中国「トレイルランニング」大会による多数死亡事故に思う
山岳医のはしくれからの再発防止のアドバイス
レポート 2021年6月6日 (日)配信神田橋宏治(医師、DB-SeeD社長)
さて44回目です。今回はトレイルランニングと医療の話です。未舗装路を走ることを一般にトレイルランニングと言いますが、日本の場合、主に山中を走ることが多いです。十数年前から流行し始め、現在のトレイルランニング人口は数十万人に達しています。
2021年5月22日、中国での100kmを走破する「トレイルランニング大会」において、天候急変が原因による低体温症によって21人もが死亡するという痛ましい事故が起きました。犠牲者の中には富士山の周りを170kmにわたって走るウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)で準優勝したリャン・ジン選手も含まれています。今回はこの事故について山岳医のはしくれとして思ったことを連載の第18回目と少しかぶりますが書かせてください。
僕自身はトレイルランニングはほとんどやらないのですが、トレイルランナーとご一緒することがたまにあります。数年前ですが初夏に大学で同級だった医師、清水孝行先生と都内の山にトレイルランニングに一緒に行ったことがありました。
彼はいわゆる市民ランナーでトレイルランニングの格好で集合場所に現れました、つまり非常に軽装です。僕は山歩きしかしない人間なので基本的にいつも登山の格好です。当日はやや天候が悪くなる危険があったので、僕はあらかじめエスケープルート(天気や体調が悪くなった時に途中、山中から舗装路まで降りるルート)をいくつも想定して、いつ撤退するのか、いざとなれば山中で宿泊することまで一応考えてやたら荷物を持って行きました。水分だけでも僕は4L、彼は確か500mLだったと思います。ここまで持ち物に差があると登りは遅れながらもついていけたのですが、下りは引き離されるばかりでところどころ待ってもらい、相当迷惑をかけたと反省した記憶があります。
下界に戻って「そんな軽装で何かあったらどうするの?」と聞いたときの彼の答えにびっくりさせられました。「例えば危険を感じたら身体の軽さを利用してとにかく駆け降りる」という答えでした。山歩きの人の場合、もちろん早めに降りる部分は共通ですが、少し山奥になると簡易テントや防寒具をしっかり持って行って1泊くらいは覚悟している方が多いので考え方の相違は新鮮でした。
その後も市民トレイルランナーの方とご一緒することが何度かあったのですが、考え方はほぼ同じでした。
さて今回の事故についてメディアから取材がありました。山岳医界の隅に生息しているものとしておおむね以下のようなコメントをしました。
一番大事なのは主催者による安全確保です。つまり比較的安全なコース設定をしているか、途中適正な間隔で暖かい補給所を設けて、体調が悪ければそこでリタイアできるようにしているか、参加者に雨具や防寒具等の携帯を必須としているか、そしてなんと言ってもいざというときに主催者が勇気を出してストップをかけられるかです。
実際、先述のUTMF大会では2019年には開始後に天候が悪化したため大会の中断を早めに決断しています。おそらく早めにいくつかのシナリオを準備していたのでしょう。この辺りの感覚は臨床医の感覚として似ている気がしました。
また同時に大事なのは本人の勇気と覚悟です。山の世界では有名な格言として「山は逃げない(無理だと思ったら撤退せよ。来年チャンスはある)」「山は自己責任(山は常に死亡と背中合わせの世界なので実力を自覚して登れ、そこでミスって死んだとしても責任は自分自身のみにある)」といったものがあります。ところがトレイルランニングのレースはそうはいかない。なるべく上位を狙うためにはなるだけ荷物は軽い方がいい、となるとまず削るのは水と食料です。次に防寒具の軽量化です。前者は脱水症やハンガーノックの危険を高めますし、後者は低体温症の危険を伴います。
低体温症は登山においても極めて重要な問題で、急速に起きた場合、防寒具を出す暇もなく一気に命を奪う危険すらあります。例えば2012年5月には白馬岳で医師6人から成るパーティーが大量遭難し全員が低体温症で亡くなられましたが、中の数人はザックの中に入っていた防寒具さえ取り出す暇がなかったと考えられています。
実際トレイルランニングの大会に救護隊として参加したときには、脱水症や低体温症の方を多く見ました。そうなる前に撤退するのも勇気です。大会は来年もあるのですから。
さらに山歩きの人であればゆっくり降りるような夜間の下りも、トレイルランナーはヘッドライトを頼りに飛ぶように走り降りていくのを見た時は、登山とは似て非なる全く別の競技スポーツだと思いました。
COVID-19が流行している現在、トレイルランニングや登山は適切に行えば密にならずに済む運動としてわりと評判が良いようですし、適度な負荷は健康にもよいです。レースで上位を目指す方は多少の危険を冒すのもやむを得ないと思います。しかし我々一般市民の登山者やトレイルランナーは、無理をせず十分な余裕を持って楽しんでいただきたいと願っております。
ちなみに僕は日本温泉気候物理医学会の温泉療法医の資格も持っており、山を下りた後の温泉の良さについても語りたいことはいっぱいあるのですがそれはまた次の機会にでも。
神田橋宏治(かんだばし こうじ)
1967年生まれ、1992年東京大学理学部数学科卒、1999年東大医学部医学科卒。東大病院内科で研修の後、東大第一内科入局、血液・腫瘍内科入局。都内病院で研修後、2008~2011年東大病院無菌治療部助教。2011年からとしま昭和病院勤務、2015年合同会社DB-SeeD設立。