ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ひでおのうつうつ日記」 吾妻ひでお

2007-12-18 15:41:20 | 
朝6時に起きて、朝食を作って食べ、薬を12錠飲む。歯磨き、洗顔、髭剃りを済ませてから眠る。

昼前に起きて、昼食を作って食べ、薬を8錠飲む。ゴロンと一休み。天気が良くて、体調も良ければ外出する。自転車で図書館に行くか、それとも古本屋をめぐるか。でも、夕方までには帰宅する。そしてまたゴロンと眠る。

夜になると、近所の実家まで夕食を食べに行く。食後に6錠服薬。夜は寝っころがって本を読む。でも11時ごろには寝てしまう。

これが20年前の私の一日だ。食べて、薬を飲んで、眠るだけの毎日。こんな生活が3年も続いた。いくら病気療養中とはいえ、なんとも怠惰な生活だと思う。その数年前まで朝から夜まで働きづめで、たまの休みは山に入り浸っていたことを思えば、その落差に愕然とする。実際、当時の私は自分を持て余し、今の自分は自分ではないなどと現実逃避に入っていた。

だから、表題の漫画日記を読むと、その生活ぶりに妙に共感してしまった。吾妻氏がアル中の治療を終え、うつ病に悩みながら、日々売れない漫画家として暮らす数年間を綴ったものだが、その読書量に仰天する。

私も病気療養中は、読書に浸る毎日だったが、とてもとても吾妻氏のそれには敵わない。仕事がない分、私のほうが時間はあったはずだが、慢性的な疲労感に悩み、本を読む作業さえ時には苦痛だったので、ダラダラしているほうが多かったためだ。・・・いや、やっぱり言い訳だな。読む気力さえ十分になかったが本当だろう。あの頃は、目標も夢もなく惰性で生きていたからだ。

実際、本を読むという作業は、寝そべっても出来るとはいえ、案外気力を必要とする。健康だった時には思いもしなかったが、病身になってはじめて分った。だから、吾妻氏の読書の凄さがよく分る。もっとも、読書は救いであったとも思う。たとえ、身体が辛くとも、心の辛さを癒す効果はたしかにある。

なにもしない、なにも出来ない状態が続くのは、もの凄く辛い。TVやビデオを観るのも手だが、やはり受身の楽しみなので、倦怠感は否めない。読書は読む努力が必要な分だけ主体的な作業となる。十分に日常生活が営めない病身の身には、自らが主体となって生きる充実感が必要となる。受身のままの無力感は、時として肉体的苦痛以上に苦しいものなのだ。

私は気がつかなかったが、当時は薬物性の鬱状態であったようだ。馴染みのない倦怠感にさい悩まされていたが、まさか鬱病だとは思わなかった。ステロイド剤の副作用らしいが、主治医は何も言わなかった。分ったのは、元気になり社会復帰を果たした数年後のことだった。

何もしないで、ただ身体を休めるだけの毎日のあまりの辛さに、税理士試験合格という目標を設定して一念奮起しでみた。実のところ税理士という職業がなにをするのかは、当時まったく知らなかった。ただ、やるべきことがあるという充実感が欲しかっただけだ。その後は再発と受験勉強の相克に悩むこととなるが、なにもしないよりはマシと思い頑張った。こんな動機の受験生も滅多にいないと思うが、何かすることがあるというのは素晴らしい。

あのままだったら、きっと狂っていたよ。マジでね。
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船場吉兆に思うこと

2007-12-17 14:48:08 | 社会・政治・一般
ちょっと違う気がする。

北海道の「白い恋人」に、三重の「赤福」に続く食品偽装問題として取り上げられた船場吉兆。当初から、弁明する役員のパート社員への責任転嫁ぶりが不愉快に思っていた。

率直に言えば、私は食品偽装問題はそれほど重大だとは考えていなかった。そりゃ嘘は悪い。でも腹を壊したとかの健康被害は聞いていない。騙された消費者の不信感こそが、最大の問題だと思っていた。

だから船場吉兆の役員の卑怯さが、とても不愉快に思えた。そんな矢先、船場吉兆が役所へ今後の法令遵守を約した書面を提出したとラジオの報を聞き、鶏冠にきた。いや、頭だ。

法令遵守は当然であって、問題の根幹はそうではなかろう。お客様を騙したことへの反省はないのか。法令さえ守れば、お客は騙していいのか?!

食品衛生法があろうとなかろうと、飲食店として守るべき倫理はどこへ行った。私は吉兆へ行った事もないし、買ったこともない。しかし、その評判なら聞いていた。すごい高級割烹だと思っていた。私には縁遠い高級店だとも思っていた。

しかし、今ではそう思わない。思えない。

私の無責任な憶測だが、店の経営者は「どうせ素人に但馬牛と九州の牛の違いなんて分かりゃしねえ」と高をくくっていたのではないか。おそらく、それは正しい。九州の牛だって生産者が必死になって育てたはずだ。但馬の牛と差があろうと、それは僅かなもので、素人に判別のつくものではないだろう。

だからこそ、素人は店の看板を信じて食べに行く。高い金を払って楽しむ。その高い金には安心料も含まれているはずだ。その信頼を裏切った。ところが謝罪はその点を忌避している。あの深々と頭を下げた映像を見て、納得したお客さんがいるとは思えない。

飲食店は客商売。そのお客との信頼関係を損ねたことに対する危機感が、まるで伺われない。お客の信頼をなくしたお店が復活するのは難しい。手軽に買えるお菓子とは訳が違う。高級割烹として致命的な失策をしたと思う。
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「かめくん」 北野勇作

2007-12-15 14:29:06 | 
先月、日本のSF小説は停滞していると書いたが、その象徴的作品が表題の一冊。

タイトルからして気が抜ける。かめくん・・・はないだろう。あたしゃ、タイトルと表紙の絵を見ただけで脱力したぞ。ちなみに、かめくんの中身は超高性能なハイテク技術の塊なのだ。それなのに退屈な日常生活しか描かれていない。カメ型アンドロイドである必然がまるで感じられない設定なのだ。

30年前の怪獣映画ガメラのほうが、まだマシだと言いたくなる。でも、ちょっと待て。

たしかに、作中でのカメ型戦闘アンドロイド・かめくんはまるで活躍しない。本当は高度軍事技術の粋を集めたハイテク兵器であるにもかかわらず、木造アパートに暮らし、平々凡々たる日常生活を過ごすだけだ。

よくよくわが身の周りを見渡してみれば、よく似た風景が当たり前にある。かつてSF小説のネタであった個人用電子計算機(パーソナル・コンピュター)は、どの家庭にも普及している。空想の世界にしか存在しなかった薄型TVだって、いまや珍しくもない。禁断の技術と恐れられた遺伝子組み換え技術は、いつのまにやら日常生活に侵入してきている。嘘だと思うなら、海外から輸入されている加工食品をよく調べてみることだ。

子供の頃、少年マガジンに掲載された小松崎画伯の描いた未来予想図には、空中浮遊車で出勤し、ロボットが家事をこなし、曲線を多用した空中都市に人々が住む世界が描かれていた。技術の進歩は、人類の生活を大きく変貌さすものだと信じていた。

しかし、現実はそうではなかった。昔ながらの木造家屋に、ハイテク家電を据え付け、昔ながらの室内装飾に囲まれ、火を使わないハイテク・キッチンで調理しながら、食べるものは昔と同じ。

高性能カメ型戦闘アンドロド・かめくんが暮らす日常と、どう違うというのか。

人類の科学技術はたしかに進んだ。進みはしたが、今や限界点に近づきつつある。そんな不思議な感慨に囚われてしまった、奇妙な一冊でした。
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「小説吉田学校」 戸川猪佐武

2007-12-14 09:30:44 | 
いささか不謹慎な言い様だが、はたして政治学は学問足りうるのか?

法学部出身の方に怒られそうだが、私はけっこう疑問に思っている。アリストテレス(私は読んでない)に始まり、ホッブス、丸山真男などの政治学の大家を、なんと心得ると叱責を受けそうだ。学問に決まっているだろうと断言する意見の方が多数派なのは私にも分る。

でもね、私は知識は実用に供してこそ価値があると考えている。政治学を学んで、日本の政治が分るだろうか。政治学を修めて政治家になれるだろうか。

もちろん、学問は実用のためでなく、教養のためであってもいい。実用に供されないから価値がないとは、さすがに言わない。それでも敢えて言いたい。政治学は日本の政治に役立っているのか、と。

経済学部出の私だが、一応大学の一般教養で政治学や現代政治論などは履修している。丁度、中曽根内閣の頃で、臨調などの作業部会の構成員の方が講師を勤めていたので、けっこう面白い講義が聴けたのは覚えている。でも、それはあくまで雑談であって、分厚いテキストを読んで政治が分ったとは到底思えなかった。

外国の場合はいざ知らず、日本では政治は主義主張で動いているわけではない。政治家という仕事を持つ人間たちの集団の力関係で動いている。イデオロギーで動くのでもなく、地元への利権分配だけで動いているわけでもない・・・らしい。

いくら政治学を学んでも、日本の政治の動きは分らない。政治家がどのように動き、なにを考え、なにを求めているかは、その政治家の実際の動きから憶測するしかない。

だからこそ、表題の本は面白かった。政治学が解明できない現実の政治の動きを、それなりにもっともらしく説明してみせた。新聞記事が上っ面しか書かない政治の動きを、生々しく描いてみせた。

なぜ民主党の小沢一郎が反米志向なのか。自民党内部のなかに共鳴したり、反発したりする動きが出るのか。その源流は田中角栄にあり、そのライバル・福田等の保守本流の動きを知ると、より理解が深まると思う。

表題の本は、主に吉田内閣から佐藤、中曽根ぐらいまでしか捉えていないが、それでも凡百の政治学者のご高説をはるかに超えて、日本の政治の動きを描いている。もちろん、書かれていないことも多々あることは私でも分る。それでも新聞などに書かれた上っ面だけの記事が、この本を読んで初めて生き生きとした動きを伝えるようになったのは事実だ。

書いてあることが事実か否かは別問題だが、日本の政治の動きをもう少し分りたいと思うのなら、その入門書としては最適の一冊だと思います。
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「男どアホウ甲子園」 水島新司

2007-12-13 09:41:47 | 
野球漫画といえば、やはり水島新司だ。代表作はやはり「ドカベン」か「あぶさん」だと思う。

されど、私にとっての水島・野球漫画との出会いは、週刊少年サンデーに連載されていた表題の作品だった。熱烈な阪神タイガース・ファンのおじいちゃんが名づけた藤村甲子園は、或る意味私にとって異星人だった。

「いくで、まめたん!」 「はいな、あんさん」の掛け声で始まる剛速球の三振ショー。変化球を嫌い、直球勝負一本のドあほう投手でもある。巨人を敵視し、東京を嫌う主人公たちに、こんな人たちがいるのかと驚きを隠せなかった。

地元の少年野球のチームに入り、レギュラーになれない(人数多すぎだわさ)ので自分たちでチームを作ってしまった私にとって、理解しがたかったのが阪神ファンだった。あれは一体なんなんだ?

同じ野球ファンとはいえ、あの熱烈な応援、熱い思い入れ、理不尽ともいえる熱狂ぶり。東京生まれで、東京育ちの東京原住民の私にとって、異世界である関西との出会いがこの漫画だった。

野球あり、喧嘩ありの破天荒な漫画だったが、一番印象に残っているのはエンディング。幼馴染みであり、子分であり、他に代えられぬ相棒でもある、まめたんとの別れ。目を瞑れば、今でもその場面を思い起こせます。

バッターボックスに立ち、全力の球を投げて欲しいと頼む、まめたん。驚いたことにホームランを打つまめたんに一喝される甲子園。「三球も同じコースに投げれば、わてにもホームランは打てる。そんなんでプロとしてやってけるのか!」と言い、そして母の介護ゆえに引退を告げる、まめたん。マウンドに直立して吼え、泣き、そして別れを告げる甲子園。万感の感謝をこめての「おおきに、おおきに、まめたん」と号泣する。

このエンディングゆえに、私は数ある水島・漫画のなかでこれが一番好きでした。
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