『IQは金で買えるのか』 行方史郎著 評・岡ノ谷一夫(生物心理学者・東京大教授)
その他 2015年9月14日 (月)配信読売新聞
遺伝子操作の倫理
ある学問が急速に発展している時期には、その学問の有効性が大袈裟おおげさに喧伝けんでんされる場合がある。これは必ずしも悪いことではない。その学問に勢いが付き新規技術が開発され、若い才能が参入する。現在そのような分野と言えば、分子遺伝学であろう。こういう時期こそ、本書のようなわかりやすく読みやすいが、倫理的な批判精神を持つ一般書が必要なのだ。遺伝子診断で個人に合ったスポーツを推薦する企業についての、敷居の低い話から本書は始まる。
個人の遺伝子を解読することで、その人がどのような病気にかかりやすいかを予測することはある程度可能になっている。若年性アルツハイマー病や乳がんの1割程度は、遺伝的な基盤を持つと言われる。こうした事情は、最近の映画「アリスのままで」や、アンジェリーナ・ジョリーの乳房切除手術で一般にも知られつつある。病気の遺伝的基盤はこれからもどんどん解明されてゆくであろう。自分が将来重篤な病気にかかるかどうかは、知るための技術がある以上、知る権利はあると私も思う。
しかし本書で問題にされるのは、私たちは遺伝子操作によって人間という種を変えてゆくことが許容されるのか、である。たとえば男女の産み分けとは、欲しない性の受精卵を使用しないことを意味する。受精卵の選別により、遺伝病を取り除くだけではなく、IQがより高い子供を持つことも可能である。実際、中国でそのようなプロジェクトが進行中だ。
好みの受精卵を選別する行為は、自分の子供を無条件に愛するという、人間が連綿と続けて来た営みを切断することだ。著者はサンデルを引用する。人生は選択の連続であるが、親になることはそれとは反対に、あるがままを受け入れることなのだ。しかし障害を持って生まれてきた子供本人に、あるがままを受け入れる義務があるのかどうか、私にはわからない。この問題については、考え続けることで人間であり続けるという選択肢を私は選ぶしかない。
◇なめかた・しろう=1966年生まれ。朝日新聞アメリカ総局員などを経て現在、東京本社科学医療部次長。