偏見なく受刑者を診る 薬物中毒の母との葛藤 「法務省矯正局医師 おおたわ史絵」
2021年6月14日 (月)配信共同通信社
通常の病院の診察室と違って、テーブルの上にボールペン1本も置いていない。「凶器になるから。でも、みなさん紳士的ですよ」。総合内科専門医の資格を持つおおたわ史絵(ふみえ)は、2018年から法務省矯正局の非常勤医師として月10回以上、刑務所で診察に当たる。
矯正局医師は刑務所のほか、拘置所、少年院などの矯正施設で医療と健康管理に携わる。全国で約300人おり、そのうち女性は2割弱。「ここで働いて、自分が医者になった理由がふに落ちた。家族のことで苦しんできたことが今の自分につながっている」
▽教育熱心
東京都葛飾区で診療所を開業する父と元看護師の母の長女として生まれる。父は地域医療に尽力。「早朝から夜中まで患者の対応に追われていた」と振り返る。
母は子どもの頃に虫垂炎をこじらせ、何回も手術した。おおたわが物心ついてからも、家で伏せていることが多かった。でも教育熱心。バイオリン、英会話、ピアノ...。小学校に入る前から、いろんな習い事をさせられた。母は「略奪婚」のような形で父と結ばれる。引け目を感じていたのかもしれない。「それだけに子どもを一人前に育てたかったのでしょう」
習い事で間違えると、石の灰皿を投げつけられ、額を切った。怒ると歯止めがきかない。「虐待とは思っていなかったが、子どもなので逃げ場がない」。ストレスが重なり、自分で髪を引き抜く抜毛症に。頭皮からは血がしたたり落ちた。
おおたわが中学生の頃、母は持病の腹痛が悪化、診療所で鎮痛剤を処方された。注射を打つと、苦悶(くもん)の表情が魔法のように和らぐ。母は次第に勝手に薬を持ち出す。部屋に注射器やアンプルが散乱。身だしなみがおろそかになり、腕は注射痕で枯れ枝のように。精神がむしばまれていた。
▽家族入院
そうした家庭環境の中でも「将来は医師に」という母の願いは、ひしひしと伝わる。落胆させるわけにはいかない。東京女子医大を受験して合格。大学5年生の頃、病院実習で母の薬が麻薬並みの鎮静効果があり、厳重保管が必要だったと初めて知る。父と相談し、取り上げようとすると母はかたくなに反発した。
その後、研修医として忙しくなり、1人暮らしを始める。しばらくして父から連絡が来た。「もうママは駄目だ」。暴力をふるい、手に負えない状態だった。
都内の依存症外来に相談し、群馬県赤城高原の依存症施設を紹介された。訪れると「あなたとお父さんの2人で入院してください」と虚をつかれる。家族にこそ治療が必要と諭された。
治療の中心は「家族ミーティング」。約2週間、依存症患者を抱える家族と話し合った。「家庭の恥は大抵隠す。でもオープンにし、共感することが大事だと気づいた」
依存症には必ず家族らの「支え手」がいることも学んだ。退院後、父は診療所で母が使用していた薬の仕入れを中止。治療も第三者の医師に任せた。次第に母は薬の入手を諦める。ようやく薬物依存を抜け出した04年、父は肝臓がんで76歳の生涯を閉じた。
▽分け隔てなく
しかし母は薬を絶った代償として「買い物依存」に陥った。テレビの通販番組で化粧品、食料品、家電、洋服を手当たり次第に購入し、家の中は段ボール箱だらけに。父の診療所を継いだが、母の振る舞いに眉をひそめる日々が続いた。
診療所で働いていた13年のある日、同じ建物の自宅に行くと母の返事がない。玄関の鍵はかかったまま。不審に思い、消防などに連絡して家に入ると、ベッドで母は息絶えていた。反射的に心臓マッサージを施す。「安堵(あんど)したような死に顔」が唯一の救い。76歳だった。
17年に診療所を閉院した。「父に、もういいよと言われた気がした」。今後の人生を模索している最中に法務省から人を介し、矯正局医師の打診があった。施設を見学し、話を聞いて胸を揺さぶられた。
受刑者の疾患は循環器系が最も多いが、覚醒剤などの薬物犯罪は依存症と背中合わせという実態を知った。「罪に対し罰を与えるだけでは解決しない。依存症が身近な存在だった自分は再犯を防ぐ矯正医療に向いているのではないか」
薬物中毒による受刑者は時に「意志が弱い」と厳しい視線にさらされる。「私には受刑者に偏見はない。薬物中毒だった母との葛藤を通し、一般人と同様に診ることができる」。医師として救えなかった母への贖罪(しょくざい)とも思えるようになった。もちろん、被害者や遺族らにとって到底許されない犯罪はある。「でも受刑者を1人の人間として尊重したい」
診察で常日頃心掛けていることがある。「あなたの健康と明日を一緒に考えている人間がここにいますよ」。分け隔てなく接する。社会復帰に必ずつながると信じて。(敬称略、文・志田勉、写真・喜多信司)