今朝7時半、起きた時の室内温度は2度。光の速度をもってしても8分もかかる遠い太陽と、その小さな惑星地球との位置関係のわずかな変化によって四季があり、太陽と地球との距離、それに我々の衛星月、これらの関係が今のようでなかったなら、青い地球は存在しなかったとか。太陽は偉い。月にも感謝。寒い朝はそんなことを考えさせられながら、部屋の温度が上がるのを待つ。
きょうは北原のお師匠と、辰野町の山奥、川島の集落へ木地師の墓を見に行くことになっている。木地師というのは、長い歴史を持つ山の民のことで、その祖先となれば1千年以上も時代をさかのぼり、出自は皇室に繋がる。
文徳天皇の第一皇子である惟喬(これたか)親王が皇位を継がず、859年滋賀の山の中に近親を連れて移り住み、その後に彼らの子孫は全国の山中に散らばったと言われている。代々ろくろを用い、椀や盆を作る木工職人であった。江戸のころ長谷の黒川に彼らの暮らした記録があって、その後にこの集団は横川に移ったと言われている。墓には16弁の菊花の紋章が陰刻されているはずである。
広い川島の谷の奥まで入るのは何年振りになるのだろう。前回はSさんと蛇石(1枚目の写真)を見にいき、さらに奥まで入った記憶があるが、今回は道路は途中で閉鎖されていた。幸い、木地師の墓はその蛇紋岩を見ることのできるキャンプ場の近くにあり、そこまでは車で行くことができた。そして、真っ先に目にした古びた何基かの墓石には、間違いなく、16弁の菊の紋章が刻されていた。
墓は木地師と縁の深いトチの巨木の近くにあった。その一つには天保の年号が刻され、墓の主の戒名は「信士」だった。他も「信士、信女」と、言われある人の子孫であったとしてもそこまで時代が下ってくれば、最早寺社からは単に山の民と扱われたのかと意外に思い、同時にまた、それでも墓石にはその証を残そうとした気持ちが切なく伝わってきた。
芝平とは比べようもない深い谷と急峻な高い山、そこに至るまでの明るい谷間の集落、北原のお師匠が盛んに芝平と比較しては、感動していたのも肯けた。それにしても師の尽きることのない好奇心には敬服、脱帽。
おきらくさん、また連絡します。折れるな、頑張れ!
かんとさん、今月の第3の週末21、22、23日で確定。ならば、星の狩人たちも集まれ!TOKUさんもどう?
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