夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

七福神之図 三幅対 狩野素川筆 & 平野庫太郎作 粉引釉片口 

2019-11-29 00:01:00 | 掛け軸
今週で3作品目となる平野庫太郎氏作の片口です。



煎茶道具の揃いのひとつで作られた作品です。普段使いとして箱を誂えるほどではないと思われるでしょうが、もはや入手できない作品の保存には箱は必須です。



これもお茶碗として使えそうなくらい品格がありますね。



本日は狩野派のマイナーな画家の作品の紹介です。

江戸期には時が経るにつれて狩野派は粉本主義的な定型的な作風が多くなり、狩野派の評価は低いものになりましたが、近代では評価の低い江戸中期以降の狩野派の画家において、幾人かの狩野派の画家が見直されています。

その一人に本ブログで取りあげている狩野素川が挙げられると思いますが、意外に当時から評価が高く、狩野素川は狩野派にありながら浮世絵美人画にも学び、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評されている画家でした。

本ブログでも幾つかの作品が紹介されていますが、本日は三幅対の作品の紹介です。

七福神之図 三幅対 狩野素川筆 
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
各々全体サイズ:横335*縦1660 画サイズ:横840*横320

 

どなたかに所望されて描いた「めでた図」なのでしょう。「中央蓬僲山図 左右七福神図」と箱書きに題されています。



狩野素川に関する記事は少なく、経歴の概略は下記のとおりです。

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狩野章信:(かのう おさのぶ)明和2年(1765年)~文政9年10月2日(1826年11月1日)。

江戸時代中期から後期に活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師を勤める表絵師浅草猿屋町代地狩野家5代目。幼名は仙次郎、のち外記。名は彰信、50代で章信と改めています。

号は大玄齋、素川(そせん)ですが、章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなった。狩野派にありながら浮世絵美人画にも学び、洒脱で機知に富んだ独特の画風は「素川風」と評されています。

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少し詳しい記述は下記のとおりです。

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補足

狩野賢信(かたのぶ)の子。父の跡をうけて浅草猿屋町代地狩野家を嗣いでいます。一説では宇多川徳元の子とされます。木挽町(こびきちょう)狩野家の伊川に匹敵する実力者といわれました。

文政9年10月2日死去。62歳。名は彰信。通称は仙次郎,外記。別号に大玄斎。

浅草猿屋町代地狩野家は、狩野永徳の弟子・祖酉秀信を祖とする表絵師の家系です。4代目の寿石賢信から継いでいますが、実父は宇多川徳元だとされています。1800年(寛政12年)数え36歳で若隠居し、花街での遊蕩を好んだそうです。

吉原の老妓の門弟も多かったという。粉本に依らない軽妙洒脱な画風で人気を博し、当時の狩野派内で最も有力だった狩野栄信のライバルと言われました。居宅に高楼を建てる趣味人で、『画道伝授口訣』という著作もあります。

章信はいつも手ぬぐいを頭に被り脱がなかったという逸話が残りますが、これは田沼候に招かれる際の出来事が元になっていると言われています。自分は寒がりなので頭巾を外せないが、それでも良ければ参上すると答のが認められ、諸人がこれを真似たとい言われています。文政9年(1826年)死去、62歳。

弟子に、6代目の寿石圭信、川越城の杉戸絵を手掛けた舩津蘭山など。また、増上寺の「五百羅漢図」で知られる狩野一信も章信に学んだとされます。

*なお狩野派にはもうひとり「素川」と号する画家がいます。

狩野信政:(かのう-のぶまさ) 1607~1658 江戸時代前期の画家。慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。

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狩野素川は50代で章信と改めていますが、それまでは号は大玄齋、素川(そせん)と号していました。本作品には「大玄斎」の朱文八角印が押印されています。当方の他の所蔵作品と落款と印章は一致しています。

  

章信と署名するようになってからは、両者とも用いなくなったということから、本作品は50歳前の作品であると推察されます。



箱書に「中央蓬僲山図 左右七福神図 狩野素川 三友堂秘幅」、「慶應三(1867年)丁卯年九月吉日求之 春日天治」とありますが、「三友堂」、「春日天?冶」については不明ですが、幕末に入手した作品と推察されます。

 

狩野派の三幅対のこのような作品は珍しくなく、数多くの作品を目にしますが、多くは狩野派を学んだ門弟が模写した作品が多いようです。

著名な狩野探幽、常信などの大家の作品はすべてが模写された作品と考えたほうがよさそうですね。印章などは師の本物の印章を押印した門弟もいたようで。狩野派の真贋の判断は手に負えない作品もあるようです。



本作品のように著名でない狩野派の作品のほうが真作を入手でき、少なくても真作として愉しめるように思います。



本作品をそれほどいい作品とは思えないという方もおられるでしょうが、狩野素川は「めでたい掛けの絵」を依頼され、自分も楽しんで描いたのかもしれません。ちいさめの作品ですので花街のお店に依頼されたものかもしれませんね。

忘れ去られた狩野素川・・・・、今一度見直してもよい狩野派の絵師かもしれません。



末端の流れの中で忘れら去られた狩野派の画家の作品?とはいえ、浅草猿屋町代地狩野家の当主ですから当時はそれなりのいい表具をしています。



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