寺崎廣業の作品に限らず描かれた年記(款記)のある作品は貴重です。
当方の蒐集対象である郷里の画家の寺崎廣業については、とくに年記(款記)のある作品は少ないので、本日の作品のように年記(款記)のある作品は資料的に貴重な作品となります。寺崎廣業の初期の頃の作品には年記(款記)の記述のある作品が多いですが、その後は席画も含めて作品数も多くなり、年記(款記)の記述のある作品が極端に少なくなっています。年記(款記)のない作品は落款の書体や印章から時代を推定することが多くなります。
本日は寺崎廣業の初期の頃の明治30年に描かれた作品を紹介します。
雨中残菊図 寺崎廣業筆 明治30年(1897年)秋
紙本水墨軸装 軸先象牙 野田九甫鑑定(昭和15年新春)箱入
全体サイズ:横441*縦2065 画サイズ:横303*縦1305
賛には「丁酉(1897年 明治30年)秋日冩 宗山廣業 押印」とあります。印章は「廣業」の朱文白丸印が押印されていますが、よく見られる同型のものと違いがあり、非常に稀な印章が押印されています。
1892年(明治25年)に画家の邨田丹陵の娘「菅子」と寺崎廣業は結婚し、これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられます。
この当時に結婚によって向島に居を構えましたが、火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともあります。この後の1898年(明治31年)に東京美術学校助教授に迎えられました。
なお翌年、東京美術学校の校長である岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の寺崎廣業は東京美術学校を去ることになります。天心と橋本雅邦らとともに日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らともに寺崎廣業もこれに参加しています。
これらの史実から「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定され、本作品は落款から1897年(明治30年)作と断定されます。明治30年以前に描かれた寺崎廣業の作品の残存数は極端に少なく、これは火災によって多くの粉本が焼失したことなども影響しているのでしょう。
*火災によって寺崎廣業の手元にあった作品の多くが焼失し、とくにこれ以前に修行のために描いた粉本が焼失したのは痛手と言ってよいでしょう。ただ寺崎廣業は「これから新しい絵が描ける。」と豪語していたようです。
**焼失したと思われていた粉本ですが当方には残存する粉本が三巻(本ブログですでに紹介済み)あります。これはとくに貴重な作品と言え、おそらく修業時代の粉本はこれしかないでしょう。
この時期の明治25年頃に諸派名画を模写し、寺崎廣業の総合的画法の基礎を築いたといわれ、この直後に挿絵の美人画などにて画家としての名を馳せるようになります。
本ブログではこの頃の作品についてもいく幾つかの作品を紹介していますが、「宗山」の落款のある作品では下記の2作品を紹介しています。
西王母之図 寺崎廣業筆 明治27年(1894年)夏
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2180*横635 画サイズ:縦1250*横500
酔李白図 寺崎廣業筆 明治27年(1894年)冬
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225
本作品を含めてこれらの3作品の落款を並べてみました。左が明治30年に描かれた本作品、中央と右が明治27年に描かれた上記2作品の年記のある落款と印章です。これ以降にながらくのあいだ、作品中に「宗山」とある印章が押印された作品を描いています。
本作品は落款の「廣業」の書体から他の2作品より少し後の作品と解ります。印章は前述のように非常に珍しいものです。
弟子の野田九甫の昭和15年の鑑定箱となっています。雨中の菊・・・、席画としてはいい出来の作品です。
ここまで原稿を書いてからさらに寺崎廣業の資料を調べていくと本作品中の印章が押印された作品を見つけることができました。
参考作品(同一印章の押印された作品)
月下少女
明治30年代 秋田市立千秋美術館蔵
作品サイズ:1436*686
通常の印章よりかなり大きめの印章ですね。
初期の頃の印章は図鑑などの資料には掲載されていませんが、様々な資料を調べていくと判明してくることも多く、印影が違うなどという安易な真贋の判断のみではなく、作品を十分に調べてから真贋の結論を出すべきで、辿り着くところやはり本来の真贋の根拠は作品の出来不出来のみが決め手ということを思い知らされることが多いですね。
*現在は地元出身の画家である寺崎廣業の未整理の作品について調査と整理をすすめていますので、投稿する記事に寺崎廣業の作品が多くなっています。
当方の蒐集対象である郷里の画家の寺崎廣業については、とくに年記(款記)のある作品は少ないので、本日の作品のように年記(款記)のある作品は資料的に貴重な作品となります。寺崎廣業の初期の頃の作品には年記(款記)の記述のある作品が多いですが、その後は席画も含めて作品数も多くなり、年記(款記)の記述のある作品が極端に少なくなっています。年記(款記)のない作品は落款の書体や印章から時代を推定することが多くなります。
本日は寺崎廣業の初期の頃の明治30年に描かれた作品を紹介します。
雨中残菊図 寺崎廣業筆 明治30年(1897年)秋
紙本水墨軸装 軸先象牙 野田九甫鑑定(昭和15年新春)箱入
全体サイズ:横441*縦2065 画サイズ:横303*縦1305
賛には「丁酉(1897年 明治30年)秋日冩 宗山廣業 押印」とあります。印章は「廣業」の朱文白丸印が押印されていますが、よく見られる同型のものと違いがあり、非常に稀な印章が押印されています。
1892年(明治25年)に画家の邨田丹陵の娘「菅子」と寺崎廣業は結婚し、これを機に義父の邨田直景の弟で漢学者の関口隆正より「宗山」の号を与えられます。
この当時に結婚によって向島に居を構えましたが、火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともあります。この後の1898年(明治31年)に東京美術学校助教授に迎えられました。
なお翌年、東京美術学校の校長である岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の寺崎廣業は東京美術学校を去ることになります。天心と橋本雅邦らとともに日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らともに寺崎廣業もこれに参加しています。
これらの史実から「宗山」の印章、号のある作品は明治25年以降の作と推定され、本作品は落款から1897年(明治30年)作と断定されます。明治30年以前に描かれた寺崎廣業の作品の残存数は極端に少なく、これは火災によって多くの粉本が焼失したことなども影響しているのでしょう。
*火災によって寺崎廣業の手元にあった作品の多くが焼失し、とくにこれ以前に修行のために描いた粉本が焼失したのは痛手と言ってよいでしょう。ただ寺崎廣業は「これから新しい絵が描ける。」と豪語していたようです。
**焼失したと思われていた粉本ですが当方には残存する粉本が三巻(本ブログですでに紹介済み)あります。これはとくに貴重な作品と言え、おそらく修業時代の粉本はこれしかないでしょう。
この時期の明治25年頃に諸派名画を模写し、寺崎廣業の総合的画法の基礎を築いたといわれ、この直後に挿絵の美人画などにて画家としての名を馳せるようになります。
本ブログではこの頃の作品についてもいく幾つかの作品を紹介していますが、「宗山」の落款のある作品では下記の2作品を紹介しています。
西王母之図 寺崎廣業筆 明治27年(1894年)夏
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2180*横635 画サイズ:縦1250*横500
酔李白図 寺崎廣業筆 明治27年(1894年)冬
絖本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横290*縦1180 画サイズ:横170*縦225
本作品を含めてこれらの3作品の落款を並べてみました。左が明治30年に描かれた本作品、中央と右が明治27年に描かれた上記2作品の年記のある落款と印章です。これ以降にながらくのあいだ、作品中に「宗山」とある印章が押印された作品を描いています。
本作品は落款の「廣業」の書体から他の2作品より少し後の作品と解ります。印章は前述のように非常に珍しいものです。
弟子の野田九甫の昭和15年の鑑定箱となっています。雨中の菊・・・、席画としてはいい出来の作品です。
ここまで原稿を書いてからさらに寺崎廣業の資料を調べていくと本作品中の印章が押印された作品を見つけることができました。
参考作品(同一印章の押印された作品)
月下少女
明治30年代 秋田市立千秋美術館蔵
作品サイズ:1436*686
通常の印章よりかなり大きめの印章ですね。
初期の頃の印章は図鑑などの資料には掲載されていませんが、様々な資料を調べていくと判明してくることも多く、印影が違うなどという安易な真贋の判断のみではなく、作品を十分に調べてから真贋の結論を出すべきで、辿り着くところやはり本来の真贋の根拠は作品の出来不出来のみが決め手ということを思い知らされることが多いですね。
*現在は地元出身の画家である寺崎廣業の未整理の作品について調査と整理をすすめていますので、投稿する記事に寺崎廣業の作品が多くなっています。