
谷文晁の作品の紹介は本ブログで2作品目の紹介となります。なお子息の谷文一の作品についても本ブログに紹介されています。いずれの作品も当方では真作と判断している作品ですが、相変わらず「伝」としておきましょう。
*谷文晁の他の作品、谷文一の作品は本ブログの記事を参考にしてください。

ただ正直なところ、この偉大な画家を当方、並びに家内もまたあまり好みとしていません。青緑山水画などの作品は、「仕官している画家」として捉えているせいか、派手さはあっても渋味がないという、どこか面白味に欠けている趣向の作品と感じられ、当方の趣向と合わない画風としてとらえているせいかもしれません。

本日紹介する作品はまだ若い頃の作と思われる谷文晁の作品です。この作品は当方の趣向と合っていると感じています
渓秋太公望 伝谷文晃筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 佐竹永陵鑑定箱入
全体サイズ:縦2000*横520 画サイズ:縦1125*横440

賛には「甲虎仲冬於小峰山房 文晁筆 押印(朱文白方印「谷文晁印」)とあり、34歳頃の1794年(寛政6年)冬に描いた作品と推定されます。

「小峰山房」とは谷文晁がちょうどこの頃に奥州関門の名城と謳われた白河小峰城の三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えていますので、「小峰山房」とはこのアトリエのことでしょう。後になって開設された有名な写山楼の前身のアトリエと言えるのかもしれません。印章の確認は手元に資料が少なく後学とします。

款記中の「仲冬」は冬三か月の中の月、陰暦11月の異名のことです。12月10日から1月7日が陰暦11月にあたります。寛政6年に文晁は2月27日に感応寺にて古画鑑賞会を催し、馬孟熙等の作品を縮写しています。4月2日には縮写をまとめた「書画甲鑑」が成されています。夏には松平定信の入封に従って白河に赴いています。さらに松島に遊びこの年はこのままま白河にて越年したようです。よって本作品は寛政6年の年末ではなく、1月初旬に描かれた作品と推定されます。

谷文晁の30歳前後の例歴は下記の資料のとおりです。
**********************************************
谷文晁と画塾写山楼:26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり、定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。
寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し、図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し、古書画や古宝物の写生を行った。また「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。
奥州関門の名城と謳われた白河小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。文晁は自他共に認める旅好きで、30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は4、5か国に過ぎなかったという。
旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図絵』として刊行した。文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しまれ、後世の山の見方に影響を与えたという。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。
画塾・写山楼には多くの弟子が入門し、渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し、楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。なお、この写山楼は2階建て・20畳であった。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われた。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だった。弟子思いの師として有名であるが、権威主義的であるとの批判も残される。
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*渡辺崋山、立原杏所らの作品も当方のブログで紹介されています。

巻き止めには「文晁老人筆 太公望図 (佐竹)永陵鑑 押印」とあります。箱裏には「後学永陵鑑於写山画(楼)?房中 押印」とあります。

佐竹永稜は明治期から昭和初期の日本画家で、「谷文晁の鑑定では第一人者」といわれています。 佐竹永稜は号、別号に写山画房・巍々堂などがあります。
佐竹永稜の作品は本ブログにおそらく投稿された作品はないと思いますが、先代の佐竹永海の作品は本ブログに投稿されています。
ちなみに佐竹永陵の来歴は下記のとおりです。
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佐竹永稜:(さたけ えいりょう)明治5年5月5日(1872年6月10日)~ 昭和12年(1937年)1月8日)は明治期から昭和初期の日本画家。谷文晁の鑑定では第一人者といわれる。 旧姓黒田。名は銀十郎。永稜は号、別号に写山画房・巍々堂など。
東京浅草の生まれ。はじめ外祖父にあたる正木竜塘について書法を学ぶが、後に画に興味をもち佐竹永湖に師事する。谷文晁の南北合流の画法をよく学びその画力を認められ、明治20年(1887年)永湖の娘婿となり佐竹永海から続く佐竹家画系の3代目となった。
各種展覧会・共進会で受賞多数。宮内庁に実績が認められ数十回も御用品となる。明治27年(1894年)、明治天皇御前揮毫の栄誉に浴し、その後も大正天皇の御前揮毫を三回行っている。
明治31年(1898年)、日本画会の結成に参画、明治39年(1906年)には松林桂月・小坂芝田らと日本南宗画会を創設するなど活躍した。日本美術協会第一部委員・日本画家協会幹事・日本書道会幹事などの要職を歴任。享年66。谷中霊園に墓がある。
文晁の実子谷文二が夭折し、文晁門の粉本類・遺作などは佐竹家に伝わった。文晁の研究を熱心に行い、文晁の作品鑑定の第一人者といわれた。しかし、大正期の火災によりこれら粉本類や諸記録などはすべて焼失した。
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大切な資料がすべて失われたというから、火災は怖いものですね。蒐集する者にとって火災は天敵です。

表具も古いままでいい表具ですので、多少の折れ目があるもののこのままとします。

以上のような知見?を踏まえて購入する際には、たよりない美的感性と相俟って購入に踏み切りましたが、一応真贋は不詳ですが、かなりの確率で真作に相違ないと考えています。
ただしこの構図と同じ作品は谷文晁の作品には他にもあります。たとえば下記のような作品ですが、他にもあるかもしれません。
谷文晁 太公望之図
文化10年(1813年)
軸寸(軸先まで)236×84 画寸(絹本)131×65 二重箱 (売値:33万円)

この作品が描かれたとされる文化10年9月には木村蒹葭の13回忌に伴い大応寺にて書画展覧会が催されています。この時に有名な「木村蒹葭堂肖像」が出品されています。ブログで紹介した本作品より大きな作品ですが、共に書画鑑賞会の前に描かれているのは興味深いです。
同図の作品は贋作も疑われますが、ただ多くの日本画家は描いた作品の下絵をもっており、その下絵をもとに驚くほど同じ構図の作品を描くことがあります。南画もまた本来思いつくままに筆をふるったようでありながら、同じような構図の作品があって、頭を悩ませるものです。

上記作品は本ブログで紹介した作品より約20年後の作品で、より太公望の不気味さが洗練されて表現されているように思います。
画題の太公望(呂尚)については何度か本ブログに記事を投稿していますが、詳細な記述は下記のとおりです。
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呂尚(りょ しょう):紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖姓は姜。氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。
歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年、徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。
太公望:中国周時代の賢者。氏は呂、名は尚。魚を釣って沈思することを楽しみとしていた。時に西伯(文王)が猟に出ようと占うと獲るものは動物ではなく自分を補佐する人物とでた。そして、渭水のほとりでこの呂尚と出会い、喜んで師とした。これより、太公望は西伯を援けて王者の師となった。これより、太公望は西伯を援けて天下の三分の二を領し、ついで武王を援けて紂を破って周の天下となし、百余歳でなお王の師であった。太公望が江岸に釣糸を垂れる図は古来から好画材であった。海北友松、尾形光琳等の作品がある。
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*太公望を描いた作品は本ブログでも他に幾つかの作品を紹介しています。

この作品は太公望の奇異な顔に注目しがちですが、周囲の描き方にも画力がうかがえます。

あまり好みでなかった谷文晁ですが、この作品は気に入りました。

太公望・・・、したたかな策士、「熟慮を重ねて行動せよ。」か、これは経営者に必要不可欠な要素かもしれません。
*谷文晁の他の作品、谷文一の作品は本ブログの記事を参考にしてください。

ただ正直なところ、この偉大な画家を当方、並びに家内もまたあまり好みとしていません。青緑山水画などの作品は、「仕官している画家」として捉えているせいか、派手さはあっても渋味がないという、どこか面白味に欠けている趣向の作品と感じられ、当方の趣向と合わない画風としてとらえているせいかもしれません。

本日紹介する作品はまだ若い頃の作と思われる谷文晁の作品です。この作品は当方の趣向と合っていると感じています

渓秋太公望 伝谷文晃筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 佐竹永陵鑑定箱入
全体サイズ:縦2000*横520 画サイズ:縦1125*横440


賛には「甲虎仲冬於小峰山房 文晁筆 押印(朱文白方印「谷文晁印」)とあり、34歳頃の1794年(寛政6年)冬に描いた作品と推定されます。


「小峰山房」とは谷文晁がちょうどこの頃に奥州関門の名城と謳われた白河小峰城の三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えていますので、「小峰山房」とはこのアトリエのことでしょう。後になって開設された有名な写山楼の前身のアトリエと言えるのかもしれません。印章の確認は手元に資料が少なく後学とします。

款記中の「仲冬」は冬三か月の中の月、陰暦11月の異名のことです。12月10日から1月7日が陰暦11月にあたります。寛政6年に文晁は2月27日に感応寺にて古画鑑賞会を催し、馬孟熙等の作品を縮写しています。4月2日には縮写をまとめた「書画甲鑑」が成されています。夏には松平定信の入封に従って白河に赴いています。さらに松島に遊びこの年はこのままま白河にて越年したようです。よって本作品は寛政6年の年末ではなく、1月初旬に描かれた作品と推定されます。

谷文晁の30歳前後の例歴は下記の資料のとおりです。
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谷文晁と画塾写山楼:26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり、定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。
寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し、図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し、古書画や古宝物の写生を行った。また「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。
奥州関門の名城と謳われた白河小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。文晁は自他共に認める旅好きで、30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は4、5か国に過ぎなかったという。
旅の途次に各地の山を写生し、名著『日本名山図絵』として刊行した。文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しまれ、後世の山の見方に影響を与えたという。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。
画塾・写山楼には多くの弟子が入門し、渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し、楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。なお、この写山楼は2階建て・20畳であった。弟子に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われた。しかし、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だった。弟子思いの師として有名であるが、権威主義的であるとの批判も残される。
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*渡辺崋山、立原杏所らの作品も当方のブログで紹介されています。

巻き止めには「文晁老人筆 太公望図 (佐竹)永陵鑑 押印」とあります。箱裏には「後学永陵鑑於写山画(楼)?房中 押印」とあります。


佐竹永稜は明治期から昭和初期の日本画家で、「谷文晁の鑑定では第一人者」といわれています。 佐竹永稜は号、別号に写山画房・巍々堂などがあります。
佐竹永稜の作品は本ブログにおそらく投稿された作品はないと思いますが、先代の佐竹永海の作品は本ブログに投稿されています。
ちなみに佐竹永陵の来歴は下記のとおりです。
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佐竹永稜:(さたけ えいりょう)明治5年5月5日(1872年6月10日)~ 昭和12年(1937年)1月8日)は明治期から昭和初期の日本画家。谷文晁の鑑定では第一人者といわれる。 旧姓黒田。名は銀十郎。永稜は号、別号に写山画房・巍々堂など。
東京浅草の生まれ。はじめ外祖父にあたる正木竜塘について書法を学ぶが、後に画に興味をもち佐竹永湖に師事する。谷文晁の南北合流の画法をよく学びその画力を認められ、明治20年(1887年)永湖の娘婿となり佐竹永海から続く佐竹家画系の3代目となった。
各種展覧会・共進会で受賞多数。宮内庁に実績が認められ数十回も御用品となる。明治27年(1894年)、明治天皇御前揮毫の栄誉に浴し、その後も大正天皇の御前揮毫を三回行っている。
明治31年(1898年)、日本画会の結成に参画、明治39年(1906年)には松林桂月・小坂芝田らと日本南宗画会を創設するなど活躍した。日本美術協会第一部委員・日本画家協会幹事・日本書道会幹事などの要職を歴任。享年66。谷中霊園に墓がある。
文晁の実子谷文二が夭折し、文晁門の粉本類・遺作などは佐竹家に伝わった。文晁の研究を熱心に行い、文晁の作品鑑定の第一人者といわれた。しかし、大正期の火災によりこれら粉本類や諸記録などはすべて焼失した。
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大切な資料がすべて失われたというから、火災は怖いものですね。蒐集する者にとって火災は天敵です。

表具も古いままでいい表具ですので、多少の折れ目があるもののこのままとします。

以上のような知見?を踏まえて購入する際には、たよりない美的感性と相俟って購入に踏み切りましたが、一応真贋は不詳ですが、かなりの確率で真作に相違ないと考えています。
ただしこの構図と同じ作品は谷文晁の作品には他にもあります。たとえば下記のような作品ですが、他にもあるかもしれません。
谷文晁 太公望之図
文化10年(1813年)
軸寸(軸先まで)236×84 画寸(絹本)131×65 二重箱 (売値:33万円)


この作品が描かれたとされる文化10年9月には木村蒹葭の13回忌に伴い大応寺にて書画展覧会が催されています。この時に有名な「木村蒹葭堂肖像」が出品されています。ブログで紹介した本作品より大きな作品ですが、共に書画鑑賞会の前に描かれているのは興味深いです。
同図の作品は贋作も疑われますが、ただ多くの日本画家は描いた作品の下絵をもっており、その下絵をもとに驚くほど同じ構図の作品を描くことがあります。南画もまた本来思いつくままに筆をふるったようでありながら、同じような構図の作品があって、頭を悩ませるものです。

上記作品は本ブログで紹介した作品より約20年後の作品で、より太公望の不気味さが洗練されて表現されているように思います。
画題の太公望(呂尚)については何度か本ブログに記事を投稿していますが、詳細な記述は下記のとおりです。
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呂尚(りょ しょう):紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖姓は姜。氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。
歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に建立された。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年、徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた。
太公望:中国周時代の賢者。氏は呂、名は尚。魚を釣って沈思することを楽しみとしていた。時に西伯(文王)が猟に出ようと占うと獲るものは動物ではなく自分を補佐する人物とでた。そして、渭水のほとりでこの呂尚と出会い、喜んで師とした。これより、太公望は西伯を援けて王者の師となった。これより、太公望は西伯を援けて天下の三分の二を領し、ついで武王を援けて紂を破って周の天下となし、百余歳でなお王の師であった。太公望が江岸に釣糸を垂れる図は古来から好画材であった。海北友松、尾形光琳等の作品がある。
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*太公望を描いた作品は本ブログでも他に幾つかの作品を紹介しています。

この作品は太公望の奇異な顔に注目しがちですが、周囲の描き方にも画力がうかがえます。

あまり好みでなかった谷文晁ですが、この作品は気に入りました。

太公望・・・、したたかな策士、「熟慮を重ねて行動せよ。」か、これは経営者に必要不可欠な要素かもしれません。