夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

古清水焼? 草花図手持付五連珍味入

2024-11-10 00:01:00 | 陶磁器
本ブログにて幾度か紹介している「古清水焼」に分類される作品群ですが、清水焼は古くある焼き物なので、「古清水焼」との一線を画する判断が難しいものです。本日紹介する作品もまた判断の難しい作品と思われますので「古清水焼?」としての投稿記事となりますことはぼ了解ください。



古清水焼? 草花図手持付五連珍味入
釉薬剥落有 金継補修有 合箱
全体最大幅215*奥行135*高さ125



「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。 一般的には、野々村仁清以後から奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称するものとされています。



京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。



御存じのように野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されてきました。  



京都の色絵陶磁器の歴史を振り返ると、まずは粟田口の窯にはじまる京都の焼物となりますが,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花します。

仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。



乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。



町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,多くの人々が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。



そのような状況下で五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。江戸初期には,肥前有田などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。



そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。



*釉薬の剥離部分には当方で簡単な金繕いを施しています。

幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。



以上が京焼の主な変遷ですが、「古清水」という分類は冒頭に記述のように
1.「制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称」、
2.さらには「野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器」
となるようですから、明治以降の作品は基本的に「古清水焼」とは分類されないことからその見分けは一連の京焼の変遷の中では非常に難しいものとなっています。少なくても近代のものとは区別する必要があるのでしょう。

明治以降の近代作からの見分け方は下記のような点にあるようです。
 
1.近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしている。
2.近代の釉薬では文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えている。古いものはそのようなことはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感がある。特に古い赤はもっとどす黒さに近い濃い赤。
3.土は硬くてすべすべしているが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするもの。
4.高台の裏などに窯印はない。窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別できる。

以上の観点から本作品は「古清水焼」に分類される作品かと推定していますが確証はありません。いずれにしても珍しい器形の瀟洒な作品であり、実用性もありそうです。

加藤唐九郎は「京焼は化粧くさい」と評していましたが、個人的な好みもあるでしょうが、基本的に当方でも近代作の京焼にはうんざりしています。料理に揃いの京焼が出てきただけで食欲が失せてしまいます。それに比して古清水焼には時代の味というものがあり、それらしき作品に出合うとついつい入手してしまうのですが、近代作との一線があいまいなために失敗することもあります。























最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。