年末年始に帰省しましたが、息子は郷里には雪があると帰省前から大はしゃぎです。今年は雪が少なくて心配しましたが、案の定例年の半分以下でした。それでも屋根から落雪して堆積した雪の山で「そり滑り」を帰省早々に始めました。
家内は滑るところを作ったりしていましたが、そのうちに案の定風邪気味になりました。小生は高みの見物でしたが、滑るところに水を撒いてあげて滑るようにしてあげ、そりの滑り方息子に伝授・・・。帰京するまでともかく雪を満喫したようです。スキー場に行こうかと思いましたが、時間がなくそれはまた来年かな? 来年はそろそろスキーを教えてあげようかと思います。
さて本日本日は小林清親の版画の作品の紹介ですが、他に小林清親の肉筆画などは本ブログで紹介されています。小林清親は夜の光線を描く「光線画」の版画家として高く評価されていますね。
*左下に飾られている花入は古上野焼です。
東京名所図 高輪牛町朧月景 小林清親画
紙本着色版画額装 復刻摺 誂:布タトウ+黄袋
明治12年 画サイズ:横340*縦230
旧暦明治5年9月12日、今の西洋暦にすると1872年10月14日に、新橋駅と横浜駅を結んだ日本最初の鉄道が開業し,大正10年10月14日に鉄道開業50周年を記念して丸の内北口に鉄道博物館が開館し、その翌年からこの日が鉄道記念日と制定されました。国鉄の分割民営化後も10月14日のこの日は「鉄道の日」とされています。
本作品は夕暮れの中を走る蒸気機関車で、ヘッドライトがついています。煙突からは炎まで見え、煙ももくもくとあがっています。客車の中にもライトがついており、光と陰、そのゆらぎ、色の移ろいなどを巧みに表現され、一般に光線画と通称されたジャンルを確立した小林清親の作品です。
西洋画から学んだとされる写実的な表現が特徴で、江戸から東京へと変わっていくこの時代の風景を清親は数多く描いています。これらの一連の作品は東京名所図と一般に呼ばれますが、東海道五十三次のような続き物ではないようです。
ところでこの絵はアメリカ製の蒸気機関車が描かれているのですが、実際に走ったのはイギリス製で、煙突の形も違ったとのことです。清親は実際に走っている姿を見て書いたのではなく、なにかの絵などを参考にして、この絵を描いたと推察されています。
こちらの作品は復刻されてたものと推察されます。
本作品は復刻版で初版は下記の写真のものです。
初版には左の耳の部分に発行元が記されています。
前にも紹介しましたが、小林清親の来歴は下記のとおりです。
**********************************
小林清親(こばやし きよちか):弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉~大正4年〈1915年〉11月28日)。明治時代の版画家、浮世絵師。月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵界の三傑の一人に数えられ、しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評されます。
生い立ち ─浮世絵師となるまで
方円舎、真生、真生楼と号す。清親は、江戸本所の御蔵屋敷で生まれた。父・小林茂兵衛が年貢米の陸揚げを管理する小揚頭(こあげがしら)という、御蔵屋敷では端役の小揚人夫の頭取だったからである。清親は七人兄弟の末子で、幼名は勝之助といった。兄弟のうち三人は既に亡く、兄3人姉2人がいた。
文久2年(1862年)10月14日、15歳の時に父が死に、兄達は既に別居していたため同居して最も信頼を得ていた勝之助が元服し家督を継ぎ、清親と名乗った。その後勘定所に配属され、慶応元年(1865年)の徳川家茂上洛の際には勘定所下役としてこれに随行し、しばらく大坂で生活している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いや上野戦争に幕府軍として参加した武士の一人であった。
江戸幕府崩壊後、清親は他の幕臣たちと共に静岡に下り、一時三保に住んだ。後に浜名湖鷲津に移った。明治6年(1873年)頃東京に戻り、180cmを超える体格を買われ剣豪榊原鍵吉の率いる剣術興行団員として、大坂、静岡などを転々とする。しかし生活は苦しく、明治7年(1874年)絵描きを志すようになった。清親はこの頃、西洋画をチャールズ・ワーグマンに学ぶが、すぐにワーグマンの不興を買って足蹴にされたらしい。怒った清親は上京し、日本画を河鍋暁斎や柴田是真、淡島椿岳に学んだ。さらにこの時期に、下岡蓮杖に写真の手ほどきも受けていたという。現存する写生帳(個人蔵)では、明治10年代の時点で高い水彩画の技術を身に付けていることがわかる。
「明治の広重」
それから二年後の明治9年(1876年)、清親は大黒屋(四代目松木平吉)より洋風木版画の「東京江戸橋之真景」「東京五代橋之一両国真景」でデビュー、同年8月31日から「光線画」と称して昭和初年以来『東京名所図』と総称される風景画シリーズ(計95種)を出版し始める。清親は、その西洋画風を取り入れたそれまでの浮世絵にはなかった新しい空間表現、水や光の描写と郷愁を誘う感傷が同居した独自の画風が人気を博し、浮世絵版画に文明開化をもたらした。
しかし明治14年(1881年)の両国の大火後、清親は光線画から遠ざかり、翌年から『團團珍聞』などに「清親ポンチ」なるポンチ絵を描くようになった。また『日本外史之内』などの歴史画や、広重に回帰する『武蔵百景之内』(明治17-18年、全34図)、『東京名勝図会』(明治29-30年、全28図[5])、新聞や雑誌の挿絵など画域を広げていく。日清、日露戦争では戦争画を数多く描くが、その後錦絵の衰退により肉筆浮世絵を多く描くようになった。浅草小島町、山ノ宿、下谷車坂町に住み、上野、浅草を描いた絵も多い。清親は明治27年(1894年)から明治29年(1896年)までの間、「清親画塾」を開いている。明治31年(1898年)ころには錦絵版画が衰退期になって版画の仕事はほとんどなくなる。明治33年(1900年)夏、三女の奈津と福山、明石へ旅行し、秋に金沢へ赴き肉筆画を描くとともに、陶器に絵付けをする。明治34年(1901年)、『二六新報』社の主催した労働者懇親会に関連したため当局から注視され、後に同紙の新聞記事問題に関係して一時未決監に入れられた。同年、諏訪、岡谷へ旅行、肉筆画などを描いた。明治36年(1903年)、浅草、山の宿河岸52番地に転居した。
明治37年(1904年) 清親の妻が浅草花屋敷に店を借りて絵葉書、扇子絵を販売する。清親は日露戦争を題材とした戦争絵を翌年にかけて描く。明治39年(1906年)の日露戦争後は錦絵界は全く不振となり、同年7月から翌年5月まで弘前に滞在、肉筆画を描いた。また、麹町区富士見町5の16に転居した。明治40年(1907年)、60歳で東京府主催の東京勧業博覧会に「大火の図」を出品する。明治41年(1908年)自らの還暦を祝した千画会では、両国美術クラブで「福神の手踊」、「雷神の酒店」など1000点以上の絵を描き健筆ぶりを示している。明治42年(1909年)、牛込界隈の図を描く。明治44年(1911年)9月、清親は平塚雷鳥らが創刊した雑誌『青鞜』の編集委員を務めた。のちに持病のリウマチが高じ、清親は1914年(大正3年)に没した。享年68。法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院にあり、清親画伯之碑もある。清親の弟子に同じく光線画を描いた井上安治、ポンチ絵や戦争画を描いた田口米作、また詩人として知られる金子光晴、30年間に渡って師事した土屋光逸、珍品収集家として知られる三田平凡寺、武田広親、篠原清興、吉田美芳、高橋芝山、牧野昌広らがいる。
清親は江戸から東京への絵画の変遷を体現した画家として注目され、浮世絵の歴史は清親の死によって終わったともいえる。清親は、生前から現在まで常に研究対象として常に一定以上の関心を払われており、近年ようやく本格的な研究が進みつつある明治期の浮世絵師のなかでは異例のことであった。
親族
最初の妻きぬは鷲津村の農家の次女で、明治3年4月に清親と結婚、明治9年の4月に正式に結婚した。明治11年11月11日に長女の銀子が、明治14年に次女の鶴子が生まれている。明治16年にきぬと離婚し、明治17年に田島芳子と結婚する。明治19年8月15日に三女の奈津子が生まれ、明治23年に四女のせい子が生まれた。明治27年11月14日には五女の哥津子が生まれている。五女の哥津は仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に在学中に平塚雷鳥の『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉(尾竹越堂娘)らと同誌の編集に携わった。
**********************************
本来浮世絵らの版画作品はあまり額に入れて保存しません。それは額に入れて飾っておくと日焼した部分にマットの跡がついたりするからです。版画の顔料は変色しやすく、シミ抜きなどの修復も難しいからです。
また裏打ちなどしては評価が下がるのでしないものです。額に入れて飾る場合は短期間しか飾らないということが必要でしょう。版画はタトウに入れてそのまま保管しておくのが一番でしょう。
当方ではそのような理由から額には入れますが、飾る期間は短期間のみとしています。
額に入れるのはあくまで保管上の理由からですが、額には黄袋と中身の解るようにしておくことが必要です。タトウは誤って作品を落とさないため、黄袋はタトウから作品を取り出しやすくするためです。タイトルは一定方向に行い、必ず棚に収納する場合は縦横2方向から作品が解るようにすることです。
スキーもそりも同じ、物事にはコツというものが必ずあります。コンスタントに継続的に行うことが必要ですね。
家内は滑るところを作ったりしていましたが、そのうちに案の定風邪気味になりました。小生は高みの見物でしたが、滑るところに水を撒いてあげて滑るようにしてあげ、そりの滑り方息子に伝授・・・。帰京するまでともかく雪を満喫したようです。スキー場に行こうかと思いましたが、時間がなくそれはまた来年かな? 来年はそろそろスキーを教えてあげようかと思います。
さて本日本日は小林清親の版画の作品の紹介ですが、他に小林清親の肉筆画などは本ブログで紹介されています。小林清親は夜の光線を描く「光線画」の版画家として高く評価されていますね。
*左下に飾られている花入は古上野焼です。
東京名所図 高輪牛町朧月景 小林清親画
紙本着色版画額装 復刻摺 誂:布タトウ+黄袋
明治12年 画サイズ:横340*縦230
旧暦明治5年9月12日、今の西洋暦にすると1872年10月14日に、新橋駅と横浜駅を結んだ日本最初の鉄道が開業し,大正10年10月14日に鉄道開業50周年を記念して丸の内北口に鉄道博物館が開館し、その翌年からこの日が鉄道記念日と制定されました。国鉄の分割民営化後も10月14日のこの日は「鉄道の日」とされています。
本作品は夕暮れの中を走る蒸気機関車で、ヘッドライトがついています。煙突からは炎まで見え、煙ももくもくとあがっています。客車の中にもライトがついており、光と陰、そのゆらぎ、色の移ろいなどを巧みに表現され、一般に光線画と通称されたジャンルを確立した小林清親の作品です。
西洋画から学んだとされる写実的な表現が特徴で、江戸から東京へと変わっていくこの時代の風景を清親は数多く描いています。これらの一連の作品は東京名所図と一般に呼ばれますが、東海道五十三次のような続き物ではないようです。
ところでこの絵はアメリカ製の蒸気機関車が描かれているのですが、実際に走ったのはイギリス製で、煙突の形も違ったとのことです。清親は実際に走っている姿を見て書いたのではなく、なにかの絵などを参考にして、この絵を描いたと推察されています。
こちらの作品は復刻されてたものと推察されます。
本作品は復刻版で初版は下記の写真のものです。
初版には左の耳の部分に発行元が記されています。
前にも紹介しましたが、小林清親の来歴は下記のとおりです。
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小林清親(こばやし きよちか):弘化4年8月1日〈1847年9月10日〉~大正4年〈1915年〉11月28日)。明治時代の版画家、浮世絵師。月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵界の三傑の一人に数えられ、しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評されます。
生い立ち ─浮世絵師となるまで
方円舎、真生、真生楼と号す。清親は、江戸本所の御蔵屋敷で生まれた。父・小林茂兵衛が年貢米の陸揚げを管理する小揚頭(こあげがしら)という、御蔵屋敷では端役の小揚人夫の頭取だったからである。清親は七人兄弟の末子で、幼名は勝之助といった。兄弟のうち三人は既に亡く、兄3人姉2人がいた。
文久2年(1862年)10月14日、15歳の時に父が死に、兄達は既に別居していたため同居して最も信頼を得ていた勝之助が元服し家督を継ぎ、清親と名乗った。その後勘定所に配属され、慶応元年(1865年)の徳川家茂上洛の際には勘定所下役としてこれに随行し、しばらく大坂で生活している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いや上野戦争に幕府軍として参加した武士の一人であった。
江戸幕府崩壊後、清親は他の幕臣たちと共に静岡に下り、一時三保に住んだ。後に浜名湖鷲津に移った。明治6年(1873年)頃東京に戻り、180cmを超える体格を買われ剣豪榊原鍵吉の率いる剣術興行団員として、大坂、静岡などを転々とする。しかし生活は苦しく、明治7年(1874年)絵描きを志すようになった。清親はこの頃、西洋画をチャールズ・ワーグマンに学ぶが、すぐにワーグマンの不興を買って足蹴にされたらしい。怒った清親は上京し、日本画を河鍋暁斎や柴田是真、淡島椿岳に学んだ。さらにこの時期に、下岡蓮杖に写真の手ほどきも受けていたという。現存する写生帳(個人蔵)では、明治10年代の時点で高い水彩画の技術を身に付けていることがわかる。
「明治の広重」
それから二年後の明治9年(1876年)、清親は大黒屋(四代目松木平吉)より洋風木版画の「東京江戸橋之真景」「東京五代橋之一両国真景」でデビュー、同年8月31日から「光線画」と称して昭和初年以来『東京名所図』と総称される風景画シリーズ(計95種)を出版し始める。清親は、その西洋画風を取り入れたそれまでの浮世絵にはなかった新しい空間表現、水や光の描写と郷愁を誘う感傷が同居した独自の画風が人気を博し、浮世絵版画に文明開化をもたらした。
しかし明治14年(1881年)の両国の大火後、清親は光線画から遠ざかり、翌年から『團團珍聞』などに「清親ポンチ」なるポンチ絵を描くようになった。また『日本外史之内』などの歴史画や、広重に回帰する『武蔵百景之内』(明治17-18年、全34図)、『東京名勝図会』(明治29-30年、全28図[5])、新聞や雑誌の挿絵など画域を広げていく。日清、日露戦争では戦争画を数多く描くが、その後錦絵の衰退により肉筆浮世絵を多く描くようになった。浅草小島町、山ノ宿、下谷車坂町に住み、上野、浅草を描いた絵も多い。清親は明治27年(1894年)から明治29年(1896年)までの間、「清親画塾」を開いている。明治31年(1898年)ころには錦絵版画が衰退期になって版画の仕事はほとんどなくなる。明治33年(1900年)夏、三女の奈津と福山、明石へ旅行し、秋に金沢へ赴き肉筆画を描くとともに、陶器に絵付けをする。明治34年(1901年)、『二六新報』社の主催した労働者懇親会に関連したため当局から注視され、後に同紙の新聞記事問題に関係して一時未決監に入れられた。同年、諏訪、岡谷へ旅行、肉筆画などを描いた。明治36年(1903年)、浅草、山の宿河岸52番地に転居した。
明治37年(1904年) 清親の妻が浅草花屋敷に店を借りて絵葉書、扇子絵を販売する。清親は日露戦争を題材とした戦争絵を翌年にかけて描く。明治39年(1906年)の日露戦争後は錦絵界は全く不振となり、同年7月から翌年5月まで弘前に滞在、肉筆画を描いた。また、麹町区富士見町5の16に転居した。明治40年(1907年)、60歳で東京府主催の東京勧業博覧会に「大火の図」を出品する。明治41年(1908年)自らの還暦を祝した千画会では、両国美術クラブで「福神の手踊」、「雷神の酒店」など1000点以上の絵を描き健筆ぶりを示している。明治42年(1909年)、牛込界隈の図を描く。明治44年(1911年)9月、清親は平塚雷鳥らが創刊した雑誌『青鞜』の編集委員を務めた。のちに持病のリウマチが高じ、清親は1914年(大正3年)に没した。享年68。法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院にあり、清親画伯之碑もある。清親の弟子に同じく光線画を描いた井上安治、ポンチ絵や戦争画を描いた田口米作、また詩人として知られる金子光晴、30年間に渡って師事した土屋光逸、珍品収集家として知られる三田平凡寺、武田広親、篠原清興、吉田美芳、高橋芝山、牧野昌広らがいる。
清親は江戸から東京への絵画の変遷を体現した画家として注目され、浮世絵の歴史は清親の死によって終わったともいえる。清親は、生前から現在まで常に研究対象として常に一定以上の関心を払われており、近年ようやく本格的な研究が進みつつある明治期の浮世絵師のなかでは異例のことであった。
親族
最初の妻きぬは鷲津村の農家の次女で、明治3年4月に清親と結婚、明治9年の4月に正式に結婚した。明治11年11月11日に長女の銀子が、明治14年に次女の鶴子が生まれている。明治16年にきぬと離婚し、明治17年に田島芳子と結婚する。明治19年8月15日に三女の奈津子が生まれ、明治23年に四女のせい子が生まれた。明治27年11月14日には五女の哥津子が生まれている。五女の哥津は仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に在学中に平塚雷鳥の『青鞜』の同人となり、伊藤野枝、尾竹紅吉(尾竹越堂娘)らと同誌の編集に携わった。
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本来浮世絵らの版画作品はあまり額に入れて保存しません。それは額に入れて飾っておくと日焼した部分にマットの跡がついたりするからです。版画の顔料は変色しやすく、シミ抜きなどの修復も難しいからです。
また裏打ちなどしては評価が下がるのでしないものです。額に入れて飾る場合は短期間しか飾らないということが必要でしょう。版画はタトウに入れてそのまま保管しておくのが一番でしょう。
当方ではそのような理由から額には入れますが、飾る期間は短期間のみとしています。
額に入れるのはあくまで保管上の理由からですが、額には黄袋と中身の解るようにしておくことが必要です。タトウは誤って作品を落とさないため、黄袋はタトウから作品を取り出しやすくするためです。タイトルは一定方向に行い、必ず棚に収納する場合は縦横2方向から作品が解るようにすることです。
スキーもそりも同じ、物事にはコツというものが必ずあります。コンスタントに継続的に行うことが必要ですね。