・・・中国の皇帝の墓などはかなり古い時代物でも墓誌などが出てきて、誰の墓か明確にわかる。
昨日、新聞に、「奈良県香芝市の平野塚穴山古墳が皇族の墓であることが判明した」の記事が新聞に出ていた。
そして、埋葬者は斉明天皇の父、茅渟(ちぬ)王でないかと報道されているが確定ではない。
この墓は7世紀後半の墓とされているので、墓が築かれた時代では、当然、文字は使っていた時代である。
日本の墓からは、誰の墓か、書いてあるものが出てくるのはまれである。
なぜそうだったのか、その理由は知らないが、不思議である。
しかし、例外として、太安万侶は墓誌が出てきた、数少ない墓である。(墓誌には723年没と書いてある)
太安万侶の墓誌が作られた時代と、平野塚穴山古墳の築造時期は五十年しか違わない。
また、墓誌ではないが、文字と人の名が刻まれた鉄剣が出てきた稲荷山古墳は471年に築造されたと言われている。
この場合は平野塚穴山古墳の時代をさかのぼる事200年である。
なぜ、古代の日本の墓には文字を刻んだ墓誌が残されなかったか、不思議である。