
代々伝わる刀剣の整理も手入れのみになってきました。順繰りに展示しては手入れをしています。

子々孫々まで伝えるということは並大抵のことではありません。登録・鑑定資料、維持する費用・方法をきちんと伝えて整理しております。

ところで高倉健が刀剣が好きだったということをご存知の方は少ないように思います。

週末に行きつけの理髪店で雑誌を読んでいたらそのことに触れている記事を見つけました。知らなかった知識との出会いはいろんなところであるというの骨董という趣味の面白さです。なんと理髪店では本を貸してくるというので、ご好意に甘えて次の来店まで借りてきました。
高倉健さんの次のような言葉が記事に載っています。
「父が縁側に座って刀の手入れをしている後姿がとても頼もしく、またとてつもなく好きだった。今にして思えば父と刀がオーバーラップして、日本の魂を象徴する刀の魅力にとりつかれていたのかもしれない。」
「日本刀は心が安らぐんですよ。夜中に引っ張り出して、すーっと抜き身にして、ぽんぽんって打ち粉を打って、眺めます。刃物というのはただの道具なのですが、日本刀だけはそんな機能を通り越した美しさを持っているように思います。」

人間国宝であった宮入小左衛門行平刀匠と交流のあった高倉健さんが、宮入小左衛門行平刀匠が亡くなった後に建てられ、作品の多くを展示している長野県坂城町の「鉄の展示館」に寄贈した日本刀のひとつが上記の刀剣とのことです。
さて本日は日本刀の展示した脇の掛けてある葡萄の画家と言われた天龍道人の作品です。
葡萄図-21 天龍道人筆 その33
紙本水墨軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1806*横630 画サイズ:縦1291*横574
二階の展示室に掛けてみました。この季節はエアコンの大活躍ですが、欄間の材料でエアコンの目隠しをしています。この欄間のエアコンの目隠しは取り外しが可能になっています。

弓野焼の甕に明末赤絵の皿・・、明末呉須赤絵の鉢が最近の「なんでも鑑定団」に出品され、なんと鑑定金額が50万・・・
当方には明末呉須赤絵の鉢が三点、本ブログでも紹介していますが、作品は出品作品より時代が古く、赴きも良い作品ですが、その値段なら即売りますね

天龍道人の作品は久し振りの紹介ですが、なかなか入手するにも機会が少なくなりました。
また入手可能でも、状態の良い作品がさらに少なくなりました。本作品も虫食いがあり、軸先も片側が欠損しています。

改めて天龍道人の来歴を紹介します。
**************************
天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。
44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。
50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。
天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多く制作しています。文化7年(1810)歿、93歳。
*************************
見過ごしてしまいそうな墨一色の作品・・。

以前にも紹介していますが、天龍道人の作品に対する評価の記事を引用しておきます。
**************************
補足説明
信州の諏訪湖畔で西の方角を見ては、遠く離れたふるさとを思う老爺がいた。「鹿城(ろくじょう)は余の故郷なり」と副題がつく漢詩で詠んでいる。諏訪湖を水源とする川にちなみ、晩年は天龍道人と名乗った。不遇の人である。

約300年前に鹿島鍋島藩の家老の子として生まれたが、藩主家の後継ぎ問題に父が巻き込まれ、改易となって流浪の人生が始まる。40代は京都で尊王論者とも交わった。93歳で亡くなるまで後半生を信州で過ごした。

江戸文化の研究者で文化功労者の中野三敏さん(武雄市出身)が、『江戸文化評判記』(中公新書)で、肥前が生んだ風流人として、煎茶(せんちゃ)道の祖とされる高遊外売茶翁(ばいさおう)とともに挙げている。

「道人の名を不朽にしたのは、勤王の志ではなく葡萄(ぶどう)と鷹の絵事による。特に葡萄は絶品で、肉筆の大作も多く伝世する。画業にいそしむのは50歳を過ぎてから。道人は10代で鹿島を離れ、二度と戻ることはなかった。時代や理由を思えば、帰郷は許されることではなかったのだろう。今やその名を知る人は地元でも少ない。」

**************************
本作品は八十八歳の最晩年の作で、いわゆる「枯淡の作」と称せられる作品です。天龍道人の作品の中でも秀作と言えるでしょう。

掛け軸は見上げるようにして鑑賞してもよいように描かれているものです。大幅の作品は少し見上げて鑑賞すると新たな感動がありものです。

「天龍道人八十八年筆」とあり、印章には「天龍王瑾印」の白文朱方印と「□号観自在」(「葡萄図-18 八十五歳の作」と同一印章)の朱文白方印が押印されています。

この作品は痛みがあり、保存箱もありません。表具はうぶなままが良いの思いますが、軸先を取り替えて、虫食いを裏から補修し、紐を交換して保存箱を誂えてみようと思っています。
墨一色の世界が日本刀には良く似合います。当方の作品は寄贈してみていただくほどの作品でもないのですが、せめて子々孫々まで伝えるべく、皆が寝静まった頃におもむろに抜き身にして、打ち粉をぽんぽんと・・・。

我が家の高倉健は雛人形の刀剣?がお気に入りのようです。

子々孫々まで伝えるということは並大抵のことではありません。登録・鑑定資料、維持する費用・方法をきちんと伝えて整理しております。

ところで高倉健が刀剣が好きだったということをご存知の方は少ないように思います。

週末に行きつけの理髪店で雑誌を読んでいたらそのことに触れている記事を見つけました。知らなかった知識との出会いはいろんなところであるというの骨董という趣味の面白さです。なんと理髪店では本を貸してくるというので、ご好意に甘えて次の来店まで借りてきました。
高倉健さんの次のような言葉が記事に載っています。
「父が縁側に座って刀の手入れをしている後姿がとても頼もしく、またとてつもなく好きだった。今にして思えば父と刀がオーバーラップして、日本の魂を象徴する刀の魅力にとりつかれていたのかもしれない。」
「日本刀は心が安らぐんですよ。夜中に引っ張り出して、すーっと抜き身にして、ぽんぽんって打ち粉を打って、眺めます。刃物というのはただの道具なのですが、日本刀だけはそんな機能を通り越した美しさを持っているように思います。」

人間国宝であった宮入小左衛門行平刀匠と交流のあった高倉健さんが、宮入小左衛門行平刀匠が亡くなった後に建てられ、作品の多くを展示している長野県坂城町の「鉄の展示館」に寄贈した日本刀のひとつが上記の刀剣とのことです。
さて本日は日本刀の展示した脇の掛けてある葡萄の画家と言われた天龍道人の作品です。
葡萄図-21 天龍道人筆 その33
紙本水墨軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1806*横630 画サイズ:縦1291*横574
二階の展示室に掛けてみました。この季節はエアコンの大活躍ですが、欄間の材料でエアコンの目隠しをしています。この欄間のエアコンの目隠しは取り外しが可能になっています。

弓野焼の甕に明末赤絵の皿・・、明末呉須赤絵の鉢が最近の「なんでも鑑定団」に出品され、なんと鑑定金額が50万・・・



天龍道人の作品は久し振りの紹介ですが、なかなか入手するにも機会が少なくなりました。

また入手可能でも、状態の良い作品がさらに少なくなりました。本作品も虫食いがあり、軸先も片側が欠損しています。

改めて天龍道人の来歴を紹介します。
**************************
天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。
44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。
50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。
天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多く制作しています。文化7年(1810)歿、93歳。
*************************
見過ごしてしまいそうな墨一色の作品・・。

以前にも紹介していますが、天龍道人の作品に対する評価の記事を引用しておきます。
**************************
補足説明
信州の諏訪湖畔で西の方角を見ては、遠く離れたふるさとを思う老爺がいた。「鹿城(ろくじょう)は余の故郷なり」と副題がつく漢詩で詠んでいる。諏訪湖を水源とする川にちなみ、晩年は天龍道人と名乗った。不遇の人である。

約300年前に鹿島鍋島藩の家老の子として生まれたが、藩主家の後継ぎ問題に父が巻き込まれ、改易となって流浪の人生が始まる。40代は京都で尊王論者とも交わった。93歳で亡くなるまで後半生を信州で過ごした。

江戸文化の研究者で文化功労者の中野三敏さん(武雄市出身)が、『江戸文化評判記』(中公新書)で、肥前が生んだ風流人として、煎茶(せんちゃ)道の祖とされる高遊外売茶翁(ばいさおう)とともに挙げている。

「道人の名を不朽にしたのは、勤王の志ではなく葡萄(ぶどう)と鷹の絵事による。特に葡萄は絶品で、肉筆の大作も多く伝世する。画業にいそしむのは50歳を過ぎてから。道人は10代で鹿島を離れ、二度と戻ることはなかった。時代や理由を思えば、帰郷は許されることではなかったのだろう。今やその名を知る人は地元でも少ない。」

**************************
本作品は八十八歳の最晩年の作で、いわゆる「枯淡の作」と称せられる作品です。天龍道人の作品の中でも秀作と言えるでしょう。

掛け軸は見上げるようにして鑑賞してもよいように描かれているものです。大幅の作品は少し見上げて鑑賞すると新たな感動がありものです。

「天龍道人八十八年筆」とあり、印章には「天龍王瑾印」の白文朱方印と「□号観自在」(「葡萄図-18 八十五歳の作」と同一印章)の朱文白方印が押印されています。


この作品は痛みがあり、保存箱もありません。表具はうぶなままが良いの思いますが、軸先を取り替えて、虫食いを裏から補修し、紐を交換して保存箱を誂えてみようと思っています。
墨一色の世界が日本刀には良く似合います。当方の作品は寄贈してみていただくほどの作品でもないのですが、せめて子々孫々まで伝えるべく、皆が寝静まった頃におもむろに抜き身にして、打ち粉をぽんぽんと・・・。

我が家の高倉健は雛人形の刀剣?がお気に入りのようです。