多くの画家が「瀑布」を題材として絵を描いていますが、江戸期の作品で「瀑布図」とし最も著名なのが下記の作品ですね。
参考作品
青楓瀑布図
円山応挙 画 皆川淇園 賛
紙本著色 縦:1780*横919
天明7年 1787年
『サントリー美術館プレミアム・セレクション 新たなる美を求めて』より
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この作品の説明文より:人の背丈を凌ぐほどの大画面に、勢いよく一直線に流れ落ち、滝壺で飛沫を上げる流水を描く。轟々と音を立てるかのような流水に洗われる岩の塊は黒々として静かである。上方を横切る青楓の一枝が爽やかな初夏の彩りを添えている。江戸時代中期を代表する京都の画家・円山応挙の画風は、本図のように写生を重視した平明な写実性を特色とする。応挙五十五歳陰暦11月の作で、画面右側に応挙と親交のあった儒学者・皆川淇園の題詩が記される。
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ついでながらもう一点、円山応挙の「瀑布図」といったら忘れてならないのが下記の作品ですね。
「大瀑布図」
円山応挙筆
紙本淡彩
安永元年(1772年)作
縦3628*横1445
縦3628*横1445
国寺蔵 円満院旧蔵
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説明文より:竪(縦)が三・六メートルに及ぶ巨大な滝の図。
円満院門主祐常が、同院に滝がないのを惜しんで描かせたものといい、池の上に下げたとも伝える。この作品の展示に当たっては、天井から壁面に沿ってぶら下げて、床に達したら、その床の面に伸ばして、丁度、壁面と床との「L字」型に展示するように細工が施されているようなのである。書院の梁に掛けると、畳面でL字状に折れ曲がり、画面上方は仰ぎ見るような仰視、滝の中ほどは水平視、そして滝壺から下に描かれる流水といくつかの岩は俯瞰視の視点で描写されていることが指摘されている。すなわち、滝の部分は垂直に、滝壺の部分は水平になる。すなわち、これは応挙の「空間マジック」ということになる。
滝壺付近の飛沫や流水に滴れる岩の黒さも臨場感を高めている。垂直に落下する滝と水平な流水という現実空間になぞらえた構図は、以後応挙が諸寺院の障壁画に展開することになる「虚実一体空間」のさきがけをなす作品として高く評価される。
安永元年(1772年)、40歳の時のこの「大瀑布図」を描いていますが、応挙が、それまでの「主水」「仙嶺」「僊嶺」の署名から「応挙」の署名に替えたのは、明和3年(1766年)、34歳の頃で、その前年の頃に、関白をつとめた二条吉忠に連なる円満院門主祐常(ゆうじょう)の知遇を得るようになった。そして、この「大瀑布図」を制作した40歳の頃から、京都の豪商三井家の知遇を得るようになり、この円満院門主祐常と三井家とが、応挙の主要な支援者ということになる。応挙の円山家は、応挙の没(寛政元年=1795年)後、応瑞(1766年~1829年)、応震(1790年~1829年)、応立(1817年~1875年)が家督を継いで行くが、明治維新後の四代目応立は、「元円満院家来」として、京都府貴嘱の身分を得ている。それは、応挙と円満院門主祐常との関係が、代々、続いていたことの証しなのでもあろう
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このような応挙の「瀑布図」がその後の画家に与えた影響が大きかったことは想像に難くないですね。
本ブログでも幾つかの「瀑布図」と題された作品を紹介していますが、本日は平福百穂の作品の紹介です。
瀑布図 その2 平福百穂筆 その133
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2095*横368 画サイズ:縦1290*横248
暑いさなかの涼として、古くから瀧の絵は重宝されてきました。
平福百穂独特の近代南画としての作品です。
共箱に収められています。
落款には「百穂寫於三宿草堂 押印」とあります。
平福百穂は1919(大正8)年8月、世田谷「三宿」に画室を建て、画塾白田舎を創設し塾生をおいています。落款や印章に用いられる「白田草堂」や「三宿草堂」はこの時期以降の作となるのだろうと推察しています。
これらの印章類は他の所蔵作品らと照合にて一致しており、真作と判断できます。落款らの字体から大正期の作と推察しています。