郷里の男の隠れ家は雪を滑らせるための急こう配の大屋根ですので、2階の窓はすべてトップライトとなっています。
吹き抜けになっている部分は明るくなります。
故郷の山々や星を眺めることのできる天窓になっています。
回転するので掃除は楽です。ただし寒冷地仕様はペアガラスとなっており、経年によってはガラス交換が必要なようです。そろそろ築30年以上経過し、ガラスの交換やらメンテが必要となり、今回の年末年始の帰省前に修理してももらいました。ブラインドも劣化し、全部交換しています。
さて本日は週末ということもあり、ちょっと気軽な作品。郷土出身の画家で、本ブログでも紹介されており、本日で50作品目の紹介となる倉田松濤の作品の紹介です。家内も大好きなようで、家内と共に相談しながら蒐集しています。
非常に珍しい題材の作品です。
三聖図 倉田松濤筆 その50
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱入
全体サイズ:横581*縦2040 画サイズ:横407*縦1086
三聖:釈迦・孔子・キリスト。もしくは老子・孔子・釈迦。 古代中国の三人の聖人。ここでは釈迦・孔子・キリストのこと。
賛は塚原周造なる人物?によるもののようです。
******************************
塚原周造:1847.4.20(弘化4)~ 1927.9.14(昭和2)。幕末・明治・大正期の海事官僚、実業家。下総豊田郡(茨城県下妻市)出身。号は夢舟。江戸開成所、箕作塾、慶応義塾で学んだ。
1871年(明治4年)郵便制度の創始者である前島密の勧めで大蔵省管船課に入って、鎖国制度で遅れた日本の海事行政の整備を進めた。
1880年、前島密らと日本会員掖済会を創立。
1886年逓信省管船局長となった。当時、荒井郁之助が箱館(函館)で討ち死にした中島三郎助のために造船所の創設を提唱しており、榎本武揚がそれに賛同したが、現職閣僚(農商務大臣)であったため表にでることができず、榎本の部下であった塚原に声がかかり、三人は会社設立に向け奔走した。 浦賀の豪商の臼井儀兵衛と緒明造船所社長の緒明菊三郎も参画し、五人による合資会社を設立。 その後、浅野総一郎(後の浅野セメント社長)らも参加し、
1897年、日本で最初のドライドックとして浦賀船渠(ドック)株式会社(東洋汽船)を設立した。 船舶、舶用汽機等の造修を目的として、資本金100万円で設立。発起人の荒井は会社設立が決定するや、社長を塚原に譲り、監査役となった。 塚原は1896~1903年まで社長を務めた。なお、浦賀船渠代表を務めたのは浅野総一郎の他に、山下亀三郎、多賀寛らがいる。
日本海員掖済会理事長、帝国水難救済会理事を歴任。郷里に茨城県育才会を設立した。著書に『水難救済事業』、
1925年に塚原周造氏海事関係五十年紀年祝賀会委員が編集発行した『塚原夢舟翁』がある。
享年81歳。戒名は寒翠院殿慈浪夢舟大居士。
******************************
ともかく愉しい作品を描く倉田松濤・・・、難解な賛にはほとほと参りますが、単身で上京し、絵筆で身を立てるのは当時はさぞ苦労したのでしょう。現代ながら、同郷で50歳過ぎてから上京した当方にも解かる気がします。ともかく東京は田舎者には冷たい風の吹く都会です。