『日本老年医学会雑誌』58巻1号
僧侶と研究者の共同研究。終末期ケアに従事する介護職、看護職らを対象に調査を実施している。
宗教者に対する期待、医療機関に対する失望など、率直な言葉が印象的である。
引用
(インタビュー調査、発言要旨より)
・かつては施設での看取りは考えられなかった。ただでさえ、自転車操業な大忙しの毎日の中の片手間としてやっている。片手間でやっちゃいけないことを片手間としてやらざるを得ない今の職場環境はつらい。
・本人が求めているものにこたえられる何かを宗教者は持っていると思う。
・入退院を繰り返すことは本人にとっては苦痛であり、本当はゆっくり休みたいと思っているのではないだろうか。
・死に至る段階は医師や看護師から伝えたほうが説得力がある。
特に認知症を持つ方に対して、本人の意思を汲み取れないこと(汲み取りにくいこと)による葛藤が多い印象を受ける。そして本人の「生きていたい」という意思よりも、「生きていて欲しい」と思う家族の気持ちが優先されていることも少なくないと、私自身も現場で体感している。本論文のインタビュー調査の発言の中に、「最期の最期の段階で、家族がやはり点滴をして欲しい、酸素をして欲しいと言ってくる」というものがあった。これは私も多く経験していることで、そこまでにどれだけ対話を重ねても、家族はぎりぎりまでできることを模索し、「できることはすべてやってあげられた」と思うことで、家族の死の受容に結びついていくのだということも、多く経験している。それでもなお、「まだ医療処置をし続ける意味があるのだろうか?」と感じることも、少なからずある。
本論文を通して、医療者や福祉職だけでは入りきれない、受容と諦め(という表現は稚拙であるが…)の間に、宗教者が関わることで、本人・家族・ケア提供者の葛藤が軽減していくのではないか、思った。