本ブログで投稿されている「大日本魚類画集」は、昭和12年(1937)~昭和19年(1944)にかけて全6輯(しゅう)72点が制作・出版された魚の版画集です。原画を担当したのは、「魚の画家」といわれた大野麥風で、彫師・摺師も当時一級の腕を持った人物が携わっていたようです。
本日投稿するのは「車海老」と「カツオ」の2作品ですが、ともに雲母摺を効果的に用いられている作品です。
大日本魚類画集 NO70 車海老 大野麥風画 第2輯
紙本淡彩額装 版画 1938年12月第5回
画サイズ:縦280*横400
残念ながら雲母摺のきらきらした感じは写真ではうまく撮れず、実物以外には感じることはできそうにありません。
そのせいで展覧会では刷りの良さがよく分からないと図集の購入を取り止めた人も多いようです。
色彩のグラデーションも細かく丁寧につけられていますが、これも実物でないとよくわかりませんね。
主に彫師は大阪右衛門町在の名人・藤川象斎(ふじもとぞうさい)、主な摺師の方はは、禰宜田万年(ねぎたまんねん)と光本丞甫(みつもとじょうほ)とされています。
図集に掲載の作品は下記の写真のとおりです。
本作品と図集の作品は同じ彫師と摺師のもののようです。
図集の説明は下記の通りです。
車海老のついては下記の通りです。
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クルマエビ:和名は腹を丸めた時に、しま模様が車輪のように見えることに由来する。
日本では古来、重要な漁業資源として、刺し網、底引き網などで漁獲されてきた。伊勢湾、有明海など大規模な干潟や内湾を抱える地域に多産し、愛知県、熊本県の県の魚に指定されている。ほぼ1年を通して漁獲されるが、特に夏の漁獲が多く、旬も初夏から秋とされている。
死ぬと急速に傷んで臭みも出るが、オガクズの中に詰め、湿度を保っておくと長時間生かしておけるので、この状態で出荷・流通が行われる。料理法は塩焼き、天ぷら、エビフライ、唐揚げ、刺身など多種多様で、味もよく、高級食材として扱われる。加熱した方が旨みと歯ごたえが増す。エビ類では最も早く養殖技術が確立された。クルマエビは他種のエビよりも蛋白質とビタミンの要求量が高く、配合飼料も高価である。
本種の価格が他種に比べ下落しないのは、以下の要因がある。
1.生産技術が高レベルで海外へ技術輸出できない。
2.高価な飼料を要する上、飼育が困難(死に易い)な為、海外養殖での大量生産に向かない。
3.国内に根強く継続操業する養殖業者が多く、「活き」流通が崩れていない為、冷凍輸入の市場が拡大しない。
4.アミノ酸系(旨み)が他種より優れている為、高級店からの需要が強い。
正面から見るとまるでエイリアン・・。
版画でもうまく表現されています。
次はカツオの作品です。
当時、浮世絵の衰退で職を失っていた名人たちに、もう一度ふさわしいお仕事を用意できたことは、版元の社長である品川清臣は「胸が高鳴った」と言います。この版画が日本版画の最初で最後の集大成といって過言ではないでしょう。
大日本魚類画集 NO88 カツオ 大野麥風画 第3輯
紙本淡彩額装 版画 1940年5月第9回
画サイズ:縦280*横400
また、色の濃淡などによって手前にいるカツオと奥にいるカツオをものの見事に表現しています。
この作品に限らず海中を悠々と魚が、色鮮やかに活き活きと表現されています。まるで筆で描かれたようなこの作品は版画であることを忘れるほどです。
大野麥風は、泳ぐ魚の姿を見るために、戦前はまだ珍しかった水族館に足を運びました。また、より正確な魚の色彩と生活環境を知るために潜水艦に乗り込み、実際に海の中を泳いでいる姿を観察したそうです。そのような熱意と努力のもとにうまれた本作は、まさしく「本邦初の魚類生態画」の名にふさわしいものとなっています。実物を目にすると、その色鮮やかさや緻密さがより伝わってきます。
本物の魚に近い色鮮やかさや緻密さを実現するために、何度も摺りを重ね、麥風本人も彫師や摺師に対する注文を摺らせて、見本に細かく注文を記述したそうです。
実際に下絵や試し刷りした作品も市場にたまに出回っています。
下記の写真が図集に掲載されている作品です。
この作品も図集と同じ彫師と摺師のようです。
「カツオ」といったら初ガツオ・・。
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初鰹は港によって時期がずれるが、食品業界では漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期(4月 - 6月頃)をもって毎年の「初鰹」としており、消費者にも浸透している。
南下するカツオは「戻り鰹」と呼ばれ、低い海水温の影響で脂が乗っており、北上時とは異なる食味となる。戻り鰹の時期も港によってずれがあるが、一般的には秋の味として受け入れられている。
北上から南下に転じる宮城県・金華山沖では、「初鰹」と言っても脂が乗っているため、西日本ほどの季節による食味の違いがない。また、南下は海水温に依存しており、陸上の気温との違いがあるため、秋になった頃には既にカツオはいない。
日本では古くから食用にされており、大和朝廷は鰹の干物(堅魚)など加工品の献納を課していた記録がある。カツオの語源は「身が堅い」という意で堅魚(かたうお)に由来するとされている。「鰹」の字も「身が堅い魚」の意である。
鰹節(干鰹)は神饌の一つであり、また、社殿の屋根にある鰹木の名称は、鰹節に似ていることによると一般に云われている。戦国時代には武士の縁起かつぎとして、鰹節を「勝男武士」と漢字をあてることがあった。織田信長などは、産地より遠く離れた清洲城や岐阜城に生の鰹を取り寄せて家臣に振る舞ったという記録がある。鎌倉時代に執筆された『徒然草』において、吉田兼好は鎌倉に住む老人が「わたしたちの若かった時代では身分の高い人の前に出るものではなく、頭は下層階級の者も食べずに捨てるような物だった」と語った事を紹介している(『徒然草』第119段)。
初ガツオ:江戸時代には人々は初鰹を特に珍重し、「目に青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」という山口素堂の俳句は有名である。この時期は現代では5月から6月にあたる。殊に江戸においては「粋」の観念によって初鰹志向が過熱し、非常に高値となった時期があった。「女房子供を質に出してでも食え」と言われたぐらいである。1812年に歌舞伎役者・中村歌右衛門が一本三両で購入した記録がある。江戸中期の京都の漢詩人・中島棕隠は「蚊帳を殺して鰹を買う食倒れの客」(蚊の季節に蚊帳を金にかえてでも鰹を買う)と江戸の鰹狂いを揶揄する詩を遺している[4]。庶民には初鰹は高嶺の花だったようで、「目には青葉…」の返歌となる川柳に「目と耳はただだが口は銭がいり」「女房を質に入れても初鰹」「初鰹女房は質を受けたがり」といったものがある。このように初鰹を題材とした俳句や川柳が数多く作られている。ただし、水揚げが多くなる夏と秋が旬(つまり安価かつ美味)であり、産地ではその時期のものが好まれていた。
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魚の版画以外にも「近代魚類分類学の父」と言われた東京帝国大学教授・田中茂穂と著名な釣り研究家・上田尚による魚の解説がこのシリーズの各作品には付属していますが、 作品を包んでいたタトウ、この解説書、作品が載っていた台紙、そして定期的に発行されていた月報が揃って完全な揃いとなります。
このシリーズの蒐集は意外に時間と労力とコストがかかるようです。
前半に発行された第1号から第3号までの作品はまだ入手可能なのですが、第4号以降の作品は第2次世界大戦の頃となり、発行部数も減り、健全な状態での作品の入手が非常に難しく、当方の蒐集も断念せざる得ないかもしれません。
上記写真の屋根裏に蒐集された作品が保管されています。照明は暗く(ほとんど照明はつけない)、空調管理(湿度管理)をきちんとしておくことが保全には肝要ですね。