定を支える。

・社会的苦痛を考える時に「社会的」を「人間関係」「交流」「つながり」といった意味合いにもっと重きをおいてとらえる必要がある。


・療養している患者にとって、療養環境は帰属する社会となる。(中略)療養環境面からの、ことに医療スタッフという療養環境からの苦痛の緩和を求める入院相談は少なくないのである。

・社会的苦痛とは、人間が人の間と書くその当たり前のことを最後までいかに大切にできるか、同じく人であるわれわれへの問いかけである。


 「社会的苦痛」…経済的な問題や介護問題など。とよくいわれるし、教科書にもそのような趣旨で書かれている印象がある。しかし入院中の患者にとっては、病院生活そのものが「小さな社会生活」であり、在宅で療養しているひとにとっては、訪問に来る援助者や近所づきあいが「社会とのつながり」である。その認識を持つことで、どのような状況のひとのとっても「社会」は切り離せる側面ではないし、ないがしろにされるべきものではないと痛感する。
 また筆者は、「苦痛」という言葉と並行して、「苦悩」という言葉を引用している。たしかに、社会で生活していくなかで感じるものは、「苦痛」というよりも「苦悩」のほうがしっくりくることが多い、と感じた。
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「日常のなかで死にゆくために 在宅死・在宅看取りを超えて」山崎浩司 

2011-02-06 05:30:52 | その他
 『ケア従事者のための死生学』(2010)Ⅱ章-5

 そもそも、「在宅死/看取り」が最善なのか?という問いから、「自宅とは何を指すのか」「日常のなかでの死とは?」について言及している。
 国民のニーズ、国の政策から、「在宅での看取り」が多くのひとにとって最善という流れに一石を投じている。少し違った観点から「死/看取り」をとらえることができ、刺激的であった。

引用
・人が「自宅で死にたい」と言うとき、それはいったいどういう意味なのでしょうか。それは文字通り、いま自分が住んでいる所で死にたいという意味なのでしょうか。私は、必ずしもそうではなく、それは自分がいままで生きてきた日常が展開する場の中で死にたいという意味であり、そうした場の中心が「自宅」という場所であったということではないか、と考えてます。つまり、人によっては「自分がいままで生きてきた日常が展開する場」の中心が、自宅以外の場所である人もいるかもしれません。

・重要なのは自宅で死ぬこと、病院で死ぬこと、それ以外の場所で死ぬことといった多様な死に場所の選択肢を保障することであり、病院死よりも在宅死のほうが良い(あるいはその逆)といった、二者択一的な価値判断を流布することではないのです。


 空間がひとに与える影響についても、触れられていた。病院や施設での死が好ましくないとみられがちなのは、そこが清潔であっても「日常的ではない」からである…という趣旨である。学生時代に研修に行ったスウェーデンでは、いわゆる「有料老人ホーム」のようなものがあり、そこに住んでいるひとはそこが「自宅」という認識であった。それは、各自の部屋がそのひと色になっており、家具も介護用品も自由に持ち込まれているからだ。そして、建物全体の入り口に郵便ポストがあるのではなく、各部屋のドアの前にそのひと用の郵便ポストがあり、直接配達されているところもあった。そういった空間であったせいか、そこに住むひとたちは、「ここで最期まで過ごす」ことが当たり前であり、自分が生まれた家、育った家が「自宅」ではない様子であった。
 
 以前、単身高齢者の自宅での看取りについて論文を書いた際、大学院時代の恩師から、『「自宅」ってそもそもどこかしら?戦争を生き抜いたひとたちにとっては、まさに生き抜いてきた(守り抜いてきた)場所としての「自宅」がいまの住みかかもしれないけど、これからのひとたちはどうかしら?賃貸マンションを転々としているひとたちは、果たしてどうかしら?』と問われたことがある。
 「自宅」の捉え方は人それぞれであって、ケア従事者が認定するものではない。本書で指摘しているように、たとえどの場所であっても、そのひとが主役で居続けられる空間を提供し続けることこそが、ケア従事者の姿勢の根底にあるべきだと思う。


ケア従事者のための死生学
クリエーター情報なし
ヌーヴェルヒロカワ
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