<豊後・杵築を歩く(1)>
国東半島の城下町、杵築(「きつき」と読む)は、昭和の町で知られる豊後高田に訪れたときに通っているはずだが、訪れるのは初めてである。
杵築は別府から近く、国道を使い車で三十分くらいの距離だ。由布院からでも高速を使えば同じ時間で行かれる。
まずはランドマークの杵築城へ。
「お前さん、歩くのが好きなのかい?」
杵築城のそばの駐車場に止めて車を降りたわたしに、いきなりズバリと鋭い質問を投げかけたのは、地元のお婆さんだった。たしかにわたしは歩くのは好きだが、どうして・・・。
「えーと、杵築城に行くにはここから歩くんですよね?」
うろたえて、質問に思わず質問で返してしまう。
「杵築城に行くんならこんな遠くに止めず、お城の近くまで車で行けばいいよ」
そうなんだ。わたしはお礼を言って、また車に乗り込んだのだった。
城門をはいって奥に進む。
たしかにお婆さんがいうとおり、奥の駐車場は近かったな。平日なので観光客はまるでいない。
杵築城は、応永元年(1394年)に木付頼直によって八坂川河口の天然の要害、台山の上に築かれた。当時は「木付城」といった。
その後、正保2年(1645年)には松平英親が入城して十代守り続き、明治維新まで居を構えた。
現在は城山公園として整備され本丸、二の丸、三の丸の石垣と濠の一部が残っており、山上に資料館と展望台を兼ねた三層の模擬の天守閣が建っている。
この天守のある高台からは、守江湾の海が一望できる。
この城山公園には、ちょっと心が騒ぐ石造群がある。
「仏の郷、国東半島」に点在していた石造を集めたものだ。
これがなんともいいのである。
それぞれの石造には、その造られた時代と石碑の名前が立て札に書かれている。
長い年月を経て、雨風に何度もさらされて角がとれて丸くなり、苔むして、どの石造にもとても深い味わいがある。
真っすぐに立っていなく、すこし傾いたりしているところもなんともいい。
いま、気が遠くなるような時の流れの集積をわたしはみつめている・・・そんな気がする。
ざわざわと騒いでいた心も、風がなくなった水面のようにいつしか凪いでいく。
なんとも形容しがたい仏の笑みに、時を忘れて、見入ってしまった。
― 続く ―
→「昭和の町①」の記事はこちら
→「昭和の町②」の記事はこちら
→「昭和の町③」の記事はこちら
国東半島の城下町、杵築(「きつき」と読む)は、昭和の町で知られる豊後高田に訪れたときに通っているはずだが、訪れるのは初めてである。
杵築は別府から近く、国道を使い車で三十分くらいの距離だ。由布院からでも高速を使えば同じ時間で行かれる。
まずはランドマークの杵築城へ。
「お前さん、歩くのが好きなのかい?」
杵築城のそばの駐車場に止めて車を降りたわたしに、いきなりズバリと鋭い質問を投げかけたのは、地元のお婆さんだった。たしかにわたしは歩くのは好きだが、どうして・・・。
「えーと、杵築城に行くにはここから歩くんですよね?」
うろたえて、質問に思わず質問で返してしまう。
「杵築城に行くんならこんな遠くに止めず、お城の近くまで車で行けばいいよ」
そうなんだ。わたしはお礼を言って、また車に乗り込んだのだった。
城門をはいって奥に進む。
たしかにお婆さんがいうとおり、奥の駐車場は近かったな。平日なので観光客はまるでいない。
杵築城は、応永元年(1394年)に木付頼直によって八坂川河口の天然の要害、台山の上に築かれた。当時は「木付城」といった。
その後、正保2年(1645年)には松平英親が入城して十代守り続き、明治維新まで居を構えた。
現在は城山公園として整備され本丸、二の丸、三の丸の石垣と濠の一部が残っており、山上に資料館と展望台を兼ねた三層の模擬の天守閣が建っている。
この天守のある高台からは、守江湾の海が一望できる。
この城山公園には、ちょっと心が騒ぐ石造群がある。
「仏の郷、国東半島」に点在していた石造を集めたものだ。
これがなんともいいのである。
それぞれの石造には、その造られた時代と石碑の名前が立て札に書かれている。
長い年月を経て、雨風に何度もさらされて角がとれて丸くなり、苔むして、どの石造にもとても深い味わいがある。
真っすぐに立っていなく、すこし傾いたりしているところもなんともいい。
いま、気が遠くなるような時の流れの集積をわたしはみつめている・・・そんな気がする。
ざわざわと騒いでいた心も、風がなくなった水面のようにいつしか凪いでいく。
なんとも形容しがたい仏の笑みに、時を忘れて、見入ってしまった。
― 続く ―
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