さて、震災対策も具体的な話になってきました。
千代女 小早川清筆
紙本着色絹装箱入
本作品は千代女を描いた作品で、私の父が存命の頃から家にあった作品です。
下の写真は千代女像で、朝顔を題材にして良く歌を読んだそうです。本作品もの朝顔の花が添えられています。
千代女とは加賀の千代のことで、名は「つと」といい、俳句の号を「素園」といい、剃髪後の法号を「妙林」という。よく美人画の題材とされる。本作品はそれほどの力作ではないが、品のある絵に仕上がっている.
小早川 清(こばやかわ きよし):明治30年(1897年)~ 昭和23年(1948年)4月4日)は、大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。鏑木清方の門人。
福岡県福岡市博多に生まれる。初めは南画家の上田鉄耕に師事し、1915年(大正4年)に上京して、清方に美人画を学んだ。小児麻痺による後遺症のため、左手一本で絵を描いた。
「長崎のお菊さん」が、1924年(大正13年)の第5回帝展に初入選し、その後、長崎を題材にした美人画を描いて、続けて帝展において入選を重ねた。1933年(昭和8年)には、歌手の市丸を描いた「旗亭涼宵」が特選となっている。
1936年(昭和11年)以降は、文展無鑑査となり、同年、文展招待展に「宵」を出品してからは、文展及び新文展に作品を出品した。その他にも、日本画会、青衿会などにも、会員として多くの作品を発表していた。そして版画は、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)に発表した「近代時世粧」シリーズが知られている。その中でも、ほろ酔・爪・化粧・黒髪・口紅・瞳などは著名で、また、艶姿・湯上がり・舞踊なども佳作とされている。
清は、戦後にも数点、作品を発表しているが、やはり昭和初期の頃の作品に人気が集まる。また、清は、新版画の分野においても活躍している。代表作に「長崎のお菊さん」、「春琴」などが挙げられる。1948年(昭和23年)、東京都大田区の自宅で脳溢血により死去。享年52。
加賀千代女(かが の ちよじょ):1703年(元禄16年)~ 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。
号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。
白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。
幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をたしなんでいたという。12歳の頃岸弥左衛門の弟子となる。17歳の頃、諸国行脚をしていた人に各務支考(かがみしこう)が諸国行脚してちょうどここに来ているというのを聞き、各務支考がいる宿で弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠む様求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に各務支考に才能を認められる。その事から名を一気に全国に広めることになった。
1720年(享保5年)18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽福岡弥八に嫁ぐ。このとき「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残す。
20歳の時夫に死別し松任の実家に帰った。30の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時蕪村の玉藻集の序文を書く。
1775年(安永4年)73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。
千代女 小早川清筆
紙本着色絹装箱入
本作品は千代女を描いた作品で、私の父が存命の頃から家にあった作品です。
下の写真は千代女像で、朝顔を題材にして良く歌を読んだそうです。本作品もの朝顔の花が添えられています。
千代女とは加賀の千代のことで、名は「つと」といい、俳句の号を「素園」といい、剃髪後の法号を「妙林」という。よく美人画の題材とされる。本作品はそれほどの力作ではないが、品のある絵に仕上がっている.
小早川 清(こばやかわ きよし):明治30年(1897年)~ 昭和23年(1948年)4月4日)は、大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。鏑木清方の門人。
福岡県福岡市博多に生まれる。初めは南画家の上田鉄耕に師事し、1915年(大正4年)に上京して、清方に美人画を学んだ。小児麻痺による後遺症のため、左手一本で絵を描いた。
「長崎のお菊さん」が、1924年(大正13年)の第5回帝展に初入選し、その後、長崎を題材にした美人画を描いて、続けて帝展において入選を重ねた。1933年(昭和8年)には、歌手の市丸を描いた「旗亭涼宵」が特選となっている。
1936年(昭和11年)以降は、文展無鑑査となり、同年、文展招待展に「宵」を出品してからは、文展及び新文展に作品を出品した。その他にも、日本画会、青衿会などにも、会員として多くの作品を発表していた。そして版画は、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)に発表した「近代時世粧」シリーズが知られている。その中でも、ほろ酔・爪・化粧・黒髪・口紅・瞳などは著名で、また、艶姿・湯上がり・舞踊なども佳作とされている。
清は、戦後にも数点、作品を発表しているが、やはり昭和初期の頃の作品に人気が集まる。また、清は、新版画の分野においても活躍している。代表作に「長崎のお菊さん」、「春琴」などが挙げられる。1948年(昭和23年)、東京都大田区の自宅で脳溢血により死去。享年52。
加賀千代女(かが の ちよじょ):1703年(元禄16年)~ 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。
号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。
白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。
幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をたしなんでいたという。12歳の頃岸弥左衛門の弟子となる。17歳の頃、諸国行脚をしていた人に各務支考(かがみしこう)が諸国行脚してちょうどここに来ているというのを聞き、各務支考がいる宿で弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠む様求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に各務支考に才能を認められる。その事から名を一気に全国に広めることになった。
1720年(享保5年)18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽福岡弥八に嫁ぐ。このとき「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残す。
20歳の時夫に死別し松任の実家に帰った。30の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時蕪村の玉藻集の序文を書く。
1775年(安永4年)73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。
小早川清様の掛け軸と鏑木清方の加賀の千代女の掛け軸と雰囲気が似ております。
当方からリンクさせていただいいてよろしいでしょうか。
リンクについてはかまいませんよ。当方は美人画は数が非常に少ないです。人気があってなかなか手が出ません。
コメントいただきありがとうございました。
では、早速リンクをさせていただきます。
上記URLには日本語が入っており、もしかしたらリンク切れになるかもしれませんので、以下にもURLを入れておきます。
https://www.facebook.com/BijinPictures?sk=notes
ありがとうございました。