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「凍える朝」 Photo by Ume氏(タイトルも)
きょうのUme氏の写真を見ていて、頭に浮かんだこと。遠くに見える薄っすらと朝焼けのした峰々の連なり、これについて何か呟くには「中央アルプス」と呼んだ方がいいと思うし、これまでもそうしてきたつもりだ。その一方、小さいころから呼び慣れた「西山」という名は、一部の山腹を指す場合であったり、地元の人しか知らない低い山を呼ぶ場合に使いたくなる。
これは何となく勝手にそう思うだけで、人によっては別のことを言うかも分からない。それでも「西山はクマが多く、錯誤捕獲が増えた云々」、こんな場合には中央アルプスと言わない。西山であり、それでその山域もおよそ分かる。
それと、気付いている人もいると思うが、「木曽駒ケ岳」とか「甲斐駒ヶ岳」とは、ここでは表記しないようにしている。あくまでも古里の山は「西駒」であり「東駒」であって、時にはそれらに「ケ岳」を付けて呼ぶ場合もある。現在のことは知らないが、中学2年の時に行われた学校登山も、当然教師も生徒も「西駒登山」と呼んでいた。
新田次郎の「聖職の碑」、ここでは恐らく「木曽駒ケ岳」だろう。小説の題材となった遭難事故は1913年、隣町の箕輪町立高等小学校の学校登山中に起きたのだが、当時の生徒たちはきっと「西駒」を目指し登ったのだと思っている。
伊那谷は「二つのアルプスに囲まれ(市の広報誌より)」ているが、二つの駒ケ岳だけが例外で、地域によって山の呼称が変わるということはない。ということは、この二つの山はそれだけ地元の人々にとっては強い愛着があり、思い入れも深く、「木曽」だ「甲斐」などの他所の地名など使いたくなかったのかも知れない。もっとも、この「地元」というのも実は曖昧で、どの範囲までを指すかと問われれば、窮してしまう。せいぜい上伊那郡のそれも一部の地域だろうか。
そういえば、入笠山も明治のころまで一部の伊那側の住民の間では「雨乞い岳」と呼ばれていた記録がある。地域によっていろいろあった呼び名が、少しづつ一つの名前に落ち着いていったのがこの例からも分かる。西駒も東駒も、この土地においてでさえ、すでに同じ運命をたどりつつあるかも分からない。
師走14日土曜日、アラスカの荒野を長旅した「オヤジ」さまが上に来る。関心のある方は是非どうぞ。
かんとさん、今月の第3の週末21、22、23日でござるね。ならば、星の狩人たちも集まれ!TOKUさんもどう?
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