
週末にて引越し完了しましたが、まだまだ家中はダンボールだらけです。「あれ? 社員バッジは? あれ? ベルトは? あれ? 転出証明の書類は?」とダンボールを開けまくり・・・。
10回を超える家族共々の引越し。さすがにくたびれました。いつもながらがらんとした住まいを後にするときは、なんともいえない寂寥感に襲われます。職場も変わるときには仕事仲間との別れもつきまとい、前に進む気力をふりしぼるのがいつもたいへんだったことを思い出しました。仕事仲間との付き合いがいつも暖かかったのが救いでした。
今回去ることとなった住居への引越しもまた、引越し直後の仲間との「きりたんぽ鍋」から始まりました。そのときのメンバーの一人が現在の家内です
唯一の家族である家内を病気で亡くし、その直後に引越しをして、今度は家族が二人増えての引越しです。人生いろいろあるものです。
このたびの新居は十五夜の満月が迎えてくれました。縁起が良さそうですね。子供は変わった環境で大はしゃぎで夜更かをし小生は朝が早いのでグロッキー気味、しかも夜には会食
ということでブログの投稿原稿を作成する時間がなく、ありあわせの原稿の投稿です。
さて「釧雲泉 その後」シリーズはまだまだ続きます。「その12」は真贋に自信がありませんでした(後日に贋作とほぼ断定)が、さらに「その13」を投稿します。「その10」、「その11」(両作は真作と判断しています)ほどの自信はありませんがよさそうという推察の域の作品です。
丙寅浅絳山水図 「伝」釧雲泉筆 その13
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2140*横950 画サイズ:縦1600*横780

浅絳山水図と呼ばれる初秋を描いた淡彩による山水図です。

賛には「丙寅七月(陽暦では大体8月上旬から9月上旬)下浣 雲泉山樵 押印」とあり、文化4年(1806年)の現在では9月上旬、47歳の夏の作と推察されます。

文化2年(1805)46歳のとき、大窪詩仏とともに信越に旅をし、越後の新潟に着いた頃の作品かと思われ、秋の霞む山と入り江の情景を描いた山水の作品と思われます。

当方の所蔵作品「浅絳山水画双幅」「山水図」に同じ印章、「浅絳山水図 その1、その2」(当方の整理番号)と同じ頃に描かれた作品とは推察されますが、現段階では本作品は「伝」としましょう。

表具をきちんとすると見栄えのしそうな作品です。
釧雲泉の作品に詳しい「すぎぴい」さんからは「その10」、「その11」は真作、「その12」は贋作との内容の考察をコメントにていただきましたが、ほぼこちらの推察と一致しました。「すぎぴい」さんの資料に基づいた的確なコメントには驚くばかりです。ご指導頂いた「2013年5月10日の投稿の作品」と本作品は製作時期が近いように思われます。
引越しで整理したはずの作品がまたあちこちへ・・。欲張って他の男の隠れ家の作品の一部を集めたものだからますます整理がつかなくなり頭が混乱しています。1,000を超える作品なので記憶が・・・、記憶力の低下?? 否、引越しの荷意外にこれだけ覚えているほうが異常か?
「住居も骨董もほんの人生の些細なことでしかない。もっとも大切なものを大事にしなくてはいけない。」と考えんがら会食後に一眠り後に投稿したのですが、再び睡魔が襲ってきました。
10回を超える家族共々の引越し。さすがにくたびれました。いつもながらがらんとした住まいを後にするときは、なんともいえない寂寥感に襲われます。職場も変わるときには仕事仲間との別れもつきまとい、前に進む気力をふりしぼるのがいつもたいへんだったことを思い出しました。仕事仲間との付き合いがいつも暖かかったのが救いでした。
今回去ることとなった住居への引越しもまた、引越し直後の仲間との「きりたんぽ鍋」から始まりました。そのときのメンバーの一人が現在の家内です

唯一の家族である家内を病気で亡くし、その直後に引越しをして、今度は家族が二人増えての引越しです。人生いろいろあるものです。
このたびの新居は十五夜の満月が迎えてくれました。縁起が良さそうですね。子供は変わった環境で大はしゃぎで夜更かをし小生は朝が早いのでグロッキー気味、しかも夜には会食

ということでブログの投稿原稿を作成する時間がなく、ありあわせの原稿の投稿です。
さて「釧雲泉 その後」シリーズはまだまだ続きます。「その12」は真贋に自信がありませんでした(後日に贋作とほぼ断定)が、さらに「その13」を投稿します。「その10」、「その11」(両作は真作と判断しています)ほどの自信はありませんがよさそうという推察の域の作品です。
丙寅浅絳山水図 「伝」釧雲泉筆 その13
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2140*横950 画サイズ:縦1600*横780

浅絳山水図と呼ばれる初秋を描いた淡彩による山水図です。

賛には「丙寅七月(陽暦では大体8月上旬から9月上旬)下浣 雲泉山樵 押印」とあり、文化4年(1806年)の現在では9月上旬、47歳の夏の作と推察されます。

文化2年(1805)46歳のとき、大窪詩仏とともに信越に旅をし、越後の新潟に着いた頃の作品かと思われ、秋の霞む山と入り江の情景を描いた山水の作品と思われます。

当方の所蔵作品「浅絳山水画双幅」「山水図」に同じ印章、「浅絳山水図 その1、その2」(当方の整理番号)と同じ頃に描かれた作品とは推察されますが、現段階では本作品は「伝」としましょう。

表具をきちんとすると見栄えのしそうな作品です。
釧雲泉の作品に詳しい「すぎぴい」さんからは「その10」、「その11」は真作、「その12」は贋作との内容の考察をコメントにていただきましたが、ほぼこちらの推察と一致しました。「すぎぴい」さんの資料に基づいた的確なコメントには驚くばかりです。ご指導頂いた「2013年5月10日の投稿の作品」と本作品は製作時期が近いように思われます。
引越しで整理したはずの作品がまたあちこちへ・・。欲張って他の男の隠れ家の作品の一部を集めたものだからますます整理がつかなくなり頭が混乱しています。1,000を超える作品なので記憶が・・・、記憶力の低下?? 否、引越しの荷意外にこれだけ覚えているほうが異常か?
「住居も骨董もほんの人生の些細なことでしかない。もっとも大切なものを大事にしなくてはいけない。」と考えんがら会食後に一眠り後に投稿したのですが、再び睡魔が襲ってきました。
現存するかは別としても、資料としてはこの時期の作品が多く散見され、また「秋7月」の作品も多いことから、人々の目に触れる中で、中には後世の贋作も多いことが推測されます。
今回ご紹介の掛軸については、私は落款部分にやや違和感を感じました。というのは、これまで触れた資料ではここまでの大幅の作品は無いことはないのですが数は少ないので、大幅の特徴なのかもしれませんが、通常款記と落款署名がここまで字体の大きさが異なる作品は見たことが無いためです。絵のタイトルを大きく書いて、その後款記が小さめの字体、というのは良くあるのですが、自らの署名のみをここまで大きく書いた作品は類例が無い部分が違和感の理由です。また、「七月」の書体、特に「月」について雲泉の書体は右側の縦線が反るような感じが特徴ですが(以前のご投稿の江山肅雨のように)、この作品の月の字体がその特徴が無いため、「うーん」と思った所です。
つまらないコメントですみませんが、多分絵の全体の雰囲気がちょっと締まりが無くてあんまり好みじゃないかなあ、という個人的な思いもあって、辛口な見方になったかもしれません。
正直なところ当方では落款は「いいかな」と思っておりました。ただし、絵全体がぼんやししている点が気になっていました。
やはり「伝」(当ブログでは真作として認めていないということ)でしょうね。ちょっぴり残念です。