
浅間山 森田曠平筆
紙本着色額装15号 左下落款・印章
全体サイズ:縦700*横840
画サイズ:縦530*横660
大原女などの画で人気のある森田曠平の山の絵です。
当然、女性の絵のほうが人気がありますが、私はこの絵が好きで購入

真贋は相変わらず不明
信用のあるところからの入手ですが、落款が全盛期とはちと違う・・・
でも贋作とは決め切れませんね
この辺を徐々に確かめていくのが面白いところ・・・でもあまり細かいことにはこだわらないほうがいい・・・プロではないのですから
あくまでも趣味・・・仕事に景気づけするもの
お気に入りですが・・浅間山??
居間に鎮座

参考作品です・・・あまりにも画一的な女性美の表現は飽きが来る・・美人は三日で飽きがくる・・

森田曠平:(1916-1994)京都市生まれ。幼少から体が弱く、初め
洋画を学び昭和10年第1回京都市展に入選するが、病気が再発。
京都市立絵画専門学校への進学を断念する。
1940年 小林柯白に師事し、日本画を学ぶ。
1943年 第30回院展初入選。翌年より安田靫彦に師事する。
1946年 第31回院展入選(~’48年)
1956年 多摩美術大学日本画家助教授となる
これより院展奨励賞を重ね、1964年 第49回院展にて奨励賞
(白寿賞)を受賞、日本美術院特待となる。その後も院展で日本
美術院賞(大観賞)などを重ね、’68年 第53回院展で日本美術院賞(大観賞)を受賞、日本美術院同人となる。
1970年 最初の個展を開催、’48年 第58回院展で文部大臣賞を受賞、’83年国立能楽堂の鏡板を完成させる。
1994年 逝去。享年78。
紙本着色額装15号 左下落款・印章
全体サイズ:縦700*横840
画サイズ:縦530*横660
大原女などの画で人気のある森田曠平の山の絵です。
当然、女性の絵のほうが人気がありますが、私はこの絵が好きで購入


真贋は相変わらず不明

信用のあるところからの入手ですが、落款が全盛期とはちと違う・・・

でも贋作とは決め切れませんね

この辺を徐々に確かめていくのが面白いところ・・・でもあまり細かいことにはこだわらないほうがいい・・・プロではないのですから

あくまでも趣味・・・仕事に景気づけするもの

お気に入りですが・・浅間山??

居間に鎮座


参考作品です・・・あまりにも画一的な女性美の表現は飽きが来る・・美人は三日で飽きがくる・・


森田曠平:(1916-1994)京都市生まれ。幼少から体が弱く、初め
洋画を学び昭和10年第1回京都市展に入選するが、病気が再発。
京都市立絵画専門学校への進学を断念する。
1940年 小林柯白に師事し、日本画を学ぶ。
1943年 第30回院展初入選。翌年より安田靫彦に師事する。
1946年 第31回院展入選(~’48年)
1956年 多摩美術大学日本画家助教授となる
これより院展奨励賞を重ね、1964年 第49回院展にて奨励賞
(白寿賞)を受賞、日本美術院特待となる。その後も院展で日本
美術院賞(大観賞)などを重ね、’68年 第53回院展で日本美術院賞(大観賞)を受賞、日本美術院同人となる。
1970年 最初の個展を開催、’48年 第58回院展で文部大臣賞を受賞、’83年国立能楽堂の鏡板を完成させる。
1994年 逝去。享年78。
岩手県江刺市の解体業者から一幅購入したことがあります。ただ、売りに出して居間しまいました
見せて頂く機会があるといいですね。
英一蝶は贋作だらけですので要注意
掛け軸は床の間に飾り、気分を和らげてあげないと・・・
天袋の湿気は大丈夫??
野村文挙(のむらぶんきょ)〈1854~1911〉:安政元年、京都に生まれる。幼名は松太郎。字(あざな)は子融。画人の雅号としては、文挙のほかに右泉、福吉翁などとも号した。14歳で梅川東挙に学び、その後塩川文麟に師事、明治22年学習院教授となる。文挙の画は、円山四条派の写生画に近代的描法を加味し、近代的風景画のさきがけとして評価が高い。明治40年に文展が創設されると、2回展から審査員をつとめましたが、明治44年1月24日、58歳の生涯を閉じた。文挙は、京都の伝統的な円山・四条派の写生画に、写実を重んじる近代的描法を加味した風景画作品を得意とし、そこには江戸時代後期の写生画を脱皮した『近代的風景画』への確かな歩みが現れています。その神髄は、彼の弟子である山元春挙らへと引き継がれてゆき、近代京都画壇の基礎を築いた。
ほとんどが福吉翁 野村文擧の烙印があり、文擧が曾祖父に宛てた書文を初めて見ました。
旅順の戦云々・・・と内容は分かりません!
どのような関係だったのか興味津々です。
英一蝶・・・の竹の繪もありましたが、文擧に比べて何か風情を感じることができません。
改めて掛け軸を見てみると、なんか良いものですね!