11月の週末は箱根まで一泊。家内の急な旅館の手配ですが、ちょっと古風な*旅館に泊まりました。木戸孝允、大久保利通、三条実美らの書に囲まれた特別部屋?に泊まりましたが、その旅館の紹介の図録に寺崎廣業の作品が紹介されていました。
その旅館に泊まった明治34年4月28日の作のようです。酔って求めに応じて描いた作品との説明です。旅館の方にお尋ねしたら「よくご存知ですね~」だと・¥・・・。
本日は本ブログでおなじみにその寺崎廣業の作品です。
秋景山水図 寺崎廣業筆 その52
絹本水着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2140*横554 画サイズ:縦1205*横412
共箱もなく、むろん鑑定もありませんが、現時点ではこれは寺崎廣業の作に相違ないと判断しました。なお本ブログで数多くの寺崎廣業の作品を紹介していますが、そのずべてが真作とは判断できません。非常に贋作が多い画家ですし、明らかな贋作は投稿していませんが、非常に際どい作品が紛れ込んでいるようです。
本作品の製作年代は、落款から判断して大正時代の作と推察されます。印章は「*騰竜軒」の白文朱楕円印が押印さています。
*騰竜軒は寺崎廣業が居する所の名前でもあります。
*明治34年5月に自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から画室名「騰竜軒」、別名「天籟山人」をもらい、画塾の名称も宗山画塾を「天籟画塾」と改称しています。よって本作品は明らかに明治34年以降の作です。
*箱根で宿泊した旅館は「福住旅館」といい、福沢諭吉が懇意にしていた旅館です。最近紹介した川合玉堂の明治33年の作の作品の巻き止めに「「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」の「小湖誌」とあったのは小野湖山の可能性があるのかな?
つまり寺崎廣業、小野湖山、福沢諭吉、川合玉堂とが関連する・・、蒐集する者は妄想にとらわれず、現実だけを見るべきですが、こういう想像から検証していくことも大切かと・・。
琳派風の画風がうかがえ、手前に紅葉、その上部に川、そして霞、遠景に山岳の大胆な構図と色使いは晩年に風景画を得意とした寺崎廣業の真骨頂といえる作品でしょう。
琳派風の表現に寺崎廣業が取り組んでいたことはあまり知られていませんが、現在、秋田市立美術館で公開されている展覧会には新たに発見された「春秋花卉図」(二曲一双)の作品が紹介され、琳派の画風に取り組んだ作品として展示されています。
この作品は依頼されて気軽に描いた作品に相違ないように思われます。大正期には信州の別荘に毎年のように赴いており、信州の秋の景色を描いた作品でしょう。
ご存知のように大正期になると、寺崎廣業は風景画がメインの画家となります。大正元年に横山大観と競作となった有名な「潚湘八景」が契機となっています。この作品は偶然に同題の作となり、その背景には横山大観とともに中国を遊歴したことがあります。
山水を描くようになった理由は幾つかあるようですが、岡倉天心に「山水を学ばねば筆が伸びぬ」と言われたことに啓発されたことも理由のひとつで、明治30年半ばから山水画の研究に没頭します。
中国遊歴では中国画の峨々たる山は胡蝶ではなく実景であることに感動し、以後は南画風の写生的表現を画業の中心に置くようになります。
掛け軸から学ぶこと、推察することは限りなくありますが、無頓着ならなにも気がつかないで終わるのも事実です。
さて、真贋はともかく50以上の作品が蒐集されましたので、同時期の作風を比較してみました。
その旅館に泊まった明治34年4月28日の作のようです。酔って求めに応じて描いた作品との説明です。旅館の方にお尋ねしたら「よくご存知ですね~」だと・¥・・・。
本日は本ブログでおなじみにその寺崎廣業の作品です。
秋景山水図 寺崎廣業筆 その52
絹本水着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦2140*横554 画サイズ:縦1205*横412
共箱もなく、むろん鑑定もありませんが、現時点ではこれは寺崎廣業の作に相違ないと判断しました。なお本ブログで数多くの寺崎廣業の作品を紹介していますが、そのずべてが真作とは判断できません。非常に贋作が多い画家ですし、明らかな贋作は投稿していませんが、非常に際どい作品が紛れ込んでいるようです。
本作品の製作年代は、落款から判断して大正時代の作と推察されます。印章は「*騰竜軒」の白文朱楕円印が押印さています。
*騰竜軒は寺崎廣業が居する所の名前でもあります。
*明治34年5月に自宅の床の間の壁際から筍が芽を出し、これに因んで漢詩人小野湖山から画室名「騰竜軒」、別名「天籟山人」をもらい、画塾の名称も宗山画塾を「天籟画塾」と改称しています。よって本作品は明らかに明治34年以降の作です。
*箱根で宿泊した旅館は「福住旅館」といい、福沢諭吉が懇意にしていた旅館です。最近紹介した川合玉堂の明治33年の作の作品の巻き止めに「「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」の「小湖誌」とあったのは小野湖山の可能性があるのかな?
つまり寺崎廣業、小野湖山、福沢諭吉、川合玉堂とが関連する・・、蒐集する者は妄想にとらわれず、現実だけを見るべきですが、こういう想像から検証していくことも大切かと・・。
琳派風の画風がうかがえ、手前に紅葉、その上部に川、そして霞、遠景に山岳の大胆な構図と色使いは晩年に風景画を得意とした寺崎廣業の真骨頂といえる作品でしょう。
琳派風の表現に寺崎廣業が取り組んでいたことはあまり知られていませんが、現在、秋田市立美術館で公開されている展覧会には新たに発見された「春秋花卉図」(二曲一双)の作品が紹介され、琳派の画風に取り組んだ作品として展示されています。
この作品は依頼されて気軽に描いた作品に相違ないように思われます。大正期には信州の別荘に毎年のように赴いており、信州の秋の景色を描いた作品でしょう。
ご存知のように大正期になると、寺崎廣業は風景画がメインの画家となります。大正元年に横山大観と競作となった有名な「潚湘八景」が契機となっています。この作品は偶然に同題の作となり、その背景には横山大観とともに中国を遊歴したことがあります。
山水を描くようになった理由は幾つかあるようですが、岡倉天心に「山水を学ばねば筆が伸びぬ」と言われたことに啓発されたことも理由のひとつで、明治30年半ばから山水画の研究に没頭します。
中国遊歴では中国画の峨々たる山は胡蝶ではなく実景であることに感動し、以後は南画風の写生的表現を画業の中心に置くようになります。
掛け軸から学ぶこと、推察することは限りなくありますが、無頓着ならなにも気がつかないで終わるのも事実です。
さて、真贋はともかく50以上の作品が蒐集されましたので、同時期の作風を比較してみました。